2006年07月30日(日)
1943, ローマから日本が見えるー17          
                才八∋ウ_〆(∀`●)
第七章「創造的天才カエサル」−4
 ーカエサルがヨーロッパを作ったー

ところで、カエサルによるローマ帝国の安全保障構想は、後世のヨーロッパ史にも大きな影響を与えることになる。
カエサルがヨーロッパを作った」とする人も多い。 現在の西ヨーロッパの都市の多くは、
カエサル以降のローマ帝国時代に作られた軍団基地や、植民都市を起源としています。

フランスのリヨン、ストラスブール、フレジュス
ドイツのケルン、ボン、マインツ
イギリスのヨーク、チェスター、バース
オーストリアのウィーン
ハンガリーのブタペスト、セルビィア
ユーゴスラビアベオグラード などなど・・・
ハッキリいってヨーロッパは古代ローマ人によって作られた。

ーなぜカエサルは寛容を掲げたのかー

カエサルは「新しいローマ」のグランド・デザインを描き、それを次々と具体化していったが、
その構想をよく理解できた人は同時代に一人もいなかったといってよい。
当時の一番の知識人であった歴史家のキケロさえ、カエサルは協和制の再建に力を貸せてくれるものと
信じていた位である。領土が拡大してしまった現在、そのローマに適した統治システムは何か、
それを君主制にみたのだ。そうした彼の思考を読みとれた人は少なかった。

カエサルは生前に書き記したとおり、「人間ならば誰にでもすべてが見えるわけではない。
多くの人は自分が見たいと欲することしか見ていない」ということである。
ここまで冷徹にローマ世界を見ていたカエサルなのに、反対派を決して弾圧をしなかった。
彼は政権に就くなり「寛容」をモットーに掲げ、かって剣を交えた
ポンペイウス派の人々の安全な帰国を保障したほどであった。

それゆえに彼は自分の護衛隊を解散してしまい、丸腰同然でローマ市内を歩いた。これは彼の気性と見るしかない。
彼は自分の身を守る鎧は信義だけでよいと考えたようだ。そして、彼はBC44年に暗殺をされてしまう。
カエサルは王位を狙っている」という確信から彼を暗殺をしたブルータス以下14名の元老院の議員によって・・

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