2006年08月26日(土)
1971.事業百訓 ー1995年(9)

ー H0701新年にあたりー
 景気に対して超悲観的である。冷戦の後の数年のこの文章はほぼ同じ悲観的見通しであったし、当然その通りになった。
逆張り投資の当社にとってこの時期こそ機会到来である。十五年間かけて地道に積み重ねてきたモア・スペシャル、
モア・ディスカウントのホテルフォーマットが主流と認知されてきている為である。
ここであらためて原点にたちかえり十〜二十年スパンの長期経営構想を深耕する年になる。
                          ー字数の関係上カット(2007年08月25日)

ーH0701  事業百訓 ー
446 “ドーナツの穴”、あれこそ色即是空です。
  ああそれと小沢昭一がいった“色っぽい事をすると空しくなる。
 ”あれも、まさにその意味をいいあてている。 −永六輔
  447 業態とは損益分岐点である。−ヨーカ堂、鈴木社長
  448 「自分なりに」を禁句とせよ!
   自分を限界づけて、その範囲内という意味におちいってしまう。−田舞徳太郎
  449 ほうたいをまいてやるなら、他人の傷にふれてはならない。−ヘッセ
  450 人の痛いのは三年でも我慢する。−ことわざ
  451 好きな事より、してよっかったと後で思える事をせよ。−ドバル
  452 真理はしばしば矛盾の中にある。
  453 釈迦については、人類史上最初に人間の肉体と人生より
  “精神”というものを抽出し、凝視し、よき作用を見、悪しき作用の機能を指摘した。
   さらに悪しき作用を押さえこむ処方まで与えた。 それが仏教であるといえる。
  この凝視と方法に医学が気付くのに十九世紀末のフロイトまでまたねばならなかった。
                               −司馬遼太郎
  454 「泥棒と悪口を言うのと、どちらが悪いか」私の教会の牧師は「悪口のほうが罪が深い」といわれました。
   大事なものは取られても生活を根底より覆されるような被害ではない限り、いつか忘れる。
   それで自殺した話は聞かない。 しかし悪口を言われて死んだ老人の話や子供の話はよく聞きます。
   それは人をおいやり子供を精神薄弱にする力がある。...私達は二つの尺度を持っている。
  「自分のする事は、そう悪くない」「人のする事は大変悪い」自分の過失を咎める尺度とは、全く違う。
   ...自分の未来を勝手に決めないで下さい。こんな未来しか持ってないと、わかった顔をしないで下さい。
   紙の書かれるシナリオと貴方の書かれるシナリオは全く違うのです。..ドイツのことわざに
   “共に喜ぶのは二倍の喜び、ともに苦しむのは半分の苦しみ”があります。−三浦綾子

ーH0701  テーマ日記ー
 二年前より日記を“テーマ日記”方式に切り換えた。なれるまでは大変だったが今ではけっこう面白い。
この文も去年の一月七日の“テーマ日記”が下敷きになっている。
思いつくまま“テーマ”書き、それをもとに内容を書く。前日みた“TVドラマ”がテーマであったり。
前夜みた“夢”の内容であったり、“父の思い出”“年記”(年末に日記風に一年をまとめた内容)、“読書感”。
あとでふり返って読んでも面白い。いかに普段あまり深く考えてない事と、その時点の自分の興味の変化がわかる。
“日記”より雑記に近いが…。(随想、随筆の難しさがよくわかる。)

