2007年12月15日(土)
2446、狂気について
 (*^o^*)オ (*^O^*)ハ (*^。^*)ヨー!!
   「狂気について」渡辺一夫著(フランス文学者)       −読書日記

「狂気について」は、1948年のエッセイ集「寛容について」の中の一章である。
 ーまずは概要を、まとめてみたー
人間は「天使になろうとして豚になる」存在であり、おそらく狂気とはこの自覚を持たない人、
あるいはこの自覚を忘れた人間の精神状態ではないのか?と、我々には皆キチガイじみたところがあり、
うっかりしてると本物になってしまう。しかし人間というものは狂気なしには居られないものらしい。
我々は、「天使になろうとして豚になりかねない」存在である事を悟り「狂気」なくしては生活できぬ
存在であることを悟るべきである。 酒飲みの醜態を考えてみればよく解ること。酔って醜態をさらし、
しばらく飲まないで生活する、そして再び醜態を曝す。この循環こそ、人の状態でないのか? と。

狂気も正気も人の心に棲んでいて、これを忘れてはならない。
「戦争が狂気、平和は正気であるとするなら、戦争より平和の持続の方が実は苦しい」
平和は苦しく、戦乱は楽であることを心得て、苦しい平和を選ぶべきで、冷静と反省が、
行動の準則にならなければならない。常に「病患」を己の自然な姿と考えて、進むべき。
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これを読むと、何かホッとする。特に酒飲みの醜態の循環の箇所など!
何かを目指したら、他からみれば(目指している先は見えないから)
狂気に見えるのは当然のこと。まずはそれを乗り越えることが求められる。
元々、人間は理想を求めれば求めるほど、「天使になろうとして、豚になりかねない」存在になってしまう。 
それを、独り自問自答しながら、キチガイの自分を冷笑し自覚するのである。 
狂気と正気の循環こそ、人間の姿というのは自分の過去を振り返れば自明のこと。
ここで著者は {天才とは「狂気」が持続しない狂人かもしれないし、
狂人とは「狂気」が持続している天才かもしれない}と言っているが、
元々、両者を循環をしているのが人間の自然な姿と思えば、気持ちが楽になる。
狂うほど物事に熱中しなければ、天才的な仕事は出来ない!のは事実だが、
鈍才で気の小さい吾身とすれば、ホッとするのは自己欺瞞というより誤解でしかない。
大恋愛も、観ている方からすれば「色狂い」?しかし、それもまた人生の花?でもある。

そういえば、4年ほど前にここで「閑吟集」のチロリチロリチンチロリを取上げた。

 よのなかはちろりに過ぐる ちろりちろり (49)
 何ともなやのう 何ともなやのう うき世は風波の一葉よ (50)
 何ともなやのう 何ともなやのう 人生七十古来稀なり(51)
 ただ何事もかごとも 夢幻や水の泡 笹の葉に置く露の間に
  あじきなき世や(52)
 夢幻や 南無三宝 (53)
 くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して (54)
 何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ (55)
                         バイ (*бωб*)/
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