2004年03月15日(月)  
1076, 《獄》

昨日、何げなく朝日新聞の社会欄を開いたら、<獄>が大きく載っていた。
内容は山本譲二元代議士の獄中の体験談であった。
刑務所の服役の体験談を読んだことがあったが、直視できない異常な世界である。
体験談の文章によると、収監された晩は一晩中誰もが泣き過ごすという。

政治とは清濁併せ呑む世界であり、奇麗事の世界とは違う。。
犯罪になるかどうかは、「洗浄を幾つか通して政治資金を集める体制があるか、
無いかの差でしかない」のも事実である。
全ての政治家は、一歩間違えると監獄が待っているといえる。

この文章を読むと、刑務所だけは入りたくないと思う。
別世界のことではない。ある日思わず、交通事故をおこして動転して轢き逃げを
しないとも限らない。それとも酒を飲んでいて、隣の客と喧嘩をしてとか・・・・

asahi.comを検索したら、この文があったので貼り付けておきます。


−以下は朝日新聞に載っていた内容である。
■《獄》「詫び状」が扉を開けた

看守に促され、栃木県の黒羽(くろばね)刑務所の分厚い鉄扉を抜けると、
妻真由美さん(39)の姿が目に飛び込んできた。
 02年8月13日午前5時。
 刑務所近くの空き地でまんじりともせず4時間をすごした妻は、
 いまにも泣き崩れそうだった。目が合うと駆け寄ってきた。
「お帰りなさい。長い間、ご苦労さまでした」抱きとめることができなかった。

 1年2カ月。隔てられた面会室のアクリル板が目の前にあるかのような錯覚に
 山本譲司さん(41)はまだ、とらわれていた。
「苦労はそっちだと思うよ」 看守を横目にそう答えるのが精いっぱいだった。

 東京郊外の妻の実家に着くと、軒先に、1人砂遊びしている息子がいた。
 到着を知った義母(62)は1歳半になった孫を抱き上げると、
 山本さんの胸に押し込んだ。
「パーパ。パーパ」  罪の重さと、待ちわびてくれていた人のいる幸せとを、
 体全体で受け止めた。

        □    ■

 衆院議員による秘書給与の詐取という「申し開きのできない」狡猾(こうかつ)
 な犯罪で受けた判決は、懲役1年6カ月の実刑だった。

 早稲田大を卒業後、現在の民主党代表の菅直人氏の秘書を経て、26歳で都議に
 当選した。衆院に転じて2期目。独自の都市政策を掲げ、「民主党ホープ」と
 持ち上げられ始めたさなかの蹉跌(さてつ)だった。01年6月、罪を認め服役した。

 配役(はいえき)先は、刑務所内でもほかの受刑者や見学者の視線にさらされることのない
 隔離舎房―知的障害や重い身体障害のある受刑者たち50人のための施設だった。
 「大変なんてもんじゃないよ、あそこは。汚物まみれでね……」
 看守は、そこに世話係の一人として赴く山本さんを哀れんだ。

 その通りだった。ろうそくの色分けやひも結びなど繰り返される軽作業に付き添い
 ながら、食事や風呂の介助もする。
 漂う悪臭に吐き気を催しながら、房の床や壁にこびりついた汚物をつめではぐ。
 週に2度、たった10分の楽しみだった入浴は、湯に汚物が浮かんでいることも
 珍しくなかった。

 出所後は、保護司のもとへ月に2回、顔を見せて近況を知らせ、息子と向かい合う
 ほかは何をするでもなく数カ月が過ぎた。
 手元には毎日のように妻から届いた手紙300通と、その返信、それに独房で
 書き連ねた日記があった。

 自らへの戒めと、かつて1票を投じてくれた人々への詫(わ)び状として、
 経験のすべてを記そう――そう意を決し、2階の一室にこもった。
 400字詰めで6千枚。推敲(すいこう)を重ねて800枚にまとめた原稿は
 昨年末、『獄窓記』(ポプラ社)として結実した。

 著書は思いもかけず、閉ざされがちな世間への扉を押し広げた。
「だれも語らず、伝えられることのなかった刑務所での障害者の処遇のありようを
 あなたは初めて記した。話を聞かせてもらえないか」

    □    ■
  字数の関係でカット(2008年03月15日)

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