ーH0703 事業百訓ー
455 行動の動機が、行動の本当の判断基準である。 みかけ上は同じような行動を千人がする。
 本当はその動機が違えば、みな違うものである。
<なぜなら行動とは意志のことだからである。>しかし意志は行動と同じではない。
<行動せずに考えたり、意志したりすることは、そこにチャンスが存在するとしても
“壺”の中の炎や、砂にまかれた種と同じである。燃えずに消え、芽を出さずに死んでしまう。>
仏教徒と同じようにスウェデンボルグは、人間とはその人の意志した行動の総和だと断言する。
<人間の霊的肉体とは彼が自分の意志によってした行動以外の何ものでもない。>
そして<天国への道は、この世の外にあるのではなく、この世にある。>(スウェデンボルグ伝より)
456 自分の“木”をみつけるべし。さがしつづければ、ある日その木はどれだと判るはず。(山尾三省
457 (a)七千万年前に原始ザルが生まれ、
  (b)二千年前に霊長類が生まれ、
  (c)七百〜八百万年前に今の人類の原型が生まれた。
  (d)一万二千年前に農耕がはじまり、地球上に三百〜四百万人の人類が存在した。
   人類は“森林”の中で天敵がなかった。その為自らのうちに敵を持つシステムをつくっていった。
                                       ―河合雅雄
ーH0703 ブラジル旅行記
“行って吃驚!玉手箱”主観をこめて現地の実感を書いてみる。
カーニバルはリオディジャネロだけでなく、全国津々浦々の都市で行われており、四日間全国がお祭りの為休みとなる。
その最も有名で世界的に知られているのがリオのそれなのである。リオのカーニバルのランクがA・B・Cとなっており
Aランクが9チーム、 Bランクが15〜16チーム、 Cランクは数十チームとなっている。
AとBチームが特設スタジオのメーン、ストリー800mを80分の持時間で踊りながら行進する。
そこは六万人の観客席があり、審判席で厳格に審査され、その年の優勝等順位があらそわれる。
チケットは一般の人はほぼ入手不可能である。TV新聞等で目にするのはCチームが街頭で行進するものでしかなかった。
チームは四千名が1チームで構成されており、それが約500名×8チームに細分化され統一のコンセプトのもとに
仮装が華やかにつくられている。音楽も各チームごとに毎年新しいコンセプトのもとに有名作曲家が名誉をかけてつくる。
その作曲も採点の大きなポイントになるという。一日6〜8チームが夜の七時より翌朝の七時まで延々と踊りの行進が続く。
観客席もその行進曲にあわせて半数以上が踊っている。音響もすさまじく隣の人の声は全く聞こえない。
上位数チームが翌週の土曜日に優勝をかけて再び行進がおこなわれて、
優勝チームは10億以上の賞金がつき、かつ翌年に向けてのよいスポンサーが約束される。
その年の山車とか衣装は翌年に持ちこさずすべて破棄するという。
カーニバルをみていて“気”とか“色即是空”とか“禅の悟り”が、すべて含まれている。
東洋的なこのような言葉が小さくみすばらしくさえ思えるくらいだ。
ブラジルの印象を書くと、“サッカー”と、“サンバ”(カーニバル)と、“森林”と、
イグアスの滝”そして“汚職まみれの国”である。さらに加えるなら“まずしさ”である。

ーH0705 バンジージャンプ
 ナイアガラの二倍の落差のビクトリア大瀑布に息をのみ、そのまま進むと、ジンバブエザンビアの国境を結ぶ
小説等で有名な鉄橋がみえてきた。 よくみるとバンジー・ジャンプで丁度人がとびおりたところであった。
思わず“私もやりたい!” 今年の五月にニュージランドで43mの高さを挑戦! 今度はその二倍あるという。

現地案内人の黒人女性も、私の気迫におされてOKの返事!
一度国境を出てまったく無国籍の橋の上へ。国境警備員も本当かと何回も念を押した。
そして……。 飛び込み台に立って気がついた高さと恐怖心は正比例である事に!
氷つくような恐怖心!後ろをふりむいて“やっぱりやめた!”という一瞬の気の迷いを振りほどいてジャンプ!
何と次の瞬間思いもよらない脳の奥より声!“目をあけてみてみろ!”
何とそこには高速道路で170?のスピードで車をはしった時の世界と、同じような空をとんでいるような感覚。
いやに緑の木々の印象の強い光の中をつきぬけていく風景がみえてきた。
さらに恐ろしいのは50m位の中間で何分か宙づりになり、橋まで再びひきあげられるまでの恐怖であった。
                    (次はヘリコプターよりのジャンプ!?)

ニュージーランドバンジージャンプ
 字数の関係上カット(2007年08月25日)

ーH0705 事業百訓ー
458 “才能とは自分で決めること、そして人として最も大切な事は他人とは何かを考える事。”(山川方夫
459  競争対策とは“差別化”のことです。 それはより徹することでのみ勝者となります。
   徹することは、より例外を少なくすることです。換言すれば“標準化”の徹底ということですが、
   それは内容を“単純化”しないと一向にすすまないものです(3S主ギ)―渥美俊一
460 「いや、あの世があるかどうか私にも判らない。 ただ死ぬ瞬間に“これからいいところにいける”と思って死ぬのと、
  “これから荒涼たる荒野を生ぐさい風と一緒に永久にさまよう”と考えるのと、
   “なにもかも虚無だ”と考えるのと、この三つを並べて考えると“楽しいところへ行ける”と考えるほうがよい。
   そこで死ぬ瞬間に、それが信じられるように“想像力”で、一生かかってあの世は極楽だというイメージを
   頭の中につくりあげている。それがカトリックというものです。 −「上智大学のホイベルス神父」
                  ―(井上はじめ、司馬遼太郎対談より)
461 “私の経験からすると、(夢)というのはまさに人間の魂そのものだと思います。
  夢を持っていない人間は、本当に魂がなくなってしまいます。
  カリブ海には一種の魔法使いがいるとされています。そして人の魂を奪ってしまうことがあると。
  そのぬけがらが映画になったゾンビ。 目が大きくなって中をみると何もない…”
462 アインシュタインでの(相対性理論)もう一つの重要な意義は“物質とエネルギーは交換することができる”という認識である。
  物質は一つのエネルギーの形態にすぎない。 またエネルギーの減速している状態、または結晶化したものにすぎない。
  私たちは肉体もエネルギー体そのものである。…(光の手…)
463 個人レベルでは、現代心理学や精神開発の世界により深くかかわっていくと、either/or(どちらかが)の古い形が、
  both/andの形にとけこんでいくのが判る。そこにはもはや善や悪が存在しない。
  誰かを憎むとか愛しているかでなく、もっと自身の中に広大な能力に気ずく。
  同じ人間に対して愛と憎しみを感じ、その中間にある総ての感情を感じられるようになる。
464 人(他人)を指さす時、他の指はすべて自分の方をむいている。(人を批判する時、その大部分は自分にあてはまる)
465 みんな(自分にとって)自分が主役!
466 欧米等のキリスト教イスラム教にとっての神は、大文字のX(エックス)であるが、
  日本人にとっての神は小文字のxのn乗(神々達)である。従って同じ目線で議論は無駄であり…
467 あなたの事情よりチャンスを考えるのではなく、チャンスよりあなたの事情を考える事だ!
468 「それにしても一体何が残るのだろうか? よく判らぬが私は“想い”が残るとあえている。
  “想い”の“深さ”が残る。“想い”をつめると幽霊になるという。
   だから幽霊がいたとしても少しも不思議ではない。」(葉山照葉)

