松井孝典の「レンタルの思想」の中のキーワードの一つが「共同幻想」である。
  一万年前に農耕牧畜を始めて、「人間圏」を作り上げてきた。 
  そして右肩上がりの共同幻想だったことを、人類は宇宙に出て地球を俯瞰して始めて知った。
  資源が有限性を知り、環境破壊を続けてきたことも、これ以上の人間の欲望を拡大できないことも知った。
   ー著者の松井孝典は、次のように人間圏の危機を述べている。
 ≪欲望のカタチは所有であり、人間は地球という大地を「所有」すると、錯覚していたのである。
 これが人類の「共同幻想」というのである。共同幻想は、これだけでなく、貨幣は未来永劫に交換可能とか、
 神様の存在とか、人間の命は地球より重いとか、民主主義とか、市場主義経済とか、自由平等とか、
 人間を規定する概念すべてといってよい。21世紀の人間圏にとって、その崩壊の引き金になる最も高いシナリオは、
 これらの共同幻想が多くの人に幻想と認識されたときである。 その一つがインターネットとという。
 インターネット社会は、個々人を主体化し、情報が個人に拡散する。 情報が拡散するということは、
 社会が均質化していくことになるが、共同幻想という面では理想的かもしれないが、宇宙からの視点から見れば、
 人間圏のビッグバンになる。それは秩序も構造も、情報もあってない、混沌とした社会になる。》
  そこで、共同幻想とは何かを知るためにネットで調べてみた。

 ー以下は共同幻想についてのウィキペディアのコピーであるー
共同幻想(きょうどうげんそう)とは、複数の人間で共有される幻想である。
日本の思想家である吉本隆明が用い、有名になった言葉である。
吉本は、自分の共同幻想とは、マルクスの用語である上部構造と同じ意味であり、
ただ手垢がついているから使いたくなかったと述べている。
 吉本隆明は、著書「共同幻想論」で人間関係は、3種類に分類されると提唱した。
▼ 自己幻想 = 個人と個人の関係。 ー芸術がこれに当たる。他者には影響を及ぼさないため、無制約に自由である。
▼ 対幻想  = 個人と他者とのプライベートな関係。 ?家族・友人・恋人がこれに当たる。
▼ 共同幻想 = 個人と他者との公的な関係。 ?国家・法律・企業・組合がこれに当たる。
 宗教は、個人の内面に収まっている限りは自己幻想に当たるが、教団を結成し、布教を開始すれば、共同幻想に当たる。
この分類は効果的であり、世界を正しく見るうえでこの3つの幻想領域を混乱、混同させないことが
大事であると吉本は主張する。これらはそれぞれ独自の法則で動いているのである。
 例えば、吉本は心理学者のフロイトはリビドーと言う対幻想性を、社会領域まで無条件に拡大して採用しようと
したところに誤りがあると批判する。また、1人の人間もこの3つの領域でそれぞれ違う顔を持っている。
 *職場にいる顔と、*家庭にいる顔、*1人でいるときの顔や行動は、それぞれ違うのである。
 外弁慶、内弁慶という言葉があるように、冷酷な独裁者や軍人が家庭内では優しいよき父親であったり、
 逆に職場では物静かな男が、家庭内では暴力的な暴君として振舞うなどということは、充分ありえる。
吉本隆明は、共同幻想の世界では、個人が幽霊としてしか存在できないと主張する。
 例えば、「今は企業の危機だから、粉骨砕身働け」との企業幹部の檄は、
 労働力を売りに来ているに過ぎない個人としての労働者の立場と矛盾する。 
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   松井孝典の二冊の本は、大きな衝撃であった。
  地球学という視点で、自分を振り返ると、大いなる共同幻想の中で蠢いていた小さな生命でしかないことだ。
  太陽の惑星の一つの地球、その大気圏の中の、物質圏の、生物圏の、人間圏の、極東圏?の中の小さな島国の、
  北陸圏の、新潟圏の中の、何でしかない私。 地球の外から俯瞰すれば、そういうことである。
  そして、共同幻想を何の疑問を持たないで抱いていた存在である自分を振り返り、「何?何だったのか?」
  と根こそぎ、人生観がぐらついている。
  恐らく、身近に死を感じ取った時に、直感的に感じる恐怖心の向こうに見える宇宙的な俯瞰の視線は、
    織田信長が舞ったという敦盛の
  「人生50年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」を彷彿させる。

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