2002年05月28日(火)
420,世間とは

「西洋でいう個人が確立されてない日本では、社会は存在していないのでないか?」という疑問が以前からあった。
その代わり存在するのは、噂と悪口からでお互い牽制しあう「世間」である。
阿部謹也の「世間とは何か」という本を立ち読みをして、思わず納得した。

現在国際社会で日本が冷笑されるのも、もともと日本では存在していない
国際「社会」の中で、常に世間という日本社会を外に出してしまう為である。
勤めとか事業で、いろいろの地域社会をみてきて漫画的な社会?構造に驚いた。
世間様の存在と、それに対するペルソナー仮面を付けて、全員して演技している滑稽さである。

それは社会というより、群れという感覚でありその統制は噂と恥の文化である。
ある作家がある部落に住んで、、その滑稽を「気違い部落」という本で著した。
それが売れると、逆に気違い?にされ村八分にされてしまった事が、話題になったことがあった。
世間に属さない他者は今の日本では人であって人間でない、と先ほどの「世間とは何か」に書いてあった。  
その地域の集り坊主とか、地銀とかに勤め、支店長あたりになる。
そしてその地域の噂社会の中で、よい人を演技する?のが、「世間を渡る」という世界。

この世界で、個人として真っ当に生きるには、強靭な意思と主体が必要だ。
結局それを殺ぎ落とさないと、生きていけない社会でもある。
そして自分とは何かを死に近づいて考えて、気づく?世間に縛られた小さな一生を、その時初めて悔やむ!
世間とは、幻想社会という事を! 日本の島国的特性そのものだ。

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10年前書いた文章です。
ーH0407城下街小唄ー
 私の出身地の長岡はかつて“長岡藩”の城下街であった。
その大手通りのほとんど真中に生まれ育った事もあり、その長所・短所がよくわかる。
その特質は閉鎖性・固定的、商人的であり、“城下街曼陀羅”がきっちりできており漫画的ですらある。

彼等の社会は“ウワサ社会”で構成されている。 特に長岡財界とかいう社会が存在(?)しており、
彼等の出す“ウワサ”がその社会を大きく左右する。それが事実であろうがなかろうが“マンダラ”
の中心点に近い人間が言った事こそ絶対のようだ。
(“ウワサ”として)彼等の社会をみていて、維持型の人間こそ“一級”と評価される。
固定社会が故に何もしない(何もできない)事こそがベストなのだ。

“非能動的二代目+婿取り娘サロン社会”と言える。先日もいやな“ウワサ”を聞いた、今は下火になったのだが、
新興の各業界の№1の社長が十人あまり№1が故に聞くに耐えない“ウワサ”を流された。
“一種の集団いじめ”なのだが、そのストーリーが陰湿でリアリテーにとんでいる。
冷静に考えればほとんどが尾鰭のついたウソである?
それがおもしろおかしくて集団ヒステリック的につくりあげられており、自らの名が出るかどうか怯えている。
“参加型変態うわさゲーム”を全員で楽しんでいる“痴呆社会”そのものである。

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