「脳と仮想」茂木健一郎著    ー読書日記
ー印象に残った部分を抜粋してみるー

・広大なグランドキャニオンの前に立とうが、北極のオーロラを見上げようが、体験する広大の光景は全て脳内現象である。
世界に脳だけあるといっているのではない。そんなことは当然のことだが、外部から入った刺激に基づいて脳のニューロン
活動しなければ、我われは広大の宇宙を表象することはできない。逆に、もし広大な宇宙が無くても、脳の中で
ニューロンがある時空的な様式で活動すれば、私たちは広大な宇宙を表象することになる。もしそうなら、逆理が浮かび上がる。
もし私たちが体験することが全て脳内現象なら、私たちは何故、広大な宇宙を思い浮かべることが出来るのか?
いかに、私たちの思い描く世界は、脳内現象として一リットルの空間に閉じ込められていながら、無限定の空間を志向する
ことができるのか? ・・・「熊本より東京の方が広い。東京より日本のほうが広い。日本より・・・」で切ったが、
三四郎に男はいった「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と。
・「真理がどこにあるかといえば、それは仮想の世界にあるというしか言いようがない。どこかの博物館に、
これが真理でございますと飾ってあるわけがないのである。
私たちの精神の中枢に仮想がある。そのように考えると、「見る」ということの本質も違って見えてくる。
・現実のどこにもない仮想は、現代人の心の中でも中枢の位置を占めている。
私たちの精神は、頭蓋骨の中の「今、ここ」の局所的因果性の世界と、「今、ここ」に限定されない仮想の世界に
またがって存在する。 私たちの精神は、本来的に二重国籍者なのである。
・脳内に閉じ込められているだけでなく、心の本質的な属性をとらえた概念が「志向性」である。
志向性とは、心が何かに向けられた状態をいう。そこに心が
・私が恥じたのは、人間がそもそも生きものであり、それであるがゆえに、厳しい生存条件に置かれてきたことを
理屈で判っていても、感覚的に忘れていたことである。つまり文明に飼いならされていたのである。
真実は恐ろしい姿をしている。 人間は、なぜ、「平和」という仮想を生みださなければならなかったのか。
「愛」という仮想を生み出さなければならなかったのか。
平安仏教を特徴付ける「極楽浄土」というヴィジョンは、どのような生の必然性から生み出されたのか。・・・
私たちの意識の中で生み出される様々な仮想は、このうえなく厳しい人間の生存の中で、私たちの心が傷つき、
その傷が治癒される際に放射される光のようなものはなかったか。
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考えてみたら、自分に対しても、頭に浮かんで考えている相手にしても、社会も、全て「仮想」でしかない。
「精神の中枢に仮想がある」と自覚すると、良きにつけ悪くにつけ仮想している自分を見ている自分も
仮想ということに気づく。自分の頭蓋骨の中の一リットルの脳は自分でさえ得体の知れない世界である。