2006年09月09日(土)
1985, ハイデッガー
       (。^0^。)ノオッ*^○^*)ハ〜 ヨウ
                
10年来、トイレに常に哲学書が置いてある。そして一年に一度位の間隔で、入れ替えをする。
そして、普段も必ず哲学書のいずれかは私の鞄か机の横にある。
歳を重ねた経験の裏づけが哲学の言葉を噛み砕いてくれるようになった。
哲学的大問題の「死」に向き合わなくてはならない歳になったこともある・・・

   「首切り役人の日記」とか、このHPの随想日記で辛辣に死について書いている。
    哲学にしても宗教にしても結局は、ー人間いかに生きるべきか?
    そして最後の最後は、いかに死ぬべきか?ー  ということだ。
    あと何があるのか? もし知っていたら教えて欲しいものだ!
  
  『面白がって死ぬことだ!』という黒鉄ヒロシの言葉位か、面白かったのは!
  「ヒーヒー悲鳴を上げてジタバタしている最後の自分の姿をみるのが何で悲しいの? 
   こんな面白いことが何で?」彼ならでの言葉だ。冷静に自分を見ていなくては笑えない!

ハイデッガーは、「その死を意識的に見ないようにして日常をすごしている我われの姿を、そのまま直視。 
見ないようにしている死が、我われにマトワリついていて、それが不安という漠然とした心理になっている」と看破している。

    彼は不安とは現存在として最も根本的な気分であるとし、現存在は世界内存在として理由もなくこの世界に投げ出され、
    そのつど、何らかの気分に規定されていると・・ 日常性の中に埋没されて生きている非本来的あり方から、
    本来的自己を呼び覚ますきっかけとなるのが不安であると・・
 
 とりわけ「死」の可能性の前にしての不安において、現存在としての根源的開示がはじめて生起する。
 我われはいつか死ななくてはならない。 「この私」の死を誰も変わってはくれない。
 その死を痛感する時、人は日常から引き離され、単純化し、自分自身と対面せざるを得ない。
 
    その死を見つめることによって、その可能性に「先駆」することによって、初めて本来の自分を取り戻すことができる。
    おのれの実存をたえず知覚させてくれる気分として「不安」を考察した。
    恐怖と不安は違う。恐怖は対象を持つが、不安は対象を持たない。
 
ハイデッガーは「私は何が一体不安なのか?」という問いをする。「私が存在そのものが不安なのである。」という。
 「私がある」こと自体が不安の発生現場で、私の存在は「無」の中に沈みこんでいくのである。
 それが不安の時である。 不安は人間そのものの根源的な性格なのである。
 彼は「人間は、日常性の中に存在の本来性を忘れている」という。

 我われに現存するのは「他人の死」のみである。
 「死、それはまだまだ自分の番ではない!」と思っているから、生きていけるのだろう。

     私が死を度々とりあげるのは、その死を直視することで、生とは何か考えるためであり、
     現存している自分を見つめるためである。夕陽をみて人は、その太陽を自分に投影する。 一日の死である。
     そして、朝陽をみる、今日の生誕を感じる。そして、その夕陽のように沈んでいく。
     しかし、夕陽のように沈んでいく死だけでないのが、人生の妙味であるから面白いのである。
                        (。^0^。)ノホンジャ、マタ!  あの世で!いや明日!
     そういえば、明日とあの世は似ている。あると言えば在るし、無いと言えばないし!
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