2007年10月18日(木) 2389, こころの旅  −3

         c⌒っ *・∀・)φ【才八∋ゥ♪】
   「こころの旅」神谷 美恵子 (著)

 第一章、人生の出発点の中の
 −人生の諸段階ーの説で、
 八段階の半分の四段階が11歳までに区分されている。
更にいえば、5歳までに三段階が終わっているのである。
これからみると、小学校で既に勝負がついているのである。
いや、もっと厳密にいえば、小学校入学時に質として、もう範疇に分けられていたのである。

以前、最終区分前の中学校の成績順が、そのまま人生を決めていると書いたが、エリクソンによると、
小学校でホボついていることになる。 そう小学校も、中学校と同じことが言える。
一番、二番、三番、四番とその後の消息を聞くと、そのまま拡大した人生である。
私は4番位であったが、男で7番以内で地元に帰ってきたのは私だけである。 
といって兄弟でもえらく違うから、一概にはいえないのだろうが。 大學の時に当時の親友だった男に、
「お前は竹のようなヤツだ。遊ぶが、ある所までいくと元に戻って自分の姿勢は崩さない」と言われたが、
それが子供の時からの親の生きる姿勢を見てきたからである。
それでも自分の殻を必死に破ろうとしてきたが、これでこのザマである。

以下は、その人生の諸段階の部分である。意味は深い!
ーーー
人生をいくつかの段階に分けて考えることは昔から多くの人が試みてきた。
成人までの発達段階についてはフロイトの図式が長い間君臨してきたが、
最近はピアジュの長年の実証的研究による図式がつねにこれと比較対照されるようになった。
全人生の分析としては、シャーロッテ・ビューラーの「生活曲線」が興味ぶかい試みである。
最近ではエリック・エリクソンの「ヒトの八年代」が注目をひいている。
その年齢的区分だけを示すと、次の通りである。
?乳児期。?二〜三歳。?四〜五歳。?六-十一歳。?十二−十八歳。
?成人早期。?中年期。?老年期。
 この各年代にそれぞれの課題と危機があるが、それがうまく乗り越えられたときには
生きて行く上で大切な力が身にそなわる。その力とは「徳」である。
エリクソンは原語(ラテン語)の意味で使っているのだ、とわざわざことわっている。
つまり道徳的な価値判断のニュアンスを加えたくないのであろう。
しかも人間の生を支える力は、そのまま「徳」でもあるわけだから、それでこのことばを使うのだという。

たとえばエリクソンの考えるところでは、乳児期の課題とは「基本的信頼感」
を形成することで、これがうまく果たされると「希望」という力あるいは徳が人にそなわるという。 

 次は彼のルッター研究からの一節である。
「自己と母体の基盤と、この二つの柱の間に初めて形成される安定の上にこそ、その後のすべての安定が築かれる。
……母の応答の規則正しさと予測可能性こそ乳児の世界の最初の秩序であり、原初的な天国なのだ。人生の最初の'年間に、
(必要物を)与えてくれる人の実在が次第にたしかな事実として現われ、安心して愛し信頼できる対象としてうけとめられる。
−こうして乳児は首尾一貫した経験を持つことができ…… 勇気をもって行動することができるように成熟する。……
 この最初の人間関係において人間は大切な何ものかを学ぶ。……
この何ものかが欠けるとどんなにひどいことになるかは、精神医や宗教家や生まれながらの哲学者だけが知っていることだ。……
こうした基本的信頼感が乳児期の早いうちに発達しないとき……子どもは精神的に死んでしまう。
彼らは応答もせず学習もせず、食事も吸収せず感染に対して自己防衛もできず、しばしば肉体的にも死んでしまう。」

この最後のくだりは明らかに上記の「ホスピタリズム」に類した現象を指している。
ウィリアム・ジェームズの名著『宗教的経験の諸相」にある
「一回生まれ」と「二回生まれ」の説は有名だが、
おもしろいことにエリクソンの乳児期観察はこの説に結びつく。
つまり乳児期に右の「基本的信頼感」を身につけることができなかった人は
「二回生まれ」の人種になるという。
「二回生まれ」の人とは一回出生してきただけではこの世の生活にしっくりせず、
もう一度精神的に生まれ直さなくてはならない人であって、
宗教とはこうした人たちの必要にこたえるものではないか、とエリクソンは考える。
ーー
解) 高校か、大学を卒業するまでは親の責任がある。
特に10歳になるまでは、大事な時期である。
「二回生まれ」とは面白い説である。
「全く同じ人生を過ごしたい」と、思えるかどうかだろう!
両親と、連れ合いの相性が良いかどうかが基準だろう。それと、自分か!
                      ヾ(´_`●)ノ ノヾィ♪
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