<『「知」の読書術』佐藤優著>
 この本の圧巻は、
第二部の「知のツール」の活用法 ー第五章 私が電子書籍を使うわけー
 電子図書関係への提言である。
≪ ・まず、本は紙で読め。流し読みや復習は電子書籍専用端末が適して
 いるので、両者の併用を勧める。
タブレット電子書籍専用端末は別物で、電子書籍を真剣に考えるなら、
 迷うことなく専用端末を買うことを勧める。そのメリットは、「ネット断ち」
 が可能になるため。どうしてもネットサーフィンなど、他のアプリに…

・過って読んだ本、つまり二冊目の本を買うことです。端末が、「携帯図書館」
 になるから。携帯化にはさまざまなメリットがある。これを持ち歩くと、
 何度も再読が可能になり、理解が深まり上に、知識が定着しやすい。
 著者は、『カラマーゾフの兄弟』をキンドルに入れて、時々読んで、最大の
 山場である「大審問官」について正確に話すことができるようになった。
・また自発光でないので、目が疲れない。
・電子図書は「流し読み」にも向いている。平凡社の世界大百科事典を電子辞書
 で持ち歩く。
  〜教養にカネを惜しまない。
◉ 教養とは生き残るために必要な知恵のことですが、インテリジェンス=教養
 ではありません。知性や理解力に訳されるインテリジェンスは、極論すれば
ゴキブリや猫に対しても使える概念です。 しかし人間にしか使えない知恵は、
知識に裏付けされてなければいけない。教養とは「知識に裏付けされた知恵」です。
知識に裏付けされた知恵を持つということは、考えを言語化できるということです。
 ―カスタマー・レビューより―
【・そもそも教養というものは、著者の言うところの「情報」や或いは「経験」
 に触れる積み重ねの中で自らの頭で考え、得られたものを言うのであって、
いわゆる教養書と言われるものを読んだから「教養」が得るわけではないはず。
そのときに得られた(と思い込んでいる)「教養」なるものは、単なる「受け売り」。
「教養と情報」の差異よりも、むしろ強調すべきは「教養と受け売り」の違いで
あろう。著者の言うことを真に受けるなら、その教養書を書いた人間の「教養」は
一体どこから得たのかという話になる。こういうところに著者の詐術が潜んでいる。
・また、著者が勧めるようないわゆる教養書はかなりクセの強いものが多い。
大して知識のない人間がいきなりそのような本に接すれば変に影響を受けすぎて、
自分の基礎になる考えがそれによって固まってしまう可能性がある。そして、
そもそもの話で言うなら、情報を集積してそれを自らの頭で分析・解体・統合
(=教養化)することのできない人間が、無理にお仕着せの教養などを身につける
必要はないのである。「マルクスを読んでマルクスを疑う」くらいの知的能力の
あるもののみが教養を身につける資格を有する。 マルクスを読んで「なるほど
なあ、資本主義反対!」などと納得してしまうとしたら、その知識は単なる
「受け売り」であって「教養」とは言わない。
教養とは疑う力である。自分で考える力のない人間が教養書を読んだところで、
色眼鏡で世の中を見るようになるだけだ。】

▼ 私の読書録など、受け売れでしかなかったのか。しかし、タドタドシク、
 書込み、記録し、繰返し読みかえすうちに、自然と身についている実感はある。
誰もが最初は受け売りしかないだろう。

