今日は、ワシの気持ちのまま話してみよう。
霊とかいうけど、結局は本体の宗親の気分の向いた時しか出てこれない。
出してもらえるだけでも有難いことだが。
仏様が娑婆世界は苦しみの連続といっていたが、
これは東洋的風土が言わしめているだけ。
ジメジメした風土からみて、それもよいが。
霊界も来世世界のイメージの発想から出ているのだろうが・・
輪廻転生の言葉が、霊界というイメージを生み出しているのじゃ。
スウェーデンのスエディンボルグもいるから、そうでもないが。
プラトンも似たようなことを言っていたな・・
そういう霊の私がいうのは変じゃないか?と思われるだろう。
「御前さん(宗親)の心の中の芯をイメージというカタチにしているのだから
良いじゃないか?」というのがいいえて妙だろう。
現実にこうして四四太郎という別人格ー別霊格が、
御前から独立?して話しているじゃないか。
ところで一般的に人間は、ワシら霊を特別の存在と思っているようだが、
人間は元々生霊なのだ。死んで、それから霊に戻るのじゃ。
寝ている時みる夢の世界があるだろ!
その状態が霊になっているのと似ている。
希望の夢があるだろう!これも一種の霊に似ている。
強ければ強いほど、その思いが霊に近い状態になるのじゃ。
それと無我夢中の状態も霊に近いのじゃ。
要は対象と同化している状態が霊化しているのだよ。
だから、芸術家が生み出した魂のこもった作品は霊が入っているのだよ。
霊魂の入った作品というだろう。
ある経験をするだろう、そして、次の瞬間に時間の経過があるじゃないか。
その時に気持ちと状況も時間と変わるだろう。
しかし生まれたときから変わらない自分がいるだろう。
それが魂なのだ。真我というヤツだ。
それは死んだ後でも、ズットあるんじゃよ。
死んだ瞬間に無になるんじゃないかというが、両者とも本当なのだ。
最近になって遺伝学で、
「遺伝子が生き残るために生物をジャンプ台として使っているに過ぎない」
という説がたてられた。遺伝子の立場からみれば、全くその通りである。
そのために、生きのよい生物に遺伝子は残るのだ。
霊も同じ、ただ人間の身体を借りているに過ぎないのじゃ。