2004年09月01日(水)
1247, さよなら!五十嵐恭一さん
    −五十嵐恭一さんへの弔文

友人の五十嵐恭一さんが8月21日の夜半の11時過ぎ、長岡西病院で亡くなった。 享年57歳であった。
その日はオーストリアの旅行の為、日暮里に前泊していたので、
旅行から帰ってきた翌日の30日になって初めて、その事実を知った。

朝日新聞系の「朝日広告」の営業で、高校の後輩ということもあって、公私の付き合いがあり、私の弟分であった。
かなり激しい躁鬱症で、間接的だが私がカウンセラーとコントロール役をしていた。 支局長までなったが、
その病のため平社員に降格された。それでも過去の経験を買われて、そのまま同じ職場で仕事を続けていた。
盆暮れを含めて年数回、20年以上飲み続けていた。 アポ無しで事務所で直接来ても、
抵抗感を持たせないキャラクターがあった。気持ちが純粋で、面白いミニ情報を多く持ってきてくれていた。

三年前から、唇に腫瘍ができ、それが原因で転移して末期癌になっていた。 この5月に自宅に見舞いに行ったところ、
苦痛に呻いていたのをみて、末期医療の長岡西病院のビハーラ病棟への入院を勧めた。
躁鬱病の重症の時も、私が入院を勧めると、直ぐに従った。)

自宅への見舞いの三日後に、即入院をした。そして最後に見舞いに行ったのが、亡くなる10日前であった。
一緒に見舞った人が、五十嵐さんの知人で、先に亡くなった人の名をあげて、
「私も直ぐに行くから、彼らと待っていてくれ!」と慰めた。
ところが、「まだ、早い!」と絶叫をしたのをみると、マダマダ生に未練があったようだ。
死ほど、自分と他人の差が大きいものはない。

苦痛は想像を超えていたようで、「24時間の拷問にあっているようだ」といっていた。
奥さんに苦痛の為[殺してくれ!]と、懇願したそうだ。 私の身辺で多くの末期癌の壮絶な死を見てきたが、
彼のそれは悲惨で見るに耐えないほど激しく厳しいものであった。本人しか知らない想像を超える辛さがあったのだろう。
オーストリアの旅行先で、行く先々の観光地で、バスを降りると雨が降ってきた。
そして、バスに乗ると雨が止む。 それが三度目に、虹が出たとき、「ああ、五十嵐恭一は亡くなった?!」と、
思ったのが事実と知った時、なるほど、彼らしく自分でお知らせをしてきたのだと思ってしまった。
知人縁者の死は、自分の死でもある。しかし自分の中では、より身近になって何時までも生き続けることを実感する。
さようなら、五十嵐恭一!そして、ありがとうございました!  ご冥福を!

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