・・・・・・
4480, 宇宙に外側はあるか
2013年06月22日(土)
   ー内容紹介ー    「宇宙に外側はあるか」松原隆彦 (著)
◎ 私たちの住んでいるこの宇宙がここに確固として存在している、
 つまり唯一絶対の存在である、ということは疑いようもなく当たり前の
 ことだと思われるでしょうか。実は、現代の物理学の知識をもって
 この宇宙を眺めてみると、そんな基本的なことさえも疑わしくなってきます。
 いま、人類の宇宙を見る目は大きく開かれつつある。宇宙の何がわかって
 いて、何がわかっていないのか? 宇宙の全体像とは?  
 宇宙の「外側」とは? 人類はどこまで宇宙のことを知ることができるのか? 
 現代宇宙論のフロンティアへと旅立つ一冊。
◎ 目 次 第 1 章 初期の宇宙はどこまで解明されているか
  第 2 章 宇宙の始まりに何が起きたのか
  第 3 章 宇宙の形はどうなっているのだろうか
  第 4 章 宇宙を満たす未知なるものと宇宙の未来
  第 5 章 宇宙に外側はあるか
▼ 宇宙論を分かりやすく解説してあって、私のように最近、興味を持ち
 始めた素人向けの本。村山斉著「宇宙は何でできているのか」と
「宇宙は本当にひとつなのか」のフォローに丁度良い内容。
村山斉の著書は、明快で分かりやすいが、それでも一歩も二歩も踏み込んだ
内容だが、この本の第1章から第4章までは、宇宙論の優しい入門のあらまし。
第5章で、マルチバースがあるかないかに触れているが、ハッキリした説明が無い。
私のような入門者にとって第1〜第4章の方が、噛み砕いてあって、分かりやすい。
 村山斉の二冊を含めた三冊が私にとっての宇宙入門書になるが、としても
何がなにやらである。 プロローグに 
≪ 現代宇宙論が明らかにしたことの中で最も大きな驚きのひとつは、
「宇宙は永遠不変のものではない」という事実。約137億年前に宇宙の始まり
があるという「ビッグバン理論」が確立したことで、このことが明らかになった。
この宇宙に「始まり」があることがわかると、根源的な疑問がたくさん湧いて
きます。≫ がある。 ーその疑問とは、
「宇宙はどうして始まったのか」
「宇宙が始まる前は何だったのか、宇宙が始まる前の宇宙は宇宙ではないのか」
「宇宙に始まりがあるなら、宇宙に終わりもあるのか」
「宇宙に終わりがあるとすると、宇宙の終わりの後には何があるのか。
 次の宇宙が始まるのか」
「そもそも、始まったり終わったりするような宇宙はどこに存在するのか。
 この宇宙よりももっと大きな、何か得体の知れないものの中にこの宇宙が
 あるのか」 等々である。マルチバース、それも10の5百乗の宇宙の存在
 の可能性には驚いた。村山斉著「宇宙は本当にひとつなのか」に詳しく
 書いてあるが、コペルニクスの地動説と同じ位の驚きを与えた根源的な問題
 である。そうこう考えると、再び、人間原理の問題の戻ってきざるを
 得なくなる。 宇宙は面白い! 宇宙お宅のブログにはビックリ。

・・・・・・
5212,3%の本当に幸せな成功者から学んだこと
2015年06月22日(月)
      『世界の大富豪2000人が教えてくれたこと』トニー野中(著)
  * 世の中全体の一割が成功者、3%が心満たされた人たち
 この本に、【いわゆる「成功者」「お金持ち」と言われる人たちは、世の中
全体の10%ほどいて、7%が「お金があっても時間がないとか、人間関係や、
健康に恵まれておらず、本当に幸せでない」と言われている。】とある。
 別に、金満や、成功者でないとしとも、5人、いや3人に2人は、けっこう
幸せと思っているようだ。 私の場合、会社整理というハードランディングに
近い着陸だったが、ショックによる鬱症対策に、早朝から就寝するまで、好きな、
楽しいと思えるスケジュールを組みこんだ。そうもしないと、自滅する可能性が
あった。いや、現在もである。 それらを、淡々とこなすことで、心身の健康
管理をしている。 このストレスの「苦」は、たやすく消せるシロモノでない。
それをカバーすには、その3〜6倍の「楽」をスケジュールに組み込むしかない。
 著者はテーマで、3%が心満たされる人と決めつけているが、私の見立てでは、
金満でない人も含めると、3割。そのうちの上位の一割の3%が、十分に心満た
されているということか。 金だけは有るにこしたことはない。
 去年の暮れに、【幸福優位7つの法則ー幸福と成功の意外な関係】エイカー著
を取上げたが、その中で、<ボジティブ比〜繁栄と衰退を分ける「ロサダライン」
を、マルシャル・ロサダが発見、2・9013という数字で表した。 これは、業績の
よいチームと、悪いチームにおける「ポジティブな意識」と「ネガティブな意識」
が、2・9013対1以上でなければ、そのチームに成功はもたらされない> 
という法則を取り上げた。大富豪になるほど、その比率が飛躍的に高くなると
著者は言いたいようだ。 世の中を見渡すと、『貧すれば鈍す』か、
その真逆である。上手くいったから、成功したから豊かということではなく、
豊かだから上手くいく。 で、どうした? どうもしません! 全て夢幻。
 ところで面白い時間帯を見つけた。 20時から4時間爆睡後の、0時から4時。
意識し、茫洋として無意識との塀上と見立て過去、現在を浮遊する。
 これ、昼間やると、ボケ!

