2006年08月24日(木)
1969.事業百訓・・・?
  事業百訓ー1993年(7)
H0503事業百訓
  413 比喩は意味よりも深くしみいる。
    比喩は心象風景の点描である。比喩は意識の下の世界感である。
  414 (インディアンの教えより)・・・・
  415 敵を憎んではいけない…計算が狂ってしまう。(ゴッドファザー?)
  416 海の色はその陽ざしによって変る。
  417 量の“ゆらぎ”はエネルギーを生む。(高村光太郎
  418 みずのたたえのふかければ おもてにさわぐ なみもなし 
   ひとも なげきのふかければ いよいよ おもてぞ しずかなる(高橋元吉)
  419 果実によって、その木のなんたるかが知られる(キエルケゴール)
  420 “善意の小悪党”→周辺に本当に多い輩。
   善意を道具に相手に近づき、結果として必ず相手を食い物にし、おとし入れる。
   それに対して、本人は全く気づいていない?相手が気をゆるすのを待ち、相手の一番の秘密をつかむと、
   手の裏をかえし内幕情報屋に変身する業(ごう)とする輩でもある。
  421 哲理の中で生きる(みる)
    ?見る…内性的に(見る)    ?視る…理性的に(視る)
    ?観る…哲学・原理的に(観る) ?験る…生命的に体験して(験る)  (中村天風
  422 ・積極一貫(生命の原理)
    ・“心の積極性”−陽性・積極性・プラス思考→肯定・肯定・絶対肯定の世界
    ・“言葉の積極性”  −言葉は思考を造る。言葉の重要性を知る。
     積極的言葉を“グリーンのスイッチ” 否定的言葉を“黒のスイッチ”とし…
    ・“行動の積極化”……“いたわり”“おもいやり”を積極的になげかける。
  423 笑って暮そう、ハンカチーフ。

ーH0503 核本業
 “本業に徹する事”の重要さを失敗より書いてみる。
“徹しない”場合の生ずる最大の事は、本業で生じているチャンス・ロスに全く気づかない事にある。
学生ショップという衰退産業にまきこまれ、しかし一億の利益をあげたが
その数倍いや、数十倍ののチャンス・ロスが発生していた。
と同時にその心のスキが株投資という株屋の食い物にされ、その分をすっかりロスしてしまった。
本業以外に本当の利益を出す事があり得ないし、出せたとしても、その数倍のロスが発生している。
その時はそれは見えない。あとでふり返った時に初めて気づく。
当社の本当の御客様は誰なのか!そしてそのお客様に対して何ができるか!
それに対して、総てのエネルギーを集中し続ける事こそ核本業ではありまいか!
“客室のモア・スペシャル、モア・ディスカウント”の提供が核本業であったはずだ!
それを続けた時に会社の成長があった。 他に目を向けた時、停滞がはじまった。その責任は誰。 私である!

ーH0503 万歩計
“万歩計”をつけてから約一年が経過する。冬期八千歩・それ以外が一万三千歩・平均して歩いた。
一年で四百二十万歩、一歩五十センチとして、二千km歩いた事になる。
江戸時代の人は平均二万歩近く歩いたという。ある調査によると会社の営業系の人は七千歩!事務系六千歩!
管理職が五千歩!トップは四千歩が平均歩数との事。また人間の身体の構造は本来、歩くようにできているそうです。
私の場合必ず手帳に歩数をメモにとり一週と一ケ月の平均歩数を出します。
これを実施していて雨の日の休日でも傘をさしてでも散歩に出るか、天気予報を見ながら“歩き溜め”をしたりする様になった。
私の知人も数名万歩計をつける様になりました。今では、万歩計をつけ忘れても大体、歩数はわかるようになりました。
参考の為に、万歩計は薬局かドラッグストアに二千円位で売っています。

ーH0503 “死”について
・ 自宅の両隣の御主人や息子さんも含めて近所で五軒も葬式があった。
  六年程前に“いとこ”がやはり四人、たて続きに亡くなった。 私の年令の風景の一つなのか?
・ 人間の死亡率は百%!
・ 人間の恐ろしいのは、“死”より“死に際”じゃないか?
・ 親の死は、子供に対する最大のプレゼント
・ “我々が生きている間は死はこない。死が来た時にはわれわれはもはや生きていない”(エビクロス)
・ 死んでしまえば塵である。(伊藤栄樹)
・ 死んで三日もたてば三百年前に死んだと同じ事。
・ “苦”は生きているうち。それが死への苦しみであっても!
・ “色いろ、あったが死んでしまえば何ってこたあない!始めから無かったと同じじゃないか! 皆の衆”(山田風太郎
・ “ああ、自分が消滅した後、空も地上も全く同じとは何たる怪事!
・ 死とは人生における最後の挑戦である。(ハイデッカー)
・ 死はお浄土への単身赴任である……極楽世界があるかないかではないのです。
  あるべきなのです。いや、あらねばならないのです。(さち・ひろや)
・ 死も人生というドラマの一部分、それも最後の仕上げという。
・ 死に直面した時“さようなら、たださようなら、さようなら!”これこそ、死の苦しみにとらわれない妙薬。
・ 人間は死ぬ事を、ひそかに望んだので戦争をしたのだ。
  自己保存の要求はきわめて強いかもしれないが“死”への欲情はさらに深い。
・ “死の準備”は大別して“自分の心の覚悟”と“自分の愛する者達への配慮”
  にわけられる。死は根本的には“無”である。“無”にはいかなる準備のしようがない。
  “無”になる事に覚悟せよと言ったって、いかなる覚悟も“無”であり“無”になる。
  死はどうであれ“無の世界”=“無”も自覚も存在のない世界へ運び去るのだ。
・ “父母によばれてこの世に遊びに来て、用が済んだら、はいさようなら”(一休和尚)
・ “自分の死”に対して、どれ位時間をかけたか?やっぱりかかった時間と比例します。
  だから死について考え続けるより他にありません。自分の心を明確にする事。それをやっていると毎日が濃縮されて、
  いつ死んでもいいと思う程、充実してきます!(曽野綾子
・ 死は暗闇ではなく光明と考えられるかどうか、もどって来た人はいないのだから。
・ 他人(ひと)は先、我は後!

