2005年07月01日(金)
1550, 将来の不安−2
      ー不安を哲学するとー

我われは、過去に対しては悔恨があり、未来に対しては、不安が付きまとう。
といって、まだ来ぬ未来を不安がっていても仕方がないし、反対にノンビリ過ぎるのも問題。
最悪を想定しておくことも必要であり、「大丈夫!」という言葉を口ぐせにしておくことも、一つの解消方法である。
不安の対象に対して考えつくしたあとで、「その時は、その時だ」と放念することも時に必要である。

青年期の日記を読み返してみても、その時点時点で不安感が大きく口を開けていた。
不安は一生我々を悩ますものだ。我われを脅かす「特定の対象」に向けられたものが「恐れ」であり、
「不安」は漠然とした恐れの感情をいう。その恐れに対して、打ち勝つ克己心が勇敢、勇気ということになる。
前にも、「将来の不安」という題目で書いた。不安は目先の変化に対する不適応から生じる心理の揺れと書いたが、
目的意識の希薄さも不安心理の一つである。 その不安感に対して、哲学者がどのように考えてきたのだろか?

ーある本からの抜粋をしてみるー

・先ずは、キリスト教の初期に神に対する畏敬や罪に対する恐れを不安とみた。
 その不安を克服することが永遠の生を得るための前提であるとした。

・次には、19世紀になって、キルケゴールが不安の心理分析をおこなった。
 その後、ハイデッガーサルトルなどの実存主義者やフロイトなどの精神分析で中心概念になった。
 キルケゴールは不安感を罪の問題に結びつけて考察する。アダムとイブの原罪から,
 人間は皆罪を持って生まれてきたとして、 罪の状態に陥る可能性の中で罪あるものとなると。
 不安とは、悪魔的なものが持つ妖しい魅力に堕落できるという「自由のめまい」であり、それは堕落の深遠を
 覗き込む時の感覚にたとえられる。サルトルは、これを「めまいが不安であるのは、私が断崖に落ちはしないか
 という恐れだけでなく、私みずからが断崖に身を投げはしないかと恐れるかぎりにおいてである」と考えた。
 ひとは天使や動物と違って、可能性に対してたえず不安を覚える。
 それは人間がこころと身体との総合としての精神という特殊のあり方をしているからだ。つまり人間はその本性上、
 不安になりざるをえないのだ。 不安の中でおのれの罪を自覚して、はじめて目覚めた精神となる。
 その絶望的な不安にかかわらず、なおも自分自身に真剣であり続け、
 ひとりの単独者として信仰へと飛躍することによって、不安から解消され、真に自由になることができる。
 キルケゴールは不安の心理を分析することを通して、人間のあるべき姿を探求した。

ハイデッガーは、不安とは現存在として最も根本的な気分であるとした。
 彼によると、現存在は世界内存在として理由もなくこの世界に投げ出され、そのつど、何らかの気分に規定されている。 
 日常性の中に埋没されて生きている非本来的あり方から、本来的自己を呼び覚ますきっかけとなるのが不安である。
 とりわけ「死」の可能性の前にしての不安において、現存在としての 根源的開示がはじめて生起する。 
 我われはいつか死ななくてはならない。 「この私」の死を誰も変わってはくれない。
 その死を痛感する時、人は日常から引き離され、単純化し自分自身と対面せざるを得ない。
 その死を見つめることによって、その可能性に「先駆」することによって、本来の自分を取り戻すことができる。
 おのれの実存をたえず知覚させてくれる 気分として「不安」を考察した。

・精神医学において、フロイト神経症と不安の関係を探求した。
 はじめは、不安を性的不満足にたいする生理学的な反応とみなしていた。
 しかし後半は不安とは自我に対する危険を知らせるシグナルであり、
 それを回避するための防衛機制を作用させる感情であるとした。

ーー
不安感は誰にもあるが、その度合いであろう。不安感のないのもおかしなものであるし、
強すぎて何もしないのも問題である。我々の究極の不安は、やはり「死」である。
といって、死ぬまでは生きているのも間違いのない事実である。
キリスト教的な神への原罪意識
・精神を持ったためにあらゆる可能性を持つ不安
・死への恐れ
・自我に対する危険のシグナル  等々、を不安の根本原因とみている。
これらの不安を抱えて生きていくからこそ、人生は面白いのだろう。
所詮、不安感からの解放はないのだ。それならば、精神の属性として仲良くしていかなくてはならないのか。

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