2007年03月20日(火)
2177, ゆとり・個性化教育って何だったの?
          オッ(*^○^*)ハ〜ヨウサン!
 
 以前にも個性について書いたことがあるが、 現在の小・中学校の教育現場の荒廃をもたらした
「ゆとり・個性化教育」の誤りを確認するために、いま一度個性について考えてみよう。
 
    大失敗に終わった「ゆとり教育」の目的は、「個性的な人間」
    を育てることであった。そのため、現在の子どもは幼児の頃から
   「意図的に個性的でなくては!」と、刷り込みがされてきた。
    そのためには、それぞれの特性にあった教育をすべし!ということだった。
    しかし、個性化とは何だろうか?と少し考えてみると、
    明らかに間違った理解をされてきたことが解る。
   「珍気な子を作るのが個性である」という先入観が、教育現場の興廃を
    招いてしまった。 先生も、その珍奇な子供のなすがままに、
    自信を失い学級崩壊を招いているのが現状である。

人生経験の少ない子供に個性化など求めること自体が無理がある。
お笑いバラエティーに「将棋少年」とか、「エレキ少年」とかいう
珍気な子が出てきて、天才少年と煽て上げて笑いの対象にしている。
あれは個性的でも、天才的でも何でもない珍奇な子供でしかない。
習い事に「守・破・離」という原則がある。
まずは、基本を身につけて、乗り越え、そして新しい技・個性を身につける。

    個性的性格というのは、30年、50年かけて作りあげるもの。
    職業とか、趣味とか、色いろな経験が織りなす輝きを個性という。
    長年の生き方が、その人らしさを作り、「らしさ」が味として滲み出るのが個性である。
    「珍奇な早熟の生き方」を幼い子供に押し付けること自体、中味のない珍奇な生き方を
    強要していることになる。最近になって、教育現場の惨状に政治家も腰をあげ、
    教育制度に根底から変えようとしているが・・

「仲の良い両親が温かく子どもを見守る明るい家庭こそ、子どもの人生の基盤になる」
と言われている。それは長年かけた家庭の結果でしかない姿である。
大きな波風の中で、結果として明るい温かい家族ができたのであって、
そのプロセスこそが子ども教育になるし、個性の芯になる。
その時その場の「いま・ここ」で与えられた課題を、一つずつこなしていけば、
その永年の積み重ねが個性になるのである。

    別に個性的でなくても、いいじゃないか。
    そう、砂利同士がカタチは丸いとか四角とか言っているのと同じ。
    そんなこと気にすることはない。でも変わったのに眼がいくか?    
    社会ルールを壊さない程度で好きなことをやっていればよい。
    個性なんぞ考えることは、人との比較をしていることになる。
    
    ゆとり教育とは、ゆとりのある親が公立でなく、私立の小・中学校に
    子供を入れることに結果としてなってしまった。
    ブラック・ユーモアなんてものじゃないのが、現状である。
              ホンジャ、バアアイ 
                          ♪♪((((*`・´))ノ ♪♪
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