2004年08月13日(金)
1228, 広松渉(3) 哲学についてー27

ー人生舞台の役・割について

「実践するとはどういうことか」の(「行為の存立構造」の人生劇場))の概略を前回書いたが、
行為の存立構造をなしている「役・割」について、私の説を書いてみる。
「役・割」が一番鮮明で解りやすいのが嫁姑の関係である。永遠の人生の課題といってよい。
結婚は二人だけの関係と思っていたのが、その取り巻く複雑な人間関係がついてくる。
それに舅・小姑が絡んでくるから、その役・割をこなす事は並大抵ではない。
離婚は互いの相性もあるが、この複雑に入り組んだ関係もある。
演技者も「外面・内面」を使い分けなくては、下手な役者になってしまう。

長い年月かけて育て上げた息子が、バカ嫁に結婚を機会に取られてしまうのだから、コトは複雑である。
嫁の立場からすれば亭主の母子関係も、べたべたしたマザコンにみえてしまう。
その母親は、いつまでも子離れをしない嫌な存在になる。 家という制度が強い時代ならまだしも、
今のように個人が主体という時代では、嫁姑の関係はこじれるケースが多い。
正に人生劇場における集約された「役・割」で、お互いにぶつかる場面になる。

地方のような固定社会では、なおさら役・割が固定化するから、行為の存立構造は露わになるケースが多い。

・小さな世界が全世界と信じて疑わない「子狐」のミニ・テリトリーの因習の世界で因果関係の芝居が演じられる
・「おれは田舎のプレスリー」的存在の地方(?呆)名士役
・必死になって小さな世界で肩肘を張って自己宣伝に終始している「チンドン屋」役と、
 それについて回っている「茶坊主」や「芸者」役
・ドブの中に発生する「ぼうふら」の群れー噂世界に浮く幼虫?役

人生舞台も、このようにしてみると面白いものである。といって突き詰めれば、どの役も大同小異の存在でしかない。
石が個性個性といったところで、所詮は砂利でしかないが。 石ころそれぞれが、自分の正義を持ち、それに従って
価値観を持って自分の舞台で役・割を演じることが、人生を生きること。
ところで、いま書いてきた役は、私の勝手に創りあげた主観の世界?

「あまりにも偏見でしかないだろうか?」と疑問を自分で投げかけてみる。
社会、世間としても、それぞれの汗と涙で出来上がっている。 面白おかしく創りあげた私の心象風景でしかないのではないか。
蛇には蛇(その地に縛られている象徴)の生き方、存在理由があるはずだ。
そんなものは対比の問題でしかないのでは、と。その通りである。それぞれの役を、面白おかしく演じていればよいのである。

イタリアのベニスのカーニバルで、仮面を被って練り歩く。自分とは違った仮面の人を演じていると、面白い心理状況になる。
また逆に、イスラム教徒の女性がベールを被ると、自分という存在が消えてしまった空気のような、
透明人間になったような妙な気分になるという。面白いものだ。

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