2003年12月19日(金)
989, 軽井沢の思い出

 現在書いている随想日記に「軽井沢」のことが頻繁に出てくる。 記憶の彼方のことが、今更のように思い出される。

 大学二年の秋に、隣の部屋の先輩から「OBの先輩がペアレントをしている軽井沢の山荘」のアルバイトに誘われた。
丁度、学生時代の生活に慣れて、寮とクラブだけの生活に辟易としていた時期で、丁度よいタイミングであった。
 仕事といえば、食事つくりと、掃除と、宿泊客の夜の遊び相手である。
若い女性が殆どで、フォークソングを一緒に歌い、ゲームをしたり、話相手になる。
初めての経験で夢のような毎日であった。卒業するまで連休や夏・冬休みなどに二年間ほど行っていた。
 早朝の朝もやの中、宿泊客とか同じヘルパーの女学生と散歩をするのが一番の楽しみであった。
並木道の木が重なり合っている「愛のトンネル」いや「「愛の小道」という絵に出てくるような場所もあった。
周囲は別荘や池やホテルなどがあり鳥のさえずりや雉の鳴き声が聞こえてきて、幻想的な小説の主人公になったような世界。
 そこで仲が良くなって東京で会ってもTPOSが違うのか、一度で夢破れたことが何回かあった。
夢は夢にしておくべきということを何度か再確認をした。 また久々に会う女学生が嬉しそうな顔をして走りよってくる姿が、
何ともいえない記憶として残っている。  何で誰とも結婚しなかったのだろうか、不思議で仕方がない。
両親の縛りから抜け出せなかったのだろう。いや??!まだ受け止められるだけのものが無かった。
 ところで話が変るが、そこの名前は「友愛山荘」であった。旧軽から歩いて7〜8分のところにあった。
政治家一族の鳩山家の政治団体「友愛」が、ボランティアで運営しているユースホステルであった。
今はもう「鳩山家」の別荘に変っている。 そのペアレントー山荘の責任者が、学生寮の先輩で「三浦満さん」あった。
結婚したてで、奥さんが明るい人で「波子さん」と言われて皆に慕われていた。 一歳の赤ちゃんがいた。
夜の「お遊びタイム」の後、三浦さんと酒を飲みながら政治や哲学など話すのも楽しみだった。
{ユースホステルでは、宿泊客をホステラーといい、アルバイトをヘルパー、マネジャー役の夫婦をペアレントという。}
 大学を卒業をしてから10年位の間2年に一度は遊びにいっていた。また私の結婚式には三浦夫妻に出席してもらった。
「海外旅行」「葉山」「留学」「軽井沢」「外車」ゼミ」などの言葉は学生時代の私の世界では、特別の響きがあった。
友人の何人かは外車のアルファロメオフォルクスワーゲンなどを乗り回していた。
貧乏(寮生活)と金持ち(欧州旅行で知り合った友人)の狭間で、目が回るような日々であった。
 今から考えてみると、あらゆる人と社会的なものを一切脱ぎ捨てて、裸で付き合えたのが学生時代の一番の特典であった。

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