ーH0505 小説のような本当の話!
 十数年前のこと、父の七回忌の早朝、母と花を持ち墓にお参りに行きました。
ところがすでに墓がきれいに磨かれており、花が飾られていました。
生前仲のよかった“父のいとこ”が、すでに来てくれたと母と語らい、
お参りをしていると、見知らぬ老人が話しかけてきました。
その寺の近所に住んでいるという本人がしみじみ語るには
“自分の子供の高校の入学時に、金がなくコートを買ってやれずに、
店にいた父に正直に事情を話したところ、全く見知らずの自分に分割払いをしてくれた。
それが本当にうれしくてうれしくて!それで父が亡くなった時以来、
必ず命日にこうして掃除をして、花を供えている。”との事。
聞いていて本当に父のすばらしさの一面を知らされた思いでした。
その時、果たして私の七回忌にこんな事がありうるだろうか。
そういう“生き方”を自分はしてきただろうかと、考えさせられる出来事でした。
父の名前は誠作という事もあり、それが本人のコンセプトになっていたのだろうか?
当時、丁度今の会社の理念を考えていた矢先、それが大きなきっかけとなり“誠心誠意”に決めました。

ー H0509 人間関係で最も大事な事
自身八人姉兄の末っ子の身を守る知恵の為か? 学生時代の寮生活での経験の為か?
“一つの原則を本能的に身につけてしまった。
”他人の陰口にしろ、よくない情報の媒体者の名前と情報源をあかさない事と、口どめされた情報は他に絶対流さない!
ところが世の中これがかなり教養のある人でも、この原則の重要性を気づいていない。
逆にこれこそ自分の特性として人間関係に利用している。
学生時代に、たしか“孤独の群集”(リースマン)という
都市社会を分析した書物を読んだ記憶があるが(内幕情報屋人間こそ都会人の特性とか)
この文章を読んでいて自分の事を書かれているのではと思うはずである。
それ位、ほとんどの人は人間関係の基本的原則が判っていない。
 この傾向の強い人は当然の事ながら不幸な人生を送っている。
これが善意という“カタチ”で実行されるから始末がさらに悪い。
以前いた会社の部下の女性にこの典型的なタイプがいた。頭がよく、美人なのだが誰もいやがる。
今でも悪い意味で忘れられない人だ。本人には悪気は全くない。
ただそれが趣味なだけだが。周辺の人は大変だ。当然ながら現在不遇である。
本人はその原因を判ってはないが、周囲の人間はそれを全員知っている。

ーH0511 高級化と高度化
・ ペガサス・Cで印象的な言葉で“高級化と高度化を勘違いするな!”がある。
 バブルでは、この勘違いで多くの業界が大ヤケドを負った。
 ペガサスの会員はほとんど、大きいケガがなかったのは渥美先生が
 当時よりこれを、くり返していた。 システム・科学等を駆使して高級風にみせる。
 それも低コスト・低プライスで、これこそ高度化だ! 新潟のホテル業界でも漫画みたいな話が本当にあった。
 高級ビジネスホテルが、それもアメリカのホテル・システムで 駅南で計画があった。
 (一泊一万円)それに対して、周辺住民が大反対であった。 その理由が計画者よりスジが通っていたのだ。
・“こんな馬鹿な計画はおかしい。必ず失敗する! そうすればラブホテルに転用しなければならなくなる。
 だから反対だと!”そして中止となった。 その会社は住民運動のお陰で助かったのだが、
 しかし今はつぶれかかって??。  百貨店業界も、この程度の原則さえ判っていなかった
 無知業界(渥美先生)というのが、今や現実にさらされている。 古町に“ネクスト・21”という高度?の建物、
 “新潟ふるさと村” “ロシア村”古くは“プラーカ”  誰があれをやったのか!
 一発屋のイベント屋と組んだ政治屋の詐欺行為の結果が無残に残っている。