・・・・・・
5942,閑話小題 〜「ベストエフォート」とは
2017年06月22日(木)
   * 「ベストエフォート」とは
 「ベストエフォート」とは、《日々、できる限り全力を尽くしている感覚を
持つことで、大きな結果が出なくとも、全力を出していることが大事と考える。
例えば、大事業を起こせなくとも、毎日、やれるだけのことをしているという
実感があれば、それで十分と考え、自分を支える継続的な成功体験になる。》
 このベストエフォートの言葉を知った時、この随想日記を16年、続けてきた
意味そのままを言当てられたように思えた。
『ともかく、ベストをつくして一日一文を書き上げる』と。
 6年前の節目で、挫折からの落込み対策に「少し厳しい日課」を立て、
実施してきたが、これが私にとって「ベストエフォート」のプログラム?
私の範囲では、これ以上ないプログラムだったが、数ヵ月もしない内に習性
になり、現在に至っている。鬱症状態に追詰められる前の、事前の一策である。
 面白いことに、この日程を熟す内に、何かしら面白い感覚、「内なる自己」
というか、「真なる自己」が、クッキリと浮上がってきた。その視線で他者と、
普段の自己の間に顔を出すのである。
 〜ネット検索によると、こうとも〜
《最大の結果を得られるよう努力することをいう。通常、委任契約等における
 受任者の負うべき義務を規定する場合に使われる用語で、そのような努力が
なされないときは債務不履行責任を負うものの、そのような努力がなされた
うえは、結果に対する責任を負わないことを定める際に用いられる。》
 仏教でいう『全機=十分に機能する人間』と意味が似ている。人は須らく、
ひたすら努力をして、結果は天にまかせるしかないもの。

・・・・・・
4847,閑話小題 ー75歳が死の目安が、級友と一致
2014年06月22日(日)
   * 75歳が死の目安が級友と一致して
 前回、葬式で連合いを亡くしたばかりの同級生のことを書いた。
私が「75歳を死亡年齢に目安に、歯医者以外、病院に行かないことにした」
と他の級友から聞き、曰く、「数年前に、ある病院で検査をしたところ、肝臓
に、オデキがあると言われ、肝臓ガンと覚悟を決め、親戚を集めた家族会議を
して、生前葬の案も出たが、その前に、別の病院で検査を勧められ、再検査を
したところ何もなかった。それから、一切の検査をしないことにした。
母親と父親の死亡年齢を合計し、半分にすると75歳。その年齢の目安と、
病院に行かない方針が同じことに、驚いた」と。しかし、死や、生について
の知識を持っている様子がなく、漠然とした不安が全体を覆っていた。
少しでも、その類の知識を持ったと持たないとでは雲泥の差になるが・・ 
 私の平均余命11年。そのうち介護年齢9年、寝たきり6年とすると、
決して長寿は、私らしくない。下手に治療で死にそこなうと、薬の逆効果で、
拷問のようは束縛の寝たきりか、痴呆症が出てくる。ならば出たとこ勝負。
75歳を目標、目安にした。その分、運動量を多くし、食生活を気をつけて
いるが、いざ、余命を告げられ、目先は後悔をして逝くことになっても・・ 
死に方、自分の選択も有りである。
   * つれづれに
 ー「事業人生を決心して45年」の語り直しーをテーマに、回を重ねて
書いているが、思いもよらない当時の記憶、40数年前の出来事が、昨日の
ように、次々に連動してフラッシュバックしてくる。それだけ、激しい日々
だったが、封印しておいた記憶を見つめ直すのは、当時の自分を慰め、癒すと
同時に、多くの過ちを知り、後悔も出ることになる。それは、それぞれの
行蔵から、自省をすることにもなる。私は何をしてきたのだろう? 
「面白かった!」だけでは済まない、未熟な己が、厳然と、そこにいる。
神様は、人生を自省させるため、老後という余白を人生に与えたようだ。 
 私を含めた大部分には、基礎教養の絶対量が足りてない。だから
「死ぬまで勉強」が必要になる。周辺を見わたすと、それが分かるが、
自分自身になると分からないのが人間の性。
 「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」
=「往ける者よ 往ける者よ 彼岸に 往ける者よ さとりよ 幸いあれ 」。 
「往ける者よ」を「過ぎ去りし日の自分」に置換えて、「青き者よ、
幸いあれ!と、祈り直すしかない。成るほど、私は、こんな人間だったか!
と・・  南無阿弥陀仏の念仏は、そのためある! 私もお近い ようで? 
「では、皆様、さようなら!」

