2004年05月28日(金)
1151, 「老い」を考えてみる

誰しも老いるのは嫌であるが、それは「長生きをしたからであり、そうプラスに考えれば、
老いもそう悪いものではないのではないか」と考えてきた。老いは誰もが通らなくてはならない道である。
人生とは、徳川家康でないが重荷を背負った山登りに似ている。
登るほど息切れする。しかし視野は広くなることも事実である。

身体の老いより、心の老いが怖ろしいのが老齢期の大問題である。「青春は失策、壮年は苦闘、老年は悔恨」
というが、それを乗りこえた精神の自由を維持することが、大事ではないだろうか。
若いときには、われわれは愛するために生きるが、年を重ねるとともに、生きるために愛することが必要になってくる。
過去を振り返って、その重さに耐えきれなくなる時、愛と感謝で包み込まなくてはならなくなるからだ。

身近の色いろの人をみると、「若い生活をしている者は若いが、老いた生活をしている人は老いている」
というのが解る。 何があっても、精神は常に若く保たなくてはならない。
人は老年を恐れるが、そこまで到達するかどうか解らないのに気楽なものである。
人生は飛び立つ時より着地が難しいのは、飛行機と同じようなものだ。
とくに商売や事業をしているものにとって、最後は切実な問題になる。いかにソフトランデングするかが問題になる。

「60過ぎのことを、それまで全て先取りをしてしまえ」と思って生きてきたことが、今になって本当に
良かった思い始めている。気力、体力、金力のバランスが崩れてきて、どうしても計画どおり行かなくなる。
色々な問題が弱いところに出てくる。それなら、無理をしても60前にした方がよいと自覚していた。

義兄がしっかり60過ぎの準備をしていて、ルンルン気分でいたが、
60歳直後に亡くなってしまった。 思った通りにいかないのが人生である。
初めから、人生の余白を埋めるのも大事ということを教えてもらった。
いずれにしても、一日一日前向きに精一杯生きていけばよいのだろうが。

以前、20歳上の従姉が、自分の90歳でなくなった母親のことを回顧して
『母は50,60,70,80歳の峠を越えていった凄さが解るようになってきた』と言っていたのが印象的である。
老いに関しては現在読み続けている藤沢周平の小説の隠れたテーマの一つだ。
彼は主人公を通して老いいく人生の切なさや、最後の光り方を切々と書いている。
 もう目の前に、一つの峠が見えてきた。

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