阪大総長の鷲田清一対談集「気持ちのいい話」に、なかなか含蓄のある話があった。
多田道太郎との対談の中で「気持ちがいい」とはなんだろうと考えたとき、
それは「いちゃつく」という言葉に行き着くという。
最近の若い人は、スローセックスというか、最後まで行かないプロセスをダラダラ楽しむ感じが、また良いと。
鷲田は、女子高校生同士が、ベッドで何となくいちゃついている光景が、一番イメージしやすいという。
だいたい飲みにいって、ママとかホステスに何となく酒を飲んでいるのは、横から見れば子供に帰って
いちゃついている姿に似ている。 
そういえば、私が以前に女性の職場に居たときのタブーは特定の人との親しい関係だが、
不特定多数と何気なく仕事の中でいちゃつくのは、誰も見てみぬフリをする。 
それが女の職場の中の男の特権である。 誰とも目的無しに共同作業の中で引っ付いて、
適当に仲良くするのは、幸福の最たるものである(この本で気づいたことだが)。

この対談集の中に、 鷲田が宗教学者植島啓司から聞いた話として紹介している話が興味深い。
「‘解脱’は自分を遠ざけて、世界の中に自分を溶け込ませる技術で、‘救済’は逆に自分を開いて、
 他人を迎え入れて他人でいっぱいにするというかたちで自分を溶かしてしまう。 だから方法が違うんですよ。
 自分が相手の中に吸収されるか、逆に他が自分の中に浸透するか。どっちにしても、自分と世界の距離をなくして、
 自分を触っているか。相手を触っているかわからないような『いちゃいちゃ状態』を宗教だ」という。
 これから考えると少女が他人の体でいちゃいちゃしている状態や、部屋の中にぬいぐるみをいっぱいにしている状態と、
 宗教の解脱、救済と、きれいにオーバーラップするという。

鷲田は、自分はこれまでの人生で最も欠けていたのが、いちゃつき、といい、寝転んで誰かと飽きるまで、
とことんゲップをしそうになるまで、いちゃつき続けるのが、今の彼にとっての一番の幸せのイメージと
正直に告白している。 阪大の総長という立場など、捨ててやってみれば!といいたいが、そうもいかないか。

いちゃつきは、酒の席の二次会では常道で今さら。 子供の頃、実家の商売上、若い綺麗な女性が入ってくると
直ぐに擦り寄っていって、太ももに抱きついた思い出が、リアルな記憶にある。
最近、いちゃつくということが、殆ど無くなってしまった! 家内とは?言葉でジャレテイル、それもいちゃつき?
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次ぎの鷲田の言葉がいちゃつきに対して、明確に説明している!
 「だから、一人っきりじゃなしに、誰かどなんの目的もなしに引っついて、密着する。
  そうやっていちゃついているような幸福のイメージを、僕なんかはポジティヴにとらえたいという感じがあるんです。
  なにかと親密な関係にあることの安心感。その相手は、友だちじゃないときはぬいぐるみだって、毛布だっていいわけ。
  部屋にいつばいぬいぐるみを置いておくような、そういう少女が持ってる気持ちよさ、少女が素直に気持ちいいと
  思えるような感じって、僕は意外と大事なんじゃかいかと思っているんです。
  でも、いちゃいちゃってことを考えてみると、子どものときって、ほとんどいちゃいちゃ生活だったと思うんですね。
  親にトイレットのトレーニングしてもらう前だって、おむつの中にウンコが漏れてもけっこう気持ちよかったし、
  海水浴に行けば、砂遊びしながら指の間から砂が漏れる感じとか、砂で作ったものが波がきたらバーッとさらわれる感じとか、
  あるいはドロんこ遊びにしても粘土細工にしても、モノと自分を切り離すんじゃなく、モノといちゃいちゃしてドロまみれに
  なったり汚物まみれになったりしている。それは子どもにとって、とても気持ちのいいことだったはずなんですね。」
  〜〜
  男がキャバクラで、アルバイトの女子大生などと遊ぶのも、いちゃつき願望なのかもしれない。
   少し いちゃつきたくなってきた!

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