2006年10月26日(木)
2032, 「私」のための現代思想  −16  
      おはよ〜!(~O~)ふぁ・・ さむい!

*以下の部分には深く考えさせられた
ー私たちのあらゆる行為や価値は、《私》によって支えられるものでしかなく、
さらに《私》は<他者>によって支えられています。そうされることで、
この世界で確実なものになります。<他者>による引き受けは、呼びかけによって発生する。
また《私》と<他者>の相互の引き受けあいが、<世界>を構築していく上での基本的な要素であるという。
    
    ・「私」が、<他者>に「呼びかける」ことによって、その<他者>において、《私》の存在の引き受け」が発生。
    ・また「他者」の呼びかけに応じることは、相手を引き受けることになる。
    ・<他者>を‘もてなす’ことによって世界は広がっていく。 人に呼びかけ、呼びかけに応じ、
     そして他者をもてなすこと、これが世界を大きくすることということだが・・

何か一番私にかけていたような気がするが、呼びかけ、呼びかけに応じることが、私の世界を大きくするということが・・・
対象にもよるが、ライオンズ、ロータリーにでも入ることも世界を広める意味で重要?
その置かれた環境と状況の中で、それぞれの目的が自分に適うなら、それが自分の世界として適正な選択になるということか。 
他者にも色いろある。 世界の大自然も他者である。自分が関係する事物、人物すべて他者である。
情報を取るプロセスで、対象からの呼びかけに応じていくのであるから。

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第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味 −?
  ー<世界>をつくるー
 *<世界>を引き受ける者として生きる

前にも述べたが、私たちのあらゆる行為や価値は《私》によって支えられるものでしかなく、
さらに《私》は<他者>によって支えられています。そうされることで、この世界で確実なものになります。
この場合の引き受けられ方には、愛するものとして、子供として、友人だけでなく、敵として、憎悪の対象としてなど様々です。
ここで<他者>による引き受けは、呼びかけによって発生するということを思い出してください。「私」の存在(=《私》)は、
<他者>による呼びかけによって確実なものとなりますが、「呼びかけられた」側の「私」も、
必ず<他者>に対して呼びかけているはずです。 つまり、ここで「私」は、<他者>の存在を引き受けているということです。
こうした《私》と<他者>の相互の引き受けあいが、<世界>を構築していく上での基本的な要素です。
    その一方で、「私」を道具としてしか扱わない<他者>も存在します。この場合、
    「了解不可能な<他者>としてのあなたの存在」を引き受けないというだけでなく、
    単に道具や装飾品や遊具としての認識しているだけの状態が現れます。
    出会う人がすべて、充分に《私》の存在を引き受ける<他者>となるわけではありません。
    存在の引き受けには強度が存在し、強弱があります。
    《私》の存在が希薄であるとき、<私>の「超越確実言明」も希薄になります。
    それは、《私》という「基盤」を失うからです。私たちは「共存の場」において、役割演技を行います。
    そして、役割は「相互関係秩序」によって規定されます。 そのとき、その場にいる人たちを、
    その役割によってのみ認識するのではなく、「了解不可能な他者」として認識することが出来るかどうかが、重要になる。
    役割によってのみ認識されるとき、私たちは「主人」になり「奴隷」になるのです。
    そのいずれもが、私たちにおける「《私》の存在」を危うくします。
*信じる力
(以下は字数の関係でカットー2007年10月26日)
  *^ヾ('c_'ヽ,,)*.bye  

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