2007年08月21日(火)
2331, 「ぼくの血となり肉となった500冊」ー2
      (*'▽'*)/☆゜'Good☆Morning   −読書日記
              
「ハエとハエとり壺」は、哲学の意味の説明に解りやすい喩えである。
道理さえ解れば何とことがないが、知らない当人にとっては道理の存在があることすら解らない。
還暦過ぎたり、死の間際になって気づくことも、若いときに少し考えれば解ることばかり。
それが教養ということなのだろうが、若いときは人生経験が浅いので
如何してもディズニーランドのキャラクターのように頭でっかちになってしまう。
しかし、それでもよいから教養を身につけることこそ必要である。     
              
ーヴェド・メータ著『ハエとハエとり壼』ーの斬新さ

立花隆
 ある日、何かの用事で「諸君!」の編集部に行ったところ、田中さんがちょうど外から、
帰ってきたところでした。いきなり「お前、ウィトゲンシュタインって知ってるか?」
と聞いてきた。「知ってるも何も、いま大学の授業でやっていますよ」
と答えると、「じゃ、『ハエとハエとり壺』知ってるか?」と、この本の話をもちだしてきた。
 ハエとハエとり壼というのは、ウィトゲンシュタインの有名な哲学の定義、
「哲学というのは、ハエ取り壷にはまってしまったハエに、ハエ取り壺からどうすれば出られ
 かを教えてやるようなものだ」 (『哲学的探求』産業図書)から出ています。、

 ここでいうハエ取り壺は日本のハエ取り器とはちょっとちがいます。当時ヨーロッパで使われていたもので、
大きなガラスビンを伏せたような形状をしていて、下からは出入り自由です。
ガラスビンの下のほうに置かれたエサにつられてそこにとまったハエが、
そこから飛び立つと、ガラスピンにトラップされて逃げられなくなるというものです。
ハエは本能的に上に飛ばうとするからガラスビンにトラップされてしまうのであって、
一回下に飛んで、ガラスビンの下のフチをまわれば逃げられるのですが、
ハエはハエの本能に従って上に飛ぼうとするので、どうしてもつそれと同じように、
哲学的難問はすべて、人間の知が構造的にかかえこんでしまっている弱点によって
作り出されたニセの問題(ハエと同じように逃げ道が発見できればたやすく逃げられるのに、
普通に頭を働かせている限り逃げ道を発見できない)だというのが、ウィトゲンシュタインの立場です。

本当はそこに問題そのものが存在していないということに気がつけば、
すべての哲学上の問題は解決されるというより消えてなくなる、というのがウィトゲンシュタイン
哲学のエッセンスです。 それを端的に表現したのが、ハエとハエとり壺・のエピソードのわけです。
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解)
この喩えに近いのに、勝海舟の蝿取り器?がある。 
甘い餌を欲に喩え、それに群がり逃れられなくなった蝿を大衆に喩えている。         
人間は死ぬもの、なら死ぬという目で人生を180度ひっくり返してみれば
何をすべきか、何を優先しなくてはならないのか解るはずだ。
それは、このハエとり壺と同じで一度、娑婆を醒めた目でジックリと
見つめなおさないと、その辺の娑婆人達の世間とやらいうガラスに頭をぶつけてしまう! 

方向を一度変えて下向きに飛んでみれば、ガラスから逃れでることが出来ように! 
だから哲学が必要なのである。 哲学って何かって?それは、死んでしまえばお終いよ!
じゃあ、生きているうちに何をしておいた方がよいか?何を知っておくべきか? そして何処まで望むべきか?
せっかくの地球旅行に、旅行先で小さな水溜まりでチャポチャポしてないで、彼方此方に行って何もかも経験して、
感動して、見るべきものをみて、知るべきことを知って、もういいや!と、嫌になる位のことをしないと!
その為には考えて考えて考えること、それが哲学!ということ。 違う?
水でチャボチャボも良いけどね! でも地球は広いし、せっかく地球に数千億の人間が来て何かを残していったのに、
その跡を見るほうが帰る時に良いんじゃない?それだけじゃない他の動物も多く遊びに来ているし・・・
 でも、水でチャボチャボもしないで、出歩いていて良いのか? まあ、こんにゃく問答になってしまった!           
                                ヾ(・ω・`)ノバイ
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