・・・・・・
5577,突然、余命宣告を受けました ー?
2016年06月22日(水)
   * 死ぬこと(事業整理も)は、不幸なことか
 5年前に、悪あがきの悪例を身辺で幾つも見ていたこともあり、追詰められる
前に事業断念をした。その一瞬の決断の間合いがポイントだった。 その時、
『事業整理は決して悪いことではない。適切な時期であれば、むしろ良い。』の
考えがあった。
 創業、実業を経験し、最後は清算の決断に至る、文章作法でいう「起承転結」
のフルコースになる。 思いもよらないブラック・スワンの到来でも、何とか
軟着陸に至ったが、倒産は倒産。その一年後に地元の運送業者が買取って、
同じホテル名で現在も運営をしている。弁護士の力量と、事前の備えがあって、
思いの外、スムーズにいった。一般的には、10〜40年かけた備えの体質に
一切、気づいてない。で、内なる俄か判事になって、好き勝手な裁判話になる。
しかし自らの財務体質に気づかない。「事業設計の段階で、万一のシェルター
の組みこみ」など、知る由もない。 その戯言が想像できるから面白い。 
  〜その辺りから〜      『あの世へ逝く力』 小林玖仁男著
≪ 人が死ぬと「不幸があった」と言い、「病魔には勝てなかった」とも言う。
 死をすべて「不幸」とか「敗北」にしてしまうのです。この脳への刷り込みに
よって、社会中みんなが間違った方向を向いてしまっています。
 生まれ落ちた全員が死ぬのに、その全員が、最後は負け戦?
 結末は「不幸なこと…」で「敗北」だと決めつけてしまうのは、あまりにも
乱暴でひどい話です。人間の尊厳に対して非礼な話であり、この発想パターンは
とてもおかしいと思います。
 その結果、人々は死ぬ前から必要以上に死に恐怖を持ち、死んだあとも、
必要以上に深い悲しみに包まれてしまいます。悲しまれるよりも「ありがとう」
と言われたほうがいい。
 私は今まで幸せに生きてきたし、幸せの中で満足して逝きたいから、
この「死」=「不幸」「敗北」という大間違いは正しておきたいと思うのです。
ある宗教に「抜苦代受」という考え方があります。教祖の子が二人、早くに亡く
なったのですが、霊界のこの二人が「信者の苦しみを抜き去り、代わりに二人が
受けている」という教え。簡単にいえば「お星さまになって守ってくれている」
ということ。ここでは死を「不幸」とせず「希望」に転じています。
 違う宗教の教えでは、「短命な一生では、生かすはずの能力が余っているので、
生まれ変わるときはその分が足され、豊かな才能を持った人として生まれてくる」
という教えがあります。ここでも死は「希望」です。
 死を悲劇としてとことん追いつめるのか。早い死にも肯定する理由を見つける
のか。すべては考え方の問題に過ぎません。≫
▼ 事業清算で、人生の大方の問題が解決してしまった。綺麗さっぱり、
 焼き尽くし、未練も悔いも残らないプラス面に暫くして気づくことになる。
「事業清算」=「不幸」「敗北」は、間違い。 前後一年間は、迷惑をかけた
罪と罰の時節だが、前後の一年を除けた30年、いや45年は、面白く、幸せな日々。
何の事情の知らない人たちの俄か裁判の判決に従うことはない。楽しんだ充実感
こそが私にとっての「実体」。で、批判した人が、死ぬか、不幸に陥っていく。 
これが、不条理ではなく、『条理』である。いや、『情理』か。
 で、偶然に、以下につづく。
 