ーH0707 事業百訓ー
469 “永遠”とは今後の時間ではない。
  永遠は長い時間でさえない。永遠は時間とは無関係です。
  永遠は時間領域内のあらゆる思考が切り離している<いまここ>の次元です。
  ここで永遠を永遠ととらえない限り他のどんなところでも
  永遠はとらえられません。とにかく万物すべてにおいて永遠を経験すること、
  それが生命の機能なのです。(キャンベル)
470 “たとえ雷に打たれたとしても決して否定的な考えをするべきではない” (バートランド・ラッセル
  −否定語にとりつかれた病的人間の臭い
  −“人間は一日大体九万位の事を考えるそうで、悲しい事に大部分が否定的な事だという。
471 “人の世は虚空(生前)と虚空(死後)の折り返し地点”
472 成功の“功”は「ねりあげる」という意味。 したがって成功はねりあげ成す事をいう。
  成功しないのは(計画準備)ねりあげがたりない為です。
473 出来るまでやってみる事です。やれないのは(できるまで)やってみないからです。(中村久子の母親あやの言葉)
 「お念仏なさいませ。一切は仏様におまかせすることです。どんなときも仏様は私たち衆生を抱きかかえて下さいます。
  お念仏させていただきましょう」 この深い意味が久子にはわかった。

ーH0709 事業百訓ー
474 “人にはやさしくやさしくおなりなさい。その為にあなたは強く強くならなければなりません。”(宮城まり子
475 “怒りは無智、泣くは修業、笑いは悟り”60才になってはじめて、この味がわかってきた。(金語楼
476 人生つらい事を探せば、つらい事ばかり!。  いやな事を探せばいやな事ばかり!。
  うれしい事を探せば、うれしい事ばかり!。  ありがたい事を探せば、ありがたい事ばかり!。(山本紹之介)
477 ?ウソをつくな ?約束を守れ ?フェアであれ ?個人を尊重せよ
   ?好奇心を忘れるな(ハーレーダビットソン会長・リッチ・ディアルング)
478 「半年先に会社を辞めることになって、  自分の仕事を引き継ぐ人間がいないと想定してみる。
  そして組織をみなおし、自分のしている仕事を部下に任せてみる。
  それから、どうしたら事業に新たな価値を付加する事ができるか考える。
  この過程を引退するまで何度でもくり返す」(トム・ピータース)
479 人を愛し、賞賛するほど大量のエネルギーが自分の中に流れ込む。
  人を愛し、エネルギーを与える事が自分の為にできる最上のことだ。
  (聖なる予言−ジェームス・レッドフォード)

ーH0711 旅についてー
“旅は人生である。”この意味をあまり深く考えた事がなかったが、人生50年近く生き、
その味を知るほどその深さが見えてくる。 旅は道づれに、そして宿で色々な人々と出会い、そして別れていく。
別れがあるから新しい出会いも生まれてくる。
ある国に行く、そしてその国の歴史にふれ、風景にふれ、芸術にふれていると、その国民になってしまったような
深い親しみを感じる。 大きな鳥の背中にのり、異境の地に行く昔話の冒険とまさに同じようだ。
まさに自分が主役で劇場がその対象の地であるようだ。
その地に実際に行って全身を持って五感で感じ、それが知識より認識へと転換する一瞬!“ああ、自分は生きている。

この地で、この空気を吸い、臭いをかぎ、360度の視界のすばらしい景色をみている!一回の旅行に何度か、
この感慨にひたる。まさに旅行の一日は平凡な日々の百日にあたるというが全くその通りだ。
観光とはまさにその国の光を観る事というが実感できる。旅行先でどんなに多くの写真をとっても多すぎた事は一度もない。
思い出の為に必ず当地でミニ日記を書く事も重要だ。その場の光景が後で鮮明にみえてくるからだ。

ーH0711 事実とイメージー
 字数の関係上カット(2007年08月25日)