2004年05月24日(月)
1147, 「唯脳論」 

この本も、なかなか面白い。情報化時代だからこそ脳が問題になる。
脳こそ、情報器官そのものであり、それがコンピューターと結びつき、さらに
インターネットでネットされた現代社会では、最も注目されてしかるべきである。

自分の脳を公開して、さらに自分で時間をおいてみてみると、自分でも面白いのだから、他人が見たら
もっと面白いだろう? この随想日記は「唯脳の世界」そのもの、それも重層に重なっている。
「現代人は脳の中に住むという意味で、いわばお伽噺の世界に住んでいるといっていい。」
と著者は書いているが、ある意味で、このホームページもお伽噺なのかもしれない。

ー以下は、あるホームページの抜粋を、再構成したものである。
それにしても、神様か、高度の何かが人間や生物を創ったとしか思えないが。
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養老孟司著 青土社
●はじめに
・現代とは、要するに脳の時代である。
情報化社会とはすなわち、社会がほとんど脳そのものになったことを意味している。
ヒトの歴史は、自然の世界に対する、脳の世界の浸潤の歴史だった。それを我々は進歩と呼んだのである。
自然保護運動が、しばしば理性に反するようにみえるのは、その実態が「自然に帰れ」 
 運動ではなく、直感的な「反-脳」運動だからであろう。
現代人は、脳の中に住むという意味で、いわばお伽噺の世界に住んでいるといっていい。
・・・・・ お伽噺に異を立てる現実とは、我々を制約するものに他ならない。
それは歴史的には常に自然だったが、いまでは脳になってしまった。
・我々はかつて自然という現実を無視し、脳というお伽噺の世界に住むことにより、
自然から自己を解放した。現在その我々を捕らえているのは現実と化した脳である。
脳がもはや夢想ではなく現実である以上、我々はそれに直面せざるをえない。」

唯脳論とはなにか
・ ヒトが人である所以は、シンボル活動にある。言語、芸術、科学、宗教など。
我々の社会では言語が交換され、物財、つまりものやお金が交換される。
本来は全く無関係なものが交換されるのは、脳の中にお金の流通に類似した、過程がもともと存在するからであろう。
・ ヒトの活動を、脳と呼ばれる機関の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を唯脳論と呼ぼう。
・一般に自然科学者は、考えているのは自分の頭だということを、なぜか無視したがる。
 客観性は自分の外部に、つまり対象にあると思いたがるのである。
「科学研究の結果」=業績は多くの場合、当人の脳の機能である。
しかも、その業績が誰にでも理解できるとしたら、それは誰の頭にも同じ機能が生じ得るということ。
そう考えると、「客観的事実に基づいた研究業績」とは、本当にはどこが自分の業績か、判然としなくなる。
そのために、自然科学者は、自分と他人の脳のことなどは考えたくないのだろう。
動物実験、つまり自然科学的手法だけでは、ヒトは理解できない。だから人文科学が存在する。
これは言語ばかりに頼るものだから、もめてばかりいる。ヒトの人たる所以をさらに
理解するには、将来は唯脳論に頼らざるをえないのではないか。
・医者は大体、理科と文科の間に挟まって往生するものである。
両者を結び付けるのは脳であるというのが、この本を書いた私の動機である。
ホモサピエンスはここ数万年ほど解剖学的、すなわち身体的には変化していない。
従って、脳の機能も、数万年このかた変化していないはずである。
千変万化する学問分野を脳から見れば所詮同じ事をやっているはずである。
理科と文科とは脳の使い方の違い、使う部分の違いにすぎない。
・ それなら、脳を調べなくてはならない。その機能形式にある定まった法則性があれば、
そこに戻って理科と文科の話し合いがつくであろう。 ・・・・
言葉とは、大脳皮質連合野の機能である。発信された「言葉」から「受け手」は自己の脳の中に
「送り手」の脳にあったものと、類似の機能を起こさせようとする。
これがうまくいかないことが、人類社会のモメごとのかなり部分を占める。
これを解決するものは、脳の機能の研究以外にはありえない。

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