ある哲学書(*ー参照)の中に、何故人は互いに理解不可能なのかを分解していた。。
長男がUターンで帰ってきて、再就職のことなど、節目ということもあり、話を始めるが全く互いに通じない。
それでいて、居酒屋などに誘うと親子三人が仲の良い家族になる。 そのことを、知人に話したところ、
 ・一人は、「親子で対話など有り得ないこと、会話さえないのが実情だろう。親子であるのは、ただ説得だけ」。 
 ・そしていま一人は、「私の息子は三十半ばになるが、今まで会話さえ殆どしたことがない、
  最近になって上京した時に ご馳走をしてくれと、電話がきだした。会話さえ、していること自体で充分」。
そういうものか?と、思いつつ、それでも何とか成らないものかと思っていた矢先、わかりやすい道理に出くわした。 
               <*−(哲学ワンダーランド・貫成人著)第一章の?「話せばわかる」1−3)>
    ーまずは、その部分を書き出してみる。
  〜〜
 ーひとは誰でも、自分の「地平」に束縛されているー

二十世紀のドイッの哲学者ハンス・ゲオルク・ガダマー(1900〜2002年)は、
‘理解しえないものをいかに理解可能にするか’ をきわめる「解釈学」を構想した。
かれによれば、人々がお互い理解不可能なのは各自が持っている「地平」が異なるからである。
たとえば、物置から古い掛け軸がでてきたとしよう。その値打ちを判断するには相当の経験と知識を必要とする。
それに、そもそもそのようなものに価値があると考えていなければ、その価値を判定しようとも思わない。
実際、古いものには価値がないと思われていた明治初年には、貴重な文物が安値で買いたたかれて海外に流出した。
およそ何かを判断するときには、一定の知識や価値に頼らざるをえない。
そのような判断や価値付けの拠り所となるものをガダマーは「地平」とよぶ。
大海原や砂漠に立ったときに三六〇度ぐるりを水平線、地平線が取り囲む。「地平」とは、地平線の内側、
自分が立っている足下とは逆に、地平があればこそ、その中にある何かを認識することができる。
もちろん、今わたしが位置する地平の外側にある対象も、わたしが移動すれば見えるようになる。
しかし、そのとき地平もわたしと一緒に移動しており、したがってその対象が地平の内部にあることには代わりはない。
物置から出てきた掛け軸の場合、この地平にあたるのは、骨董品を貴重とする価値観、その値打ちを判定するための経験、
知識だ。一定の価値観や知識があればこそ、古びた品物をそのまま捨ててしまうのではなく、目をとめ、
値打ちを判定することができる。あらたな経験を積み、地平が移動し、拡大すれば、これまでわからなかった
ものの値打ちもわかるようになるだろう。肝心なことは、自分の足下にある地平を通常、ひとは意識しないということである。
自分にどれだけの経験があるのか、どのような価値基準をもっているのかのリストをもっている人は誰もいない。
いつの間にか身につけた価値観や経験に応じて、ひとは、その場の諸問題に対処する。
その結果、各人は、自分でも気づかないまま自分の地平に束縛されている。 なにしろ、自分がどのような価値観や経験を
持っているかを客観視する方途はないのである。 しかも、このように地平に幽閉された状態であるかぎり、
それぞれは自分がそれまでに身につけた価値観や経験から、身の回りのすべてのもの、したがって他人をも判断するしかない。
もし、相手が自分とは異なる地平に立っていれば、その相手の言うことや、やることはまるで理解の範囲外ということになる。
古物に意味を認めない人物には、物置の掛け軸を二束三文で売ってはいけないという人物の言うことは理解できないのである。
では、この状況が変わることはありえないのだろうか。
自分とは異なる他者を理解しうるためには、各人が「心を開いて」いなければならないとガダマーは言う。
他人の言葉や行為をすべて自分の地平の枠内で処理しているかぎり、そもそも【自分とは異なるものがいる」
ということ自体に気づくことはない。けれども、何かのきっかけで、自分が何らかの地平にとらわれていることに気づくときがある。
そのときはじめて、ひとは自分の地平を対象化し、相対化するだろう。そして、それまで自分がとらわれていたのとは別の地平も
ありうるということに気づくことになる。 官僚出身者特有の話し方をしていた政治家も、落選が続けば、
土地の人たちの言葉でしゃぺり、かつ、自分の意見を伝えることができるようになるだろう。  
  〜〜
 他人から理解してもらえないという嘆きほど、バカバカしいことは以上からみても解るだろう。
 一人の人間を理解するなど、到底不可能でである。自分でさえ理解できないのに。
  わたしが、ただ馬鹿なオッサンだけは解るが! 

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