2006年12月05日(火)
2072, 義母・故桑山正子さんへの弔辞
     (。^0^。)オッ(*^○^*)ハヨー!

    先週の金曜日(12月1日)の昼に柏崎の義母の死亡の連絡が入った。
    その一週間前に見舞いに行った帰り道に、「年内は持たないだろう、覚悟しておくように!」と、
    家内に言ったが、そのまま帰らぬ人になってしまった。病室では風前の灯火という感が漂っていた。
    2年以上の長期入院の末で、自然死に近い死に方であった。 享年82歳である。
                                    ご冥福を!
 ー追悼で義母のことを書くー
 
私が知る限り、これだけ幸せを絵に書いたような人に出会ったことがない。
これは家内も誰も認めていることで、こういう人生があるのか?と、思うほど静穏な恵まれた人生であった。
「穏やかな品位のある穢れのない人」というのが、義母の正確な人柄の描写になる。
数代つづいた婿取り娘の家系で、幼児の時から無菌培養のように大切に育てられた。
母親が4歳の時に亡くなり、祖母に育てられた。そのため?義母は両親の愛情を知らないで育った。
婿養子の義父は10年前に78歳で癌で亡くなったが、模範的は品行方正の温厚な人物で亡くなるまで
義母に尽くしきった人である。柏崎のロータリー・クラブ会長などをしていて、誰にも好かれる人であった。
義母は柏崎の実家から数年に一度出るかで出ないで、箱入りの人生であった。一人で柏崎を出たことも一度もなく、
生活の食事・掃除・洗濯以外は全て亡くなった義父が執事のように仕えていた。
家内とは年に5〜6回は遊びに行っていたが、義父がつききりで歓迎してくれた。

私の家内も、すぐ上の兄が生まれて間もなく死んでしまったため、
その失敗の轍を踏まないように大事に「婿取り」を前提に育て上げられた。
その後、弟が二人生まれたため後をとる必要がなくなり私と結婚するはめになった。
しかし、そのように育てられたためか意識は婿取りより強い。後は喧嘩の火種になるから書けないが・・
義母の「幸せの人生」は、私が知る限り右に出るものはいない。列車などの交通機関も一人で乗ったこともなく、
すべて、義父と一緒か、ごく親しい知人と数年に一度温泉に行く程度であった。
非常に美形で、結婚式の二人の写真は息を呑むほどである。

近所に親しい親戚や友人がいて、いつも夕飯時になると惣菜などが毎日届いていた。
家業も20人ほどの老舗の建材屋で、常に年商以上の流動資産がある手堅い会社である。
会社には二人の息子が入っていて、下の息子が会社を引き継いで社長をしている。
この義弟の嫁さんは、私の知人の会社の秘書を紹介してもらった人だ。
娘二人も家内を含めて近くに住んでいて、ホットな雰囲気が常に漂っていた。
世の中には、幸せが身に付いている人と、その正反対の人がいる。
その幸せの最先端にいた人が義母である。その部分は、家内が引き継いでいて、
「世の中、幸せになるのが当然!」と信じて疑わない。
「亭主は執事の如く自分に従うのは当然!」というところまで同じであるから、堪ったものではないが・・・全く!
   
前に、「煉獄の中にて」というテーマで書いたが、その正反対の世界が、人生が、義母の人生というと言いすぎだろうか? 
地方には、まだまだ、こういう岩陰の中の「ひっそりした豊かさ」が残っている。 例外に近いのだろうが・・・
本人が幸せだったかどうかは、本人でないので知ることはできないが。
どこの世界にもある悩み、トラブルはあったようだが。突きつめれば皆同じであるが、義母だけは別のようである。
               \\\★ (^_^)/~~ バイバイ
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