2004年09月11日(土)
1257, オーストリア旅行記ー4

パプスブルク家の人たちのことを書いてみる。

パプルブルク家は、オーストリアを統治した640年の間、多くの人たちで
時代時代を彩った。日本の徳川幕府の二倍の間、よく続いたものだ。

主な名前をあげてみると
・パプスブルク家の基礎を固めた「ルドルフ1世」−13世紀
プラハの王城で閉塞して芸術を愛でた「ルドルフ2世」−16世紀半ば
・近代オーストリアの基礎を作った辣腕女帝の「マリア・テレジア」−18世半ば
・実質最後の皇帝「フランツ・ヨーゼフ1世」
・ヨーゼフ皇帝の皇后で、悲劇と美貌の伝説をうんだ「エリザベート」 などをあげる事ができるが、

マリー・アントワネットの母のマリア・テレジアと、エリザベートをあげてみる。
ーまずは、エリーザ・べト。

19世紀の欧州で最も美しいと称えられ、「シシィ」の愛称でも知られた。
彼女のことをロシアの提督は「すべての士官は老いも若きも皆、エリザベートに恋をしてしまった。
比類なき美しさと、近寄りがたい品格を持ち、いかなる時も皇妃としての威厳を備えている」と述べたという。
彼女はたとえ礼儀作法を習わなくとも、品格を生まれつきもっていた。
エリーザ・ベトは子供の頃から、芸術に関心を持ち、絵画や語学、作詞などに才能をしめした。
しかし誰もが羨むような皇妃として生活は、幸せではなかった。

愛する子供達は、生まれると同時に姑である大公妃ゾフィに取りあがられ、
一日に一時間、監視付にしか会わせてもらえなかった。
そして、その姑の溝はますます大きくなり、自分の中に閉じこもるようになり、
乗馬や作詞などにのめり込んでいった。その中で、彼女がとりわけ愛したのは旅であった。
彼女は自分の美をも深く愛し、時には栄養失調になるほど食事制限をした。

そのような生活の中に、突然不幸がおこった。
息子の皇太子のルドルフが若き男爵令嬢と心中事件をおこして、自らの命を絶ってしまった。
この時から、彼女は公式の時だけでなく、常に喪服を着るようになる。そして、あてども無い旅がより頻繁になる。
しかし62歳になった年に、彼女はあっさり暗殺されて劇的な生涯が閉じられてしまう。
王宮には二人のヨーゼフ1世とエリザベート肖像画が大サロンに飾られてあった。
そこは、永遠な二人の魂が漂っているようであった。

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