(*´∀`)」" おはよう☆彡
 
  まずは遊びの本質と定義について書いてある部分を抜粋してみよう。
  子供の頃、無我夢中で遊んでいた頃の楽しさ、あの時の無我夢中の気持ちが
  人生の中で大きな位置を占めていたのである。
  人生の要諦、「よく学び、よく遊び、よく働く」のうち、一番満足度が高いのは、
  「よく遊んだこと」である。 ただし「よく」である。
   〜〜
ー文化は遊びのなかにはじまるー

遊びは文化よりも古い。動物は人間とまったく同じように遊びをしている。
遊びの基本的な要素のすべてが、すでに動物の戯れのなかにはっきりとあらわれている。
子犬が遊び戯れているところを観察してみさえすればよい。
子犬は一種の儀式めいた身振り、動作で、たがいに気を引きあったりする。
相手の耳を血が出るほど噛んではいけないという規則も守っている。
まるで恐ろしく怒っているかのようなふりをして見せる。

もっとも重要なことは、子犬はこれらすぺてを明らかに嬉々として楽しんでやっているということである。
このように動物の場合と同様、人を夢中にさせる力、〈面白さ〉のなかに遊びの本質があり、
〈面白さ〉こそ、人間にとってもっとも根源的なものである。
人類が共同生活をはじめるようになったとき、その行動にはすべて最初から遊びが織り交ぜられていた。
たとえば、人類の最初にして最高の道具である言語である。 
言語によってものごとを表現したり、伝えたりするという行為はいつも遊びながら行われるのである。 
どんな抽象の表現でも、その背後にあるのは比喩であり、
いかなる比喩のなかにも言葉の遊びが隠されている。
 *遊びを定義すると
遊びとは、ある限定された時間および空間のなかで行われる、自発的な行為もしくは活動であり、
自発的に受け容れられた、絶対的な拘束力を持つ規則に従っている。
遊びの目的は行為そのものにあり、それは、緊張と歓びの感情を伴い、
また〈これは日常生活とは別のものだ〉という意識に裏づけられた、何ものかをめぐる闘争ないし表現である。
このような遊びが地球上のあらゆる地域に同じような形式や観念のもとに存在することが確かめられているが、
このことは、人間に遊びという機能が先天的に与えられているということの何よりの証拠である。
  〜〜

   日本文化の典型の、茶道とか、華道は、遊びなのか、それとも修養なのか?
   前記の内容からしたら、遊びそのものということが出来る。
   ひと時の安らぎの茶のひと時を、茶道という文化に高めたのだから粋である。
   パソコンのインターネットも、携帯電話も子供や若者の遊び心から飛躍的に普及した。

   ホモ・ハーベン(働き蜂人間)だけでは人生はつまらないだろうが、
   仕事を遊びまで昇華させれば、それはそれで良いだろう。
   死を直前にした人間で、もっと働いておけば良かったと後悔する御仁は少ない。
   もっと色いろなことをして楽しみたかった!という人が大部分である。
                  。・∀・)ノ ホナ!
・・・・・・・・・