・・・・・・
4106、私は完全な本 "日本の自殺 'ー9を作った
2012年6月22日(金)
   * 情報の洪水が人間を劣化させる
  これが書かれた37年前にはパソコンとインターネットが世界中にこれほど
普及するとは思ってもいなかっただろうが、正に現在、情報の洪水が世界を覆い、
個々人の判断を狂わせ地球規模の集団自殺の様相になっている。その大混乱の
一つが、この金融恐慌であり、世界経済は溺死状態?にある。今後10〜20年
は、このカオスは続き、その行く末は誰も分からない。下記の部分が、日本だけ
でなく、地球規模のカオスになっているから、ことは深刻。 情報機器とネット
の進化が、文化、文明レベルで世の中を変えてきた。
【 ◎ 第一に、われわれは人間経験全体のなかに占める直接経験の比重が相対的
 に低下し、それに代わって、マス・コミュニケーションの提供する情報を中心と
 する間接経験の比重が飛躍的に増大したことに伴うさまざまなマイナスの副作用
 について検討しておかねばならない。一般に情報量の増大といわれているものは、
 人間経験との関連でみるならば、このように各個人の経験世界というものが、
 ますます大きく他人の経験に依存するようになるということにほかならない。 
 マスコミを通じて与えられる間接経験の世界は、一方ではあまりにも混沌として
 脈絡がなく精神分裂症の様相をすら呈している。他方でマスコミの提供する膨大
 な情報によって見せつけられている世界の、安直なトータル・イメージは、
 情報の質が悪いと現実世界とは似ても似つかない虚構の世界となる危険がある。
 知力を高めるために作られたはずのマス・コミによって人間がだまされ、知力を
 低下させられ、真実の視界が妨げられるという皮肉な現象が生ずる結果となる。
◎ 情報化の代償の第二は、情報過多に伴う各種の不適応症状の問題である。
 高速度に流れる大量情報が、人間の脳の情報処理能力を大幅に上まわった場合、
 人間はしばしば情報過多の神経症状に陥る。短絡型、自閉症型、分裂症型
 という三つのタイプのものがある
◎ 情報化の代償は第三に、情報の同時性、一時性と関連している。 
 社会の変化のスピードが早くなると、人間と情報との関係が極めて一時的な
 ものになってくる。このような現在(1975年当時)の情報環境の下では、
 新奇な情報を極端に求める傾向が強まっている。膨大な現在進行型の情報の
 氾濫なかで情報のライフ・サイクルは短縮化し情報は消耗品化し、情報使い
 捨ての傾向が極端になってくる。大量高速情報から自己を防衛するひとつの
 安易な適応方法は、忘れぽっくなること、つまり健忘症になることであり、
 歴史的な連続性の感覚を喪失して刹那主義的な生き方を採用することである。
◎ 情報化の代償の第四は、以上のようなマイナスの副作用とも密接に結び
 ついているところの、情報受信と発信との極端なアンバランス。 
 本来、人間の思考能力や創造性は受信と発信の反復を通じてはじめて
 可能となるものであるのに、この思考のプロセスをじっくりと通過させない
 ために、短絡型の、論理的思考力のない人間が量産されてくることにもなる。
◎ 情報化のマイナスの副作用は、第五に、マス・メディアによる異常情報、
 粗悪情報の過度拡散傾向となって影響を与えている。情報化の代償、弊害に
 ついて累々と述べているが、これは情報過多の問題なのか、質の悪い情報を
 発信し、それも何も考えずに受信することの 問題なのか、それとも膨大な
 粗悪情報がマス・メディアを媒介として流され続けることが問題なのか、
 いろいろと考えさせられる。】
▼ 情報の洪水は、それに対処可能な人と、そうでない人との情報格差
 生み出している。それは脳力と貧富の差に直結することになる。それは劣化
だけでなく、悪用で社会をいとも簡単に騙せすことが可能になった。反面、
電子知能は飛躍的に進化している。世界中の身知らずの個々人がネットで
結ばれ知恵と情報の共有が可能になってきた。それは一時代前からみたら、
SFの世界の様相である。

