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2006年10月25日(水)
2031, 「私」のための現代思想 −15
(+>∀<+)ノ おぁはは〜ようさん!
前・評)
人間は「生きること自体が『緩慢なる自殺』である」と言ってしまえば、それまでだが、
戦争もある意味では集団自殺ともいえる。 いや集団殺戮の方が正しいか?
《私》にとっての「超越確実言明」を守るために死ぬことも、
時にとって必要なのかも知れない。
人間の最後に残された自由へのジャンプとしての自殺もある。
自殺にも正しい自殺と、正しくない自殺があるという。
自分であるために死ぬ、それもイスラエルのマサダの砦の集団自殺のように、
自殺厳禁のユダヤ教徒の自殺なのだから意味も深い。
この場合の自殺を正しくないとは言い切れるだろうか。
誰の目にも明らかな自殺に「子供の道づれ心中」がある。 子供を自分の所有物と思いこんでいるから、暴挙にでるのだ。
自殺をするには、それなりの理由があるが、やはり「自殺は決して許されるものではない!」
のは、道理である。 それが永遠の自由のためにといっても!
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第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味 −?
*正しくない自殺*
正しい、正しくない自殺というのも変なものだが、それでも「正しくない自殺」は、誰の目にもハッキリしている。
それを象徴するのがインターネットで知らないもの同士を募り、複数の者達が一度に命を絶つ「集団自殺」である。
彼らは「死ねば楽になる」という「誤論理」で揺らいでいるので、その揺れを止め、
自殺を遂行するために、<他者>による引き受けを必要としている。
この場合、普通の他者の共振を受けることもできるが、集団自殺志願者は その人たちの《私》を嫌います。
その人たちの《私》は自らの「超越確実言明」を守る方向に走るからです。
そのような呼びかけに答えてくるのは、同じく「死ねば楽になる」と感じ、死を決意している人たちということになる。
それはお互いの《私》の「非存在=存在の否定」を引き受けあうのだから。
「《私》の存在を引き受けてもらう」はずの行為が、「《私》の存在を否定すること」を通して行われるからです。
存在の引き受けは、「存在しつづけることを引き受ける」ことであるはず。
しかし集団自殺は、「ともに存在しなくなること」を引き受けあうになってしまうからです。
{解}死に際まで独りでは不安なので一緒に行こうという弱者の論理もなるほどと思わないでもないが・・・
「死にたいやつは死なせておけばよい」と同じ意味で彼らは「死にたいのだから勝手に死なせて」というレベル。
壊れたラジオは自分地震で自らを直すことが出来ない・・この本を読むまで、自殺について考えたことがなかった。
しかし考えれば考えるほど、自殺を否定できなくなった。 自殺を否定したのは、
「支配階級が最下層の働き手のロスを最小にするためにつくり上げた価値観でしかない」という論もある。
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*正しい自殺*
正しい自殺とは、一回性の人生で、闘いぬき、他の物語を時間の許す限り試し、
その結果としてギリギリの判断において、
「死ぬことによってしか、<私>が<私>でありつづけることができない」
と考えるとき、それは「正しい自殺」となるということです。
これは「名誉のための死」とか、「誰かのための死」を称揚するのではなく、
あくまでも「<私>でありつづけるために死ぬ」ということである。
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後評) 正しい自殺かどうか判断できないが、
イスラエルで初めて知った「マサダの砦の集団自殺」である。
マサダ砦は、死海の西南にある要塞。ヘロデ王の建てた離宮だったが、70年のローマに対する反乱時、
過激派のユダヤ教徒が最後の砦として篭城したが、ローマ軍によって落とされ、その後2000年間、
ユダヤ人は流浪の民となった縁の地である。ケーブルカーで頂上まで上がるとヘロデ王の宮殿、サウナなどが残っている。
一世紀、ここを要塞にして戦ったユダヤ教徒約1000人は2年の篭城の後、ローマ軍に侵入される直前に集団自殺を遂げた。
下を見下ろすとローマ軍の陣地となった場所がくっきりと見え、攻撃のため砦に向かって積み上げられた人工の山が残っている。
その完成の前日、女子子供数人を残して集団自殺を決行した。「奴隷になるよりも死んで自由を」という言葉が、有名である
現在イスラエルの新兵の入隊式はここで行われるという。
この集団自殺が正しいかどうかは、歴史が判断するのだろうが、意味の無い集団自殺ではない。
肉体的な苦痛から逃れる自殺も、ある意味で容認されてよい。肉体の死によって、肉体の耐えられない苦痛からの避難になる。
現在の社会は、その死を認めていないのは明らかに誤りである。苦痛の緩和の体制ができていて、その上での話なら別。
自殺の是非も含めて、全て根本より疑うことも必要なことだ。
\(^▽^*)バイ!
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