2004年07月11日(日)
1195, 授かった不思議な力

ー鈴木秀子の本を何冊か読んだことがある。
先日図書館で借りてきた対談集を読んで、その中の臨死体験の話に興味を引かれた。
何かこの世には私の窺い知れない何かがあるような気がする。
何回か書いたことがあるが、私の場合何回か幽体離脱?の経験がある。
歳を重ねれば重ねるほど「不思議」という言葉の奥行きの深さを感じるようになってきている。

私自身「自分の接した人の運勢が良くなる」話しは、かって聞いたことがない。
神憑りである、いや今風にいうと「上げまん」だろうが、これは結婚した場合である。
有能な右上がりの人は、周囲に似た現象が生じるだろうが、全ての人の運勢を
良くはしない。やはり、何かの特殊能力が臨死体験以降身についたのだ。
人間には、本来持っているが退化して隠れてしまった能力が多くなるような気がして
ならない。あるキッカケでそれが飛び出してくるのだ。
 以下は、ある対談集を書き写しました。 まずは、ごらんあれ!
ーー

臨死体験後、不思議なことがありました。
結婚式に招かれて待機をしていたら、背広を着た人が男性がいらして、
「あなたのような人にようやくお会いできました」っておっしゃるんです。
自分は高野山の系統の住職で、生まれたときからひとを見ぬく特別の能力がある。
そして、あなたの授かったような能力を自分も欲しかったけれどもらえなかった。
どういう能力ですかと聞くと、大きな大宇宙の力が私を通って出会う人に伝わって、
どんどんその人の運勢が良くなる能力だというんです。

私も最初はその能力をまじめには信じませんでしたが、それだけ色いろなことが
重なると信じざるを得なくなりました。今では人に会うのが楽しみになりました。
そのたびに、その方の運勢がこれから良くなると思うと、人に会うのがうれしい。
だから生きていくことが、とても楽しくなったのです。ー

ー人間は地球上にみんなバラバラに住んでいるような気でいて、実は根っこでは繋がっているということです。
自分の手にたとえると良くわかりますが、人は指の部分、見える部分だけを見てこの人の学歴がいい、
お金があるってお互い比較するんです。でも手のひらの部分、根っこの見えない部分では平等で,
全部繋がっているんです。何が平等かというと,命をもらって生かされている存在であるということ。
誰もいつか死ぬということ。大宇宙の大きな慈しみに満たされて生かされている
大切な存在という三つにおいて平等だと思うんです。

だから臨死体験をしてつくづく、あの至福の世界が本物で、この世は経ていく世界だっていう感覚があるんです。
やはり人間の本分、ビーイングと、現実社会での自分の役割、ドゥーイングのつながりに意識を向けていかないと
虚しくなっていくのではないかと。人生のテーマを考える時、ビーイングの世界にまなざしを据えてこそ、
充実したものになるのではないでしょうか。
 
ーその臨死体験の講演をまとめてみるー

奈良での学会に出席するため、友人のいる修道院に泊めてもらっていた。
その修道院は、宮家の立派な屋敷を改造した建物で、二階の客間から下に降りる階段は高く急であった。
その夜、寝つかれなかった彼女は、何となく夜中に起き出し、暗がりの廊下を壁づたいにそっと歩いた。
曲がり角らしきところで一歩足を踏み出したが、実はそこは廊下ではなく、その急な階段だったのである。
 踏み出した瞬間、足は空をつかみ、体はバランスを失った。

恐怖を感じる暇もなく、一気に下まで落ち、床に叩きつけられて、そのまま気を失ってしまう。 ふと気づくと、
私のからだは宙に浮かんでいます。空中にまっすぐ浮いている私を高いところから、もう一人の私が見つめているのです。
空中に浮かんだ私 の足の周りを、なぜかたくさんの筍の皮のようなものが覆っていました。
それが蓮の花びらだとわかったのは、ずっとあとのことです。台湾のさる有名なお寺を訪れたとき、
仏像の足の周りを筍の皮のようなものが包んでいるのを見て、あ、これだったんだと思いました。

それは蓮の花びらでできた台座でした。その筍の皮のような花びらが足もとから一枚一枚散っていくのです。
高いところからそれを見ているもう一人の私は、花びらが散るごとに、自分が一つひとつの苦しみから解放されて、
自由になっていくのがわかりました。
 
一枚落ちると、
「ああ、これでもう人の言うことに煩わされなくてすむ、私は自由になった」と思い、さらにもう一枚落ちると、
「もう人に気を遣い、不安に脅かされなくてもすむ、私は自由になった」とつぶやいているのです。   
 限りない解放感と喜びが胸に溢れてきました。  

花びらが最後の一枚になり、これが落ちたら完全な自由になれると思ったとき、
最 後の一枚の花びらは落ちることなく、からだがすっと飛翔しました。
そのとき、見ている自分と見られている自分が一つになりました。   

一瞬のうちに高さの極みに飛翔し、私は今まで見たことのないような美しい光に
包み込まれました。白っぽい金色の輝きに満ちた、いちめん光の世界にいたのです。
まばゆい輝きでしたが、まぶしすぎるとは感じませんでした。  
 
それは人格を持つ命そのものの光であり、深い部分で、自分とつながり、交流している生きた光なのでした。
これが至福なのだ、完全に自由なのだ、と私は感じていました。
不思議なくらい、五感も思考もすべてが生き生きと冴えわたっています。
オリンピック選手がベストコンディションで世界記録を破る瞬間とは、こんな状態のときなのでしようか。

からだの全機能が最高の状態に保たれ、調和し、研ぎ澄まされているのです。
その冴えわたった意識の中で、私ははっきりと理解したのでした。
 「この命そのものの光の主に、私はすべてを知りつくされ、理解され、
受けいれられ、許され、完全に愛しぬかれている」 これが愛の極致なのだと。

もし愛の究極の状態というものがあるのなら、こういう感情に貫かれることではないかしらとも思いました。
愛に満たされた状態とは、こういうことを言うのでしよう。しかもその満たされた光の世界には、時がないのです。

あっ、これが永遠なんだと私 は思いました。心は愛に満たされ、知性は冴え、能力のすべてが
最高の状態で調和しています。 そんな至福感に包まれていたとき、どこからか声が聞こえてきました。
「癒してください、癒してください」 その声には、少しつたない感じの独特のアクセントがありました。  
その声が聞こえてきたとき、光であり命そのものの主が「現世に帰りなさい」と言いました。
それは言葉ではなかったのですが、そう伝えられたのがわかりました。 そしてさらに、
「現世に戻ったとき、いちばん大切なのは、知ることと愛すること、その二つだけが大切なのだ」
というメッセージを私は受け取ったのです。  
 
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