2005年03月25日(金)
1452, 「仏教の根底からの否定」の文章−2
山根二郎かく語りき−2

ー前回に続いて印象的な部分を書き出してみるー

あのオウムが、教団の対立者を「ポア」という名で殺したが、
これは特殊な教義を信奉していたからと信じられている。
が、しかし「救済」の名の下でなされる殺人の容認は仏教にも多く認められる。

私が書いた「仏教解体」は、仏教を根底から解体しつくした日本では稀有の書である。
そこに述べられている仏教否定思想は、これまでの日本にはなかったものだ。
内容の一部を紹介すると「仏教思想、禅思想」が、どれほど恐るべき
非人間思想であるかということが分ってくる。日本人は、この思想に取りつかれたままになっている。
要するに日本および日本人は、戦前・戦中・戦後を通して、今日まで巨大なオウムをやってきたことになる。

「日本人は恐い」「日本人は特殊である」と世界の人々が思ってきた根底は、これである。
「世界の人々よ、気をつけろ。そして日本人よ、仏教から目を覚ませ」

般若心経で、 色即是空ってのがある。存在とは空だって意味だ。
無限耳鼻舌身意 耳も鼻も舌も体も心もすべて無だと言い切る。
浅原じゃあないが、まさに涅槃の境地に達しないと言えないことだ。
しかし、この凄いことを、我々日本人は日常で坊さんに言われ続けている。
葬式で般若心経を坊さんが唱える。月命日でも坊さんは仏壇の前で唱えてる。

「もともと、無いものが無くなったんだから、死んだからといって、
そんなに嘆くな悲しむな。殺されたからといって、そんなに怒るな」
って言われていることになる。 葬式でこんなこと言われていたのだ。
いま、犯罪被害者の人権などと騒いでいるが、まっさきに糾弾されるのは坊主である。
 (字数の関係でカット2008年03月25日)
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以上のように初めから終わりまでこのような文章が続く。
この人の文章を読んでいると、全くそのとおりと思えてくるから不思議である。
極東の島国では仏教は丁度良い思想と思っていた。
禅坊主が「考案」とか訳のわからない議論をして悟り顔をしているも、
山岳の多い風土には丁度良いのだろうが。

あのアブラハムが創りだした「アラーの神」も、東洋の片隅から見てみれば、
砂漠の無知の民をマトメル為の嘘ー方便にしか見えない。
その反対に彼等から見れば山根二郎のいう論も、的を得ている。
この位の論を持っていないと、葬式坊主どもに集られてしまう。

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