ーH0511 51対49
 学生時代、進路に迷いゼミの武沢教授に相談に行ったところ、
“君自身の気持ちは数学では何対何ですか?”といわれた。その時の答が51対49であった。
“それならば51のそのほうを選択すべきです!”と一言!自滅も含め49の道をえらびざるを得なかったのだが。
しかし、この51対49という数字と気持ちの混沌を数字で表現する事が非常に参考となった。
物事を51対49とみると意外とわかりやすい! 好き・嫌い51好きで49嫌い差引き2がより好きと!
正しい間違い差引き2と!でも考えてみれば何事も、そうかもしれない。
大体、一般には自分が99%正しい、いや100%正しいと思うから、相手がゆるせないのだ。
自分が51正しいか、もしかしたら49かな位に考えてればよいのだが?そうはいかないのが人間感情であるが。
仮にある嫌いなタイプがいて、いやな部分が目についたとする。
しかしこの考えでいれば、あと49必ずよい部分があるはずだと幅をもって相手をみる余裕ができてくる。
また、ある商品をすすめられたとしても、必ず49の何かが必ずあるはずだと一瞬の間を置く事ができる。
(但しあくまで考え方一つである。)

ーH0511 無駄飯(浪人生活)
 私ほど浪人生活の回数を多く経験した人間も少ないのでは?と、馬鹿な自慢をしてみる。
大学浪人(18才)・社会浪人(24才)・事業浪人(26才と34才時)
等々。浪人生活は本当につらい!魂の芯まで氷つくようである。私の姉がいった
“ボクサーが三分たたかって一分休んでいるようだ!横でみていてもつかれる”
すぐ上の秋に最近妙な事をいった。“お前は若い時、いっぱい遊ばせてもらった。
末っ子だったからできたと思う。あれが羨ましい。”
たしかに、これほど戦略的にみてよい事はなかった。一生懸命やっていると、すばらしい事をやっている錯覚に落ちいってしまう。
結局それが何の為かを忘れてしまう。その事が浪人の立場にいるとみえてくる。 一生懸命やりすぎたのがこの様だ。
最重要のAをはずしてB・Cの事ばかりやりすぎて、そしてD(浪人)になってしまったこの様が、いやっという程身にしみる。
ところが、その立場に立っているのにそこより逃避しようとジタバタしてEFGとさらに落ちていく人を身近で何人もみた。
それも、中年期を過ぎた人が。私がこの経験より学んだ事は“何が自らにとって「A」であるか、それをじっくりみすえる事、
そしてその努力を人知れず、一人でこつこつ努力をする。世間とは周辺の馬鹿な現実にどっぷりつかりきっている四〜五人の事だ。
彼等こそ反面教師だ!”という事だった。定年退職期や事業の失敗等ではじめてそれに気ずく人が、
私がみている範囲で95%以上だ。要するに“節目”をつくるという事だ。そしてそこをうつという事だった。
〜〜
ーH0511 妙な夢―
(?)ある夜半、自宅のどこかで音が聞こえた。
泥棒ではないかと起きようとするが半睡眠状態で身体が動かない!
起きよう起きようとしているうちにスーッと身体が起きて廊下に出て、
居間に行き、台所を通り、寝ていた部屋へ一周してもどってきて布団に入る。
ところが、ところがである。自分の肉体は反対側の向きでねている。
まずいと思い反対側にねがいって自身の肉体と一緒になる, という夢(?)である。
これが単なる夢か幽体離脱七日まだわからない。
また、こんな夢(?)もみた、明け方、自分の身体が1.8m位浮いて(そのまま水平にいて)
下をみると自分の肉体が下にみえる!直観的にまずいと思い下にもどろうとするがもどれない。
かなりうなされていたと思うが?何年か後に誰かにきいたが、霊現象の一つで、よくある事だそうだ。
こんな事もあった、これは夢ではない。部屋の天井や床の下四ケ所で次々と音がする。
はじめは気のせいか夢かと思い、じっくりと観察を数夜してみた。しかし夢ではなかった。
ところで当社の税務事務所の応接間でも同じ現象があるそうです。

ーH0511
妙な夢―(?)秋葉原ワシントンホテルに泊まった時の事。夜半、何かのケハイに横を見ると女の人の顔が浮いている。
夢だろうと腕をつねったが痛い。これは面白いとメガネをかけじっくりとみた。
全体が白光色の黒髪の27〜28才位の、のっぺらした美人であった。
別に恐ろしいという事もなかったが顔ははっきりと憶えている。ところが何年か後に会社のある人にその話をしたところ、
“それってみんな同じ顔をしているんだよね!”といわれた時はじめてゾーッとした。 またこんな夢もある。
夜半目がさめて寝むれないので、般若心経をとなえてウトウトした頃、急に別空間にひきずりこまれそうな感覚になり、
まずいと中断した。 あの別空間は“別宇宙”“ブラックホール”的イメージであった。
その前後の夜半に夢で宇宙船みたいなものが近くおり、乗れという。
これも乗ったら危険と直観し去けた夢である。あれに乗ったらどんな景色がみえたのだろうか?
単なる夢とかたずけられない妙な内容であった。