2006年12月23日(土)
2090, 人生は生きるに値するか?
     b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪よう♭さん♯

『人生が生きるに値するかどうか』は、哲学上最大の問題になる。
値しないとして自殺した作家も多々いる。
思想家ではショーペンアウアーは『生きるに値しない!』と言い切った。
しかし彼は長寿であったが・・・!  

ショーペンハウアーのように値しないというなら、生きているだけ無駄として捨ててかかるしかない。
「生きるに値しないからこそ、価値あるものへ転換することが人生である!」
という情熱が湧いてくるか? それぞれの考え方があるだろう。

私の場合は、もちろん『生きるに値する』であるが、どうも世の中、どうもそうでもない人が多くいるようだ。
生きるに値するかどうかは、その人の生きかたであり「生きる意味を求めていけば、人生は生きるに値するのは当然」。
意味=価値であるから、「人生に意味をもとめること=人生に価値をもとめること」になり、
「求めよ、さらば与えられん」のとおり価値が出てくる。
「よく働き、よく学び、よく遊ぶこと、そして常に‘一歩日常から外に出る時間を持つこと’。
 この4つのそれぞれに価値を見出し、冷静に掘り下げていくこと」このことが「私の生きるの値する」論拠である。
                まあまあ、お茶どうぞ -^)_且~~~
まあ、そんな難しいことを言わないでも、「人生なんぞ『飯食て、糞して、死ぬだけ』じゃないか、
こんなもの!生きるに値してもしなくとも、それが何ほどのもの。
生前があり、生まれ、そして生き、生前に戻るだけ、他に美味い酒を飲んで、上さんの顔を見て幸せと思い、寝て、
楽しい夢でもみて、仕事を楽しんで、人生の価値など考えなければ、それで最高ではないか!」でよいものを。

そこでだ、「お前さんの人生は生きるに値した?」というと難しいから、
「人生で元とった?」と近くの遊び人だった不動産屋の親父(10年近く前に亡くなったが)に聞いたことがあった。
 よくぞ聴いてくれたという顔をして(´ー`)y-~~ 「とったとった十二分にとった!」という返事。

同じ質問を呆けて亡くなる前の母親に同じ頃したところ、やはり「充分すぎるほどとりました!」との返事。
「生きるに値するか」と、「生きた元をとったか」は確かに違う!
しかし、「生きるに値するか」の質問よりも人生の価値を考える時に深い問いになりまいか。
人生の元をとったか?はー充分人生を生きたか?と同じ。

ショウペンハウアーは、人生は生きるに値しないという嫌世家だが、その慰めは芸術で一時期でも
紛らわせることができるとした。 このような難しい問題を気楽に扱うこと自体に問題がある。
答えなどある訳がないのも解っている。しかし、これは生涯自問自答していかなければならない問題である。
しかし、あと三ヶ月の命と宣言され逃れようもない事態に追い込まれて
「貴方の人生、生きるに値したのですか?」と、
あと一週間で間違いなく死ぬ人に問われたら、真実どう思うだろうか?「  」しかないないだろ( ^3)〜♪
生きる価値があるかって?「真剣に生きてきた事実の前にそんな愚問は質問に値しない!
クソして寝ろ!この馬鹿野朗!!」というのが、私の現在の答えである。《本当か?本当にそんなことが、いえるのか?》
 (-"-;)
《たいして真剣に生きてこない御前に相応しくない》と、心の奥の声が聞こえてくるが Ψ(`∀´)Ψケッ!
             ほんじゃ、ばいばい! o(^-'o)♪☆(o^-^)o〜♪
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