2004年11月21日(日)
1328, 「哲学者たちは何を知りたかったの?」−1 
               −読書日記
ー教養は何故必要か?−

ふと本屋で立ち読みをしていたら、ー教養とは自由になるために必要なアーツー という文章にいきあたった。。
早速買ってきて読んだが、なかなか読み応えのする本であった。特に教養に対して、ズバリその本質をついている。

ー「日本で教養というと、大学の教養課程やその延長線上で身につけるものと受けとめられがちだが、本来教養とは、
人間が自由(リベラル)になるために必要な(アーツ)だったのです。ですから、教養としての哲学、教養を持てば、
それがガイドやパイロット、あるいは乗り物となっているので、脳空間の中を自由に飛躍でき、さまざまな世界を
のぞき見ることが可能になる。人間は、神のもとから自由な空間に解放され、そのために多くの不安や悩みを
もつようになりましたが、教養としの哲学を持つことで人間として生きていくことの素晴らしさを味あうことができ、
それがまた、不安や悩みの解消につながり、「幸せ」を招来してくれることも確かです。ーー
 
−以上だが、なるほどそのとおりである。生まれでたと同時に、多くの刷り込みが行なわれるが、
教養とは、それを乗りこえる為のパーツの総量ともいえる。教養といえば、字のとおり「教え養われたもの」であるが、
それでは、「それが何のため?」といわれると、言葉に窮してしまう。

一流の職人が「おれ中学しか出てないけど、大学を出ているのと、あまり変わらないと思うんだが?」
という素朴な言葉の中に、多くの問いかけと答えが含まれている。
現象が全てなのだから、それはそれで仕方がない。彼は言葉の中に含まれる意味の世界とは全く無縁であるから、
目の見えない人に視覚が解らないのと同じことである。
しかし、その分他の感覚が研ぎ澄まされるようになったから、一流になれたのだ。
宇宙から見れば人間の存在などチリ以下、いや地球の存在自体チリ以下であることを考えれば、その知識の差、
教養の差など些細なことでしかない。しかし、せっかくこの世に生を受けたからは、この宇宙のこと、地球のこと、
自然のこと、人間のことなど、可能な限り知り体験することは大事なことだ。

人間という拘束された存在を自覚して、少なくとも刷り込みの拘束から自由になることが最も重要である。
私が最も嫌っている、「教養のないオバちゃん」「小狐のような男」とは、現象が全てと信じて疑わない
世間という世界の住人をいう。 束縛されている自分に全く気が付いてない存在である。
人間である限り全ての人に、その要素が殆どを占めている。それを、最小にしていくのが人間の一生の課題といってよい。
読み応えのある本であるが、この随想日記でシリーズで哲学について書いたベースがあったので興味を持って読むことが出来た。
しかし、刺激的な内容でもある。「飛岡健が哲学を書くと、こういう風なのか」という視点を持てるのも、
そのベースがあったためである。教養は、積極的自由を得んがための知識の総量ということか!
ーーー
「哲学者たちは何を知りたかったの?」―はたして、彼らは“答え”を見つけられたのかー
                    (河出書房新社)飛岡 健【著】

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