印度放浪 −3


ー語録ー2

人間の身体を見ていて神々しいと思ったのは、一ぺん沈んで浮かんできた水葬体だね。
水葬にしていったん沈むんだけど、沈んだあと底につかないのはそのまま浮かばないで流れ浮かばないで
底についたのは必ず浮かんでくるんだ。そうやって浮かんできた時の顔とか身体というのは、
不純なものがいっさい流れたような美しいものなんだね。半眼微笑の仏像そっくりな場合すらある、
それが二、三日経つとだんだん膨らんできて、中の血管の血がバッーと表に出て、まるで不動明王
五大明王みたいに赤黒くなる。それからまた血が引いて漂白されたようになって行く。
水に投げられたひとつの死体をずーっと見ていると、人間のもっているすべてが見えるよ。
日本でも死ぬ時に、これは単なる比喩的な言いまわしだろうけどさ、死ぬ時に一回苦しんだか二回苦しんだか、
三回苦しんだかで、その人の生前にもっている業みたいなものが出るということを言うじゃない。
それとは違うけど、水葬死体も人間のもっている生前のことを全部見せてくれるような気がするね。
 〜解)日本人は死体を特別に大事に考えている影響が40年前の著者に残っているようだ。
    こういうのを読むと、さっさと重油をかけて焼いてしまうのも良いと思う。
    その方が余程ドライである。
ーー
犬が水葬体を食っているのを見て、法華経に出てくるクンパーダカをふっと想像したんだ。
クンバーダカ鬼は架空の生きものだから見たことはないが、そういう感じがしたんだ。
広角で撮ろうと死体を食っている中洲の犬に近づいたら、そこにいた一匹が逃げたんだ。
それが遠くから十二、三頭を連れてきた。砂けむりを舞い上げてね。
僕がエサを取ってしまうとおもったのか、全部がうなりながらにじり寄ってくるんだよ。
人間を喰っている犬ににらまれたんだから、かなり危機感を持ったね。
眼を離して逃げたらワーッと襲われてやられるとおもったから、こっちも動けない。
川の中洲だから人間は誰もいない、助けも呼べない。カメラを持って投げつけるような恰好しながら、
それでもこれを投げたら壊れるからやめとこうとおもったりしながら、投げるものを探したわけね。
そのへんは写真にも写っているように頭蓋骨とか骨がけっこうあるんだ。
で、犬の目から目を離さないようにしながらゆっくりとしゃがんで、頭蓋骨を四ツくらい集めて
これをかかえて投げるかっこうをしながら、頭蓋骨もったまま少しずつあとずきりをして
川の中に胸まで入ったんだ。犬は向うでウロチョロしている。
奴に向けて力いっぱい投げつけたんだ。暫くするとあきらめて、
また向うの死体を喰いはじめてくれたんだね。こちらは川づたいに三脚のあるとまでやっと辿り着いてね、
これでやっと安心して、この三脚を持てぱこれ殴れるから何となく大丈夫だと思ったわけ。
これは後で考えると、地獄で何かしていたような気がするんだ。
 〜解)インドでないとこういう経験は出来ない。宗教で、かくも文化が違うかが理解できる。
    ベナレスのガンジス川の底には骨が重なっているというが。その骨についている貴金属を
    あさっている子供もいる。
ーー
インドはね、撮りすぎるとダメなんだ。インドってのは撮れちゃうから。まわリ三六〇度ぐるりと
一回転して三十六枚押したら、一本フィトストーリーができてしまう。
だからインドへ行った人の写真ってのはみんな同じになる。写りすぎるってことは、
全部撮ってもダメということなんだね。インドは「何を撮らないか」というマイナスの作業でしか
自分の視点が出てこないのね。 加算とかブラス信仰の社会から行うた人からは、
撮らないということも表現であるという発想がなかなか生まれない。
 〜解)これって写真だけを言っているのでなく、全てにいえることじゃないですか。

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