2007年04月07日(土)
2195, ファンタジー文学の世界へ −1
              オッ(*^○^*)ハ〜ヨウサン!
「ファンタジー文学の世界へ 」
ー主観の哲学のためにー 工藤左千夫著 (成文社) 
                           ー読書日記
    一般的にファンタジーとは、夢 のような空想を元にした小説のことをいい、
    現代社会から、かけ離れた人物、事実、世界観がテーマとなる。
    前回にも書いたが、ファンタジーには、二通りのジャンルがある。
    ハイ・ファンタジー とロー・ファンタジーである。
  *ハイ・ファンタジーとは、社会構成・環境・文化など、
    世界観が詳細に設定されたファンタジー小説のことです。
    過去にも未来にも、世界のどこにも存在しない別世界を題材にしている。
  *それに対しロー・ファンタジーは、現代を舞台にしたファンタジーで、
    ちょっとした不思議な世界を題材にする。

   情報社会の中で合理的世界観から一歩はなれて、非合理的な世界を持つことで合理的社会を
   鳥瞰することも必要となる。この本はファンタジー感覚の発祥と変遷について書いている。
   初期ファンタジーは、強烈な目的性を志向し、その通過儀礼を特徴としている。
   それに対し現代ファンタジーの傾向は、目的よりも存在論的視野を目指す傾向が強い、と論じている。

   この本の面白そうなところを、幾つか抜粋してみよう。
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P-23 ■ファンタジーの構造
神話的世界の「英雄」は孤独である。孤独は、「英雄」の条件と考えた方がよいほど、孤独である。
これは人間の人格形成において「自立願望」という母子分離の強烈な心理が、人間の属性だからである。
初期ファンタジーの多くは、明確なイニシエーションをかかえている。
それは、「分離」−>「周辺」−>「統合」という物語の構造で表現される。
依存対象から「分離」は、一人で「周辺」に向かうことを意味する。
それは、「依存対象に頼ることができない」こと、それが孤独なのである。
その孤独から自立への物語には、最後に何かを得て、元の場所に戻る精神がある。
元に戻ることが「統合」もしくは「全体性の回復」になる。・・・・中略


P-31 冒険(ゆきて帰りし)とは、無自覚な日常感覚に対する警鐘である。
そして、非日常ー冒険で培われたものが、日常に命をもたらすものであり、
人生の新たな価値を模索する道でもある。この道は困難そのものと言える。
この困難を越えようとする強烈な意志こそ、大人への道標足りうるのである。
作者は、人間の成長において、身内以外の父性的存在がある局面で必要であり、
この父性的存在こそが、「わたし」の深奥に導く一つの契機ともなる。・・・
我われの周囲には様々な冒険(ゆきて帰りし)の扉が黙示されている。
その覚知なるものは、現実を積極的(主体的)に観ることの意識化を通して、
もう一つの世界(非日常、内的世界)へ向かうことである。狭き門の両側には二つの世界がある。
第一の世界ー第二世界、 日常ー非日常、 意識ー無意識、 平穏ー不穏。
この二つの世界を主役は往復するのである。この往復の困難性が人の心に「なにか」を生起させるのである。
「なにか」を主体化する作業が、現実の深い意味を客観化しうる認識の扉ともなる。つまり、困難を通して、
自らの潜在的力を引き出すこと。しかし、この地平は「英雄」にありがちな慇懃無礼の世界ではない。
自らが拠って立つ精神的基盤を自らが客観化した地平である。

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   これを書いていて気がついたが、15年間にわたり年二回平均の秘境ツアーが、
   ファンタジー小説に近い世界であった。ー日常に対して、非日常。 意識的世界に対して、無意識の世界。
   平穏?に対して、不穏。ーで、夢そのものの中の世界である。
   ファンタジー作家のかわりに、旅行代理店が物語を企画してくれている。

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