つれづれに

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もう、シネマを見る日の金曜日。
現在の生活は、表が金・土・日曜日と、
裏が月・火・水・木曜日の平日に二分した生活。
何か一番、気分的には花金というところか。




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4106、私は完全な本 "日本の自殺 'ー9を作った
2012年6月22日(金)
   * 情報の洪水が人間を劣化させる
  これが書かれた37年前にはパソコンとインターネットが世界中にこれほど
普及するとは思ってもいなかっただろうが、正に現在、情報の洪水が世界を覆い、
個々人の判断を狂わせ地球規模の集団自殺の様相になっている。その大混乱の
一つが、この金融恐慌であり、世界経済は溺死状態?にある。今後10~20年
は、このカオスは続き、その行く末は誰も分からない。下記の部分が、日本だけ
でなく、地球規模のカオスになっているから、ことは深刻。 情報機器とネット
の進化が、文化、文明レベルで世の中を変えてきた。
【 ◎ 第一に、われわれは人間経験全体のなかに占める直接経験の比重が相対的
 に低下し、それに代わって、マス・コミュニケーションの提供する情報を中心と
 する間接経験の比重が飛躍的に増大したことに伴うさまざまなマイナスの副作用
 について検討しておかねばならない。一般に情報量の増大といわれているものは、
 人間経験との関連でみるならば、このように各個人の経験世界というものが、
 ますます大きく他人の経験に依存するようになるということにほかならない。 
 マスコミを通じて与えられる間接経験の世界は、一方ではあまりにも混沌として
 脈絡がなく精神分裂症の様相をすら呈している。他方でマスコミの提供する膨大
 な情報によって見せつけられている世界の、安直なトータル・イメージは、
 情報の質が悪いと現実世界とは似ても似つかない虚構の世界となる危険がある。
 知力を高めるために作られたはずのマス・コミによって人間がだまされ、知力を
 低下させられ、真実の視界が妨げられるという皮肉な現象が生ずる結果となる。
◎ 情報化の代償の第二は、情報過多に伴う各種の不適応症状の問題である。
 高速度に流れる大量情報が、人間の脳の情報処理能力を大幅に上まわった場合、
 人間はしばしば情報過多の神経症状に陥る。短絡型、自閉症型、分裂症型
 という三つのタイプのものがある
◎ 情報化の代償は第三に、情報の同時性、一時性と関連している。 
 社会の変化のスピードが早くなると、人間と情報との関係が極めて一時的な
 ものになってくる。このような現在(1975年当時)の情報環境の下では、
 新奇な情報を極端に求める傾向が強まっている。膨大な現在進行型の情報の
 氾濫なかで情報のライフ・サイクルは短縮化し情報は消耗品化し、情報使い
 捨ての傾向が極端になってくる。大量高速情報から自己を防衛するひとつの
 安易な適応方法は、忘れぽっくなること、つまり健忘症になることであり、
 歴史的な連続性の感覚を喪失して刹那主義的な生き方を採用することである。
◎ 情報化の代償の第四は、以上のようなマイナスの副作用とも密接に結び
 ついているところの、情報受信と発信との極端なアンバランス。 
 本来、人間の思考能力や創造性は受信と発信の反復を通じてはじめて
 可能となるものであるのに、この思考のプロセスをじっくりと通過させない
 ために、短絡型の、論理的思考力のない人間が量産されてくることにもなる。
◎ 情報化のマイナスの副作用は、第五に、マス・メディアによる異常情報、
 粗悪情報の過度拡散傾向となって影響を与えている。情報化の代償、弊害に
 ついて累々と述べているが、これは情報過多の問題なのか、質の悪い情報を
 発信し、それも何も考えずに受信することの 問題なのか、それとも膨大な
 粗悪情報がマス・メディアを媒介として流され続けることが問題なのか、
 いろいろと考えさせられる。】
▼ 情報の洪水は、それに対処可能な人と、そうでない人との情報格差
 生み出している。それは脳力と貧富の差に直結することになる。それは劣化
だけでなく、悪用で社会をいとも簡単に騙せすことが可能になった。反面、
電子知能は飛躍的に進化している。世界中の身知らずの個々人がネットで
結ばれ知恵と情報の共有が可能になってきた。それは一時代前からみたら、
SFの世界の様相である。

