2006年10月17日(火) 2023,
「私」のための現代思想  −12
        (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ〜    ー読書日記

 ーまずは五章の「生きる意味は何か?」の概略をまとめてみるー

 私たちが「生きる」ということは<他者>との関係を基点として、《私》がつくり上げた論理の基盤=
 「超越確実言明」を通して居場所を確保していくことである。 <社会>の中で「自分の居場所をつくる」
 ための闘いは、同時に<私>が正しくありつづけるための場所を確保するための闘いです。
「超越確実言明」は《私》によって支えられているが、その《私》というと、「他者」によって引き受けられています。
 他者による《声》が「私」に届いたとき、そこに「共振」が発生します。
《私》の存在を支えているのは、<他者>でしかないからです「共振」は伝播し、その「不完全性」を緩やかに補うことができる。
「不完全性」は少しずつ補正していくことができます。「真の正しさ」ではなく「より正しい」方向へ世界を変化させていくのが、
「生命体」というシステム全体の方向性です。それが「生きる」ということです。
 ーー
 第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味 −?
      ー「ともに闘う」ということー

   *−ドゥルーズの「あいだにおけるー闘い」ー
    <他者>との関係は、私たちの存在の基盤であり、また、私たちが束縛から逃れるための「基点」である、ということです。
    私たちの居場所は闘うことによって、《私》の価値と《他人》の価値とが衝突することによってしか
    居場所を作ることはできません。 これが「あいだのおけるー闘い」である。

   *−「外部における闘い」と「内部における闘い」−
    「あいだにおけるー闘い」に対して、「外部における闘い」とは、<私>の内部の<価値>の変化をもたらさない闘いです。
   (それは同時に《私》が構築した<価値>である)そして「外部における闘い」を回避することは可能であり、
    それも「闘い」の一つの形態です。しかし外部の戦いでも出会っても、《私》は《私》との「あいだにおけるー闘い」
    を行っているはずです。私が「外部において処理をする」と推測する「闘い」は、必ず<私>の内部に取り込まれます。
    
    この外部と内部における闘いのいずれかが、<言葉>を用いて行われます。
    そして、《私》がつくり上げた論理の基盤 =「超越確実言明」を基盤として、ある<言葉>がそれと矛盾すると
    考えられたときに私たちは闘います。    <社会>の中で「自分の居場所をつくる」ための闘いは、
    同時に<私>が正しくありつづけるための場所を確保するための闘いです。
    私たちは「正しくない場所」に立ったままで「正しくある」ことはできません。

   ー「正しい」ということー
  *ー「真の正しさ」ではなく、「より正しい」方向へー
    世界は常に間違っている。「真の正しさ」に到達などできませんし、「真の正しさ」に到達など元々ありません。
    しかし私たちは、それを少しずつ補正していくことができます。
   「真の正しさ」ではなく、「より正しい」方向へ世界を変化させていくのが、
   「生命体」というシステム全体の方向性です。私たちは<他者>と「ともに闘う」ことによってのみ、
   「正しくある」ことが出来るということを意味している。

  *私たちの「正しさ」は「超越確実言明」が支えているー
    私たちの「正しさ」は真理によって支えられるのではなく、「超越確実言明」によって支えられています。
    しかし私たちの論理回路は不完全であるが、「不断の努力によってその性能をフルに活用し、常に論理を再構築しようと
    努力するか否か」という点で、その闘いが必要である。闘いのあるところに「振動」が発生します。
    その振動は「共振」となり、伝播し、その「不完全性」を緩やかに補うことができる。

  *《私》の存在を支えているのは<他者>であるー
   「超越確実言明」は《私》によって支えられているが、その《私》というと、「他者」によって引き受けられています。
    他者による《声》が「私」に届いたとき、そこに「共振」が発生します。「私」は《私》の存在を引き受けてくれる者
    たちの感情に敏感です。それは「存在を共有している」と呼べるような状態だからです。
    私たちは、このような共振を受け取ったとき、<私>の論理的な基盤になる
   「超越確実言明」の一部さえ捨てることができます。なぜなら《私》の存在を支えているのは、<他者>でしかないからです。
  ーーー
  「正しさ」を支えている「超越確実言明」それは《私》によって支えられているが、
   その《私》は「他者」によって引き受けられている。その共振が<私>の基盤になる!と言うが、
  「独り」というのは、あくまで<私>と<他者>との関係でしかない!
   ということか?それはアラスカン・ハイなどの経験してみると解ることだ!
    今まで「結局は独りさ!」と、粋がっていた私は何だったのでしょうか? 
            ただ(。・ω・)ノ☆゚+.アホ!
                       \(^▽^*)バイ!
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