『印度放浪』 藤原新也著  朝日文庫

写真家の文章は何故もこのように気持ちを上手く表現出来るのだろうか。
言葉の一言一言が詩のようでもある。
以前、買って目を通したが、長男がインドへ行ったのを機会に時間をかけて読んでみた。
文庫本になっているが、半分以上がカラー写真で、40年以上前に書かれたものとは思えない。
 表紙を開くと、すぐ次のページに、この一行だけが書いてあった。

ー 歩むことに、ぼく自身と、ぼく自身の習ってきた世界が虚偽に見えてきた。ー

そして、その二ページ後に、
ーぼくは歩んだ。
 出会う人々は、悲しいまでに愚劣であった。
 出会う人々は、悲惨であった。
 出会う人々は、滑稽であった。
 出会い人々は、軽快であった。
 出会い人々は、はなやかであった。
 出会い人々は、高貴であった。
 出会い人々は、荒々しかった。
  世界は良かった。

 《旅》は無言のバイブルであった。
 《自然》は道徳であった。
 《沈黙》はぼくをとらえた。
 そして、沈黙から出た言葉はぼくをとらえた。
 良くも悪くも、すべては良かった。
 ぼくは全てを観察をした。
 そして、わが身にそれを《写実》してみた。
  〜〜

40歳になって15年ぶりにこの旅をふりかえった著者が
「なぜインドに行ったのか」の質問に言葉がつまり、その若者の後の影に、
 過去の自分を投影する。 
 (若いときの自分について)
 青年は何かに負けているようだった。たぶん青年は太陽に負けていた。
 そして、青年は大地に負けていた。青年は人に負け、熱に負けていた。
 青年は牛に負け、羊に負け、犬や虫に負けていた。青年は汚物に負け、花に負けていた。
 青年はパンに負け、水に負けていた。青年は乞食に負け、女に負け、神に負けていた。
 青年は臭いに負け、音に負け、そして時間に負けていた。
 青年は、自分を包みこむありとあらゆるものに負けていた。
 疲れたその青年の目は表情を失っているかに見えたが、太陽にいられて眩く白熱する、
 目の前の地面を、ただぼんやりと見つめ返すだけの意思をわずかに残していた。・・・・
 ・・・なんか知らんけど目茶目茶に何でもかんでも、
 負けにいったんじゃないかなぁ。最初の頃は。
  〜〜
 インドは何々とは、この本を読むと何もいえなくなる。
ただ、行ってよかったと、つくづく感じるところである。
                         ーつづく
・・・・・・・・・