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3375, 大相撲の野球賭博について
2010年06月22日(火)
 
 大相撲が野球賭博で再び大問題を引き起こした。 不祥事が年中行事になっている。野球賭博
覚醒剤とか、一般の世界では有りえない事件が続くと、芸能ごとの別世界と思わざるをえない。
大相撲は元もと神事の余興で、神社で力自慢が祭りに競ったのが始まり。そこには当然、ヤクザまがいの
連中が多かった。地方巡業の興行というと、ヤクザが絡んでくるのは今さらのことである。どうも、
親方、理事の顔を見ていると、彼等も何かやっていたのでは?と、思うのは私だけではないだろう。 
野球賭博は40年ほど前から暴力団が始めたといわれ、彼らの大きな資金源になっている。 
新聞によると琴光喜は5年前から始めて、3千万ほどの借財があり、最近に勝った5百万の金を
返済に向けようと取り立てようとして、逆に350万を脅し取られた。更に一億を要求されたというが。
その交渉の席に親方二人が同席をしていたという。 自分から名乗り出た者は厳重注意だけで済ます
という呼びかけに、29人が野球賭博をしていたと名乗り出た。そこに親方衆まで入っていたが、
横綱の親方や理事などに名乗り出れない立場の人もいるはず。 新聞によると「戦前の名横綱と、
ある著名な親分が義兄弟の契りを結んでいた」とか。直ぐに、誰でも分かる人といえば・・? 
大鵬横綱土俵入りの化粧まわしに、○○組の?のマークがあった映像を放映していた。
今回、執拗に脅しをかけた連中は警察だけでなく、ヤクザ世界の方からも、ただでは済まされない失態。
刑務所にでも入っていたほうが身の安全だろう。 国技とかいう特権を剥奪すべき時期にきたとみる
べきである。 大相撲がつづく限り、こういう問題は付いてまわる。 
これから角界を去った元力士からの実態の暴露もでるだろうし・・・

・・・・・・・・
3000、3000回か~
2009年06月22日(月)
この随想日記が3000回になった。1000回、2000回の時ほどの感慨がない。
書き続けることに慣れてきたのだろう。誰に頼まれたわけじゃなし、ただ習慣だから続けているだけ。
確かに、続けているとプラスにはなる。考えざるを得ないからである。それと、常に何か書くことが
ないか注意を周囲に向けるようになった。 その現場で、キーワード探しと、その組み合わせをする
ようになっている。書くことを職業にしている人は、考えることを職にしていることになるが、紺屋の
白袴で… ?
ところで、千回、二千回の時に何を書いていたか、調べてみた。 なるほど、今回も同じような
気持ちである。ふと、気づいたが、自分とは時間の経過と同時に広がっているということ。
それと心の底の変わらない‘X’が魂ということになる。
・・・・・・・
2006/09/24  
2000, 継父
                  (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ?          
今日は母の命日で、亡くなってまる十年経った。この随想日記2000回と重なるところが不思議である。
早かったのか遅かったのかというと、大昔のような気がする。5年半の間、痴呆症になっていたが
死に際の入院までオシメをすることがなかった。痴呆症を切れ掛かった蛍光灯に例えると分かりやすい。
始めは時々切れてはつくが、その回数が増えてくる。マダラボケがジワジワと悪化すると被害妄