2003年02月24日(月)
691, 「わたしを認めよ!」  −2「読書日記」        
 ー 気になったところを書きうつしてしてみた。

「ふつう」の意味とは・・
 普通の生き方というのがどういうものかは教えてくれない。当然である。
 だれも知らないからだ。
 
 わたしが考えるふつうとはこういうものである(普通」と区別する)。
 奴隷みたいな退屈な生き方が上と下の中間(中流)に落ち込んだ普通だとするなら、
 目指されるべきふつうとは、みずから選びとった〈中間〉のことだ。
 普通が惰性なら、ふつうは意思である。
 すなわち、その場その時に可能な限り最善の判断をしようとすること、それがふつうである。
 
 たしかに、普通に生きていくのは簡単ではない。けれどもふつうとは困難にして容易である。
 できるかぎり認識と思考の元手をかけて、どう考えてみても自分にとっては
 これが最善であり 最も正しいとおもうことを、覚悟してやるしかないのである。
 むろん判断は一回かぎりではない。 覚悟もまた一回かぎりではない。

 ・・・「断念」について・・
 いうまでもなく、自己承認は挫折の連続である
 (それゆえくりかえし打ち立てられなければ ならない)。
 自分はよくやっている、だれが認めなくても自分が自分を認めるという
 弧絶した 自己承認には限界がある。
 
 すくなくとも、わたしが承認する一人の他者から、
 わたしは根本的に承認されているという 自己確信は不可欠である
 (たとえ錯覚であれ、この確信がなければ、そもそも 〈少しだけ大きな他者〉
 などただの戯言にすぎない。そこまで個人は強くない)。
 
 世界のなかで、わたしはすくなくともひとりの人間から承認されているという
 確信さえない ところには、ほんとうの勇気や元気は出てこない。
 ところが、ここには根本的な逆説がある。だれも認めてくれなくても、
 自分はあくまでもふつうを一生懸命生きるという覚悟のない者には、
 他人からの信頼に値する承認はもたらされないという逆説である。
 
 ー感想
 地方にいると「部落」的噂社会に呆れかえる。もっとも都会は内幕情報社会だが。
 この三層の元−下層は「魂」で、その次は「社会」そして「世間」になる。
 子供時代は「世間」レベルしか見えない。
 成人になるにつれて「社会」レベルに生きる比重が大きくなり。
 成人の後半になるにつれて、魂の世界比重が更に大きくなる。
 前に書いた「厭なことはなるべくやらない!」の世界である。
 三層の世界をきっちり意識していれば、
特に世間の現象をクールに対処する事が できそうなのだが。                     
                     ーつづく
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