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..φ(ー ̄*)カキカキ_φ(* ̄0 ̄)ノオハ
最近は、サルトルは人気がないが、私が学生時代は最も人気のある思想・哲学者であった。
サルトルといえば「存在と無」である。その中で説かれている「対自」と「即自」と「対他」
というキーワードがある。これらの言葉に出あった時の驚きを今だに忘れることが出来ない。
この言葉から「自分の裂け目」を言葉で初めて知った。
・そのままの存在が「即自」。 犬は己を犬と思わない。 自分が何者かを問わない存在。
・その己に語りかけるのが「対自」になる。自分が「〜である」ことを意識して生きている存在。
・そして、他人から「もの」として見られる存在という意識が「対他」。
「実存が本質より先立つ」人間はまずは生まれて「存在」となる。その後に、それぞれの本質が作られる。
実存主義だが、サルトルは、 それで、「私」という殻から抜け出て「外に出よう」と....。
この辺が学生時代の「私」の理解である。当時、これを読んでいるうちに少しオカシクなりかけた記憶がある。
先週は、面白いので手持ちの哲学書入門書の何冊かを引っ張り出して、サルトルに集中してみた。
なるほど大戦後に一世を風靡するだけのことがある。共産主義の理解者として、左派のイメージが当時あったが、
現在振り返ってみると、それほどでもない。
さて、この一週間で サルトルで思い出した知識といえば、
・「主体性」の哲学であること。
・デカルトは「あらゆるもの疑ってみた結果、疑っている自分、そのように考えている自分がいる、
ということだけは疑うことが出来ないのではないか」と考え、「私は考える、ゆえに私は存在する」とした。
それをサルトルは批判をした。 彼は「私が、何かを見ている」「私が何か考えている。」の
「私」が疑問という。「何か考えている」は確かだが、「私」は振りかって「反省」をしていた時に生まれる対象。
つまり反省している意識とは、意識自身を対象とする意識なのである。「私とは一人の他人」なのである
・人間は自由の刑に処されている。
「人は何も決められてない投げ出されて、一から自分をつくりあげていくしかない。
それが人間の「自由」である。投企とは、現在の自分を乗り越えるため未来へと 自分を投げ出していくこと。
人生を前向きに生きていくことということである。
・アンカジュマン=自分の選択をする以上、自分の行動には責任を負わなければならない。
と同時に、社会の未来に対して責任を負うべきである。
ー 等々である。
次回は、新たに知ったことを要約してみる。
ヾ(^ω^*)
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