以前、旅番組で猿が二匹で夕陽が沈むところを眺めている姿を後ろから映していたが、
   いやに、その画面が目に焼きついている。猿も日没の美しさに心打たれるのだろうか。
   それは感動という心の働きではないだろうか?それを猿が持っている?等々、を考えた。
   しかし、同じような姿を、ユングが見ていたのである。
   夕陽の入りと、朝日の昇るのを見るのは万国共通のようで、その不思議を感じていたが、
   猿も、その美しさに見とれていたのである。

  ユングの『自伝』の一節に以下のような印象的な言葉である。
   まずは、その一節を書き写してみよう。
   〜〜
ウガンダのナイル河上を、ユングが旅をしていたとき、
断崖の上にヒヒたちの群れが東の方にむいて並んで座っている。
その地帯の夜明けは信じがたいほど劇的った。
朝日の光が、渓谷の深い闇の底から一切の物の形を浮かび上がらせる。
ヒヒたちはその朝日の最初の瞬間を、身じろぎもせず待っているのだ。
そしてその光のドラマを見終ると、ぞろぞろと台地の向こうに去ってゆく。
「光への憧憬、意識に対する憧憬」
「原初の暗闇から脱出しようという抑え難い衝動」・・・・。
  〜〜
この地方の日の出は、日々新たに私を圧倒する出来事であった。 
劇的だったのは、地平線上に太陽が急に昇ってきたときの光輝よりも、
それに続いてひき起こることの方にあった。私は夜明け直前に、キャンプ用の椅子を持ち出して、
アカシアの木の下に座る習慣をつけた。私の前には小峡谷の底に、黒い、ほとんど暗緑色のジャングルが
細長く横たわり、谷の反対側にはジャングルの上に聳える台地の外輪があった。 
まず、光と闇との対照がくっきりと鋭くなった。
それから緒事物がはっきりとした形をとって光のなかに現れ、光は緊密な輝きとなって峡谷を満たした。
谷の上方に見える地平線はまばゆいばかりに白んだ。
次第に輝きをましてくる光は諸物の構造にまで透過するようにみえ、諸々の事物は、
まるで色ガラスの破片のように、ついには透明に輝きだすほどにまで、内側から輝いてくるようになった。
すべてのものは閃耀する水晶に変容してしまう。 ベル・バードの鳴き声が地平線のあたりに響き渡った。
このような瞬間には、私はまるで寺院の内部にいるような気がした。
それは一日のうちの、もっとも聖なる時間であった。
私は歓喜して飽くことなくこの光輝を眺めており、むしろ時を超越した恍惚にひたっていた。
 (中略) そのとき私は、人間の魂には始源のときから光への憧憬があり、
原初の暗闇から脱出しようという抑え難い衝動があったのだということを、理解した。
(中略) 光の来る瞬間(瞬間に傍点あり)が神である。その瞬間が救いを、解放をもたらす。
それは瞬間の原体験であって、太陽は神だといってしまうと、その原体験は忘れられてしまう。
「今や、悪霊の徘徊する夜が終わったと、われわれは喜ぶのだ」と土人たちが言うとき、これはすでに
合理化を意味している。 実際には、大地を覆う自然の夜とは、全く異質の暗黒が圧倒している。
それは心的な根源的夜であって、数え切れないほどの幾百万年もの昔から、今日と変わることはない。
光への憧憬、意識に対する憧憬なのである。」   (『ユング自伝2−思い出・夢・思想−』
    解)これに劣らない?場面を アフリカで何度も見てきた、次回、それを書いてみる。
      ユングとはいえ、よくぞ言葉にして描きだしてくれた。

〜〜〜〜〜〜〜