2004年11月03日(水)
1310, 23歳の日記−3
 ー卒業式の思い出ー

大学の卒業式の写真が数枚残っているが、その前後の事や詳細の記憶は殆ど無かった。
ところが、この日記で当日の記憶が鮮明に蘇ってきた。最終の学校の卒業は、人生の大きな境い目である
その記念日の記憶は、大事なことと読んでいて実感する、それも年齢を重ねれば重ねるほど。
幼稚園、小学校、中学校、高校とその日のことは憶えている。

その日の父親の気持ちが、今あらためて振り返ってみると少しは解かってくる。
写真も大事だが、気持ちの記録はもっと大事である。
それにもっと早く気がついていれば、日記を書き続けておくべきだった。

読み返していて感じることは、「若いということは、若いというだけで光り輝いている」
ことだ。不安定で、歪がまだあっても、あらゆる可能性があるのが若い時の特徴である。
それが悩みになるが、その悩むということがよいのだ。それも振り返ってみて初めて気がつく。

ー1969年 3月24日ー
卒業式に出席する為に、8時半に起床、10時半に四日市から東京に向け出発する。
15時前に東京駅に到着する。大学時代の友人の川崎のところに電話を入れる。
一科目、追試が残っていて、それが及第しないと卒業できないのだが、大丈夫だった。
絶対に大丈夫と思っていたが、本当に良かった。万一の時は、就職もオジャンになってしまうのだから。

その足で、寮に行く。佐藤君は居なかったが、残してあった荷物は娯楽室にあった。
その荷物を持って、千葉の検見川にある(三番目の姉)優子さんの家に泊めてもらう
ために向かう。父が私の卒業式の為、来ている。何か父も嬉しそうだ。
恐らく、最後の子供を無事卒業させたという安堵感だろう。父に言ってはならないことをズケズケといってしまった。
「このままの仕事では、必ず淘汰されるのでは!」とか。父は何か悲しそうな顔をした。本当に何をやっているのか、
自分を怒鳴りつけたい。それも自分の卒業式にわざわざ出てきてくれたのに。
「親父よ、私はまだまだ未熟なのだ。ご免なさい!」 本当に恥ずかしい。

ー3月25日ー
7時半に起床。
今日は卒業式だ。8時過ぎに近くに住んでいる(4女)姉の礼子さんがくる。 父と私に会う為だ。
私は寮に行かなくてはならないので、父より一歩先に家を出る。寮で大家の奥さんに挨拶をする。
丁度その時、佐藤君とバッタリ会う。最後の握手をする。初めは親しかったが、途中から行き違いが出た。
しかし、気持を何時も通じていた。良い寮での同僚であった。 佐藤よ、ありがとう。
これで壊れた関係を元に戻せたようだ。 これで恐らく会うこともないと思うが、良い友人に恵まれた。

さて、その後父と待ち合わせて、大学に行く。これが本当に、本当に最後の最後の行事になってしまった。
まずは深井に会う。新橋しのだ寿司の御曹司で、無神経だったが何ともいえない暖かさがあった。
彼も興奮気味であった。その後、武澤先生に会う。父を紹介した後、父ともども記念写真を撮る。
武澤先生には、言いたいだけいい、その結論を出さずしまいであった。

その後、河村、外山、石川、奥野、兼古、広瀬、皆が居た。本当に最後ということで涙を浮かべて最後の握手をする。
彼らとも、もう二度と会えないのだろう。 思い出の深い校庭である。
ここが日本かと思われるような何ともいえないアメリカ的な雰囲気があった。
父が、あまりに私のところに多くの友人が次々挨拶に来るので唖然としてみている。
父は何か取り残されているようだった。しかし、それより全ての友人に挨拶をする方が先である。
卒業式は、一人一人が壇上に上がって,総長から直接卒業証書を手渡された。その後、全員で校歌を歌い無事終了した。
そして、学食に集まり、ビールで乾杯をして、コップを床に叩きつける。これで学生時代とお別れという儀式である。

そして学校を後にする。ところが面白い現象がおきた。
ふと見ると、歩いているのが、入学当時のグループの兼古と奥野と広瀬の4人なのだ。最後はそこに収まったということだ。
兼古は千葉の方向ということで、駅前の喫茶サルビアで思い出話と、今後の人生について話し合う。
そして電車で千葉の検見川まで一緒に帰ってくる。これで、完全に学生時代は終わってしまった。 良い学生時代であった。
そして、良い卒業式であった。これだけ、素晴らしい!と思えるというのは、一生の宝になるだろう。
明日から再び現実が待っている。

・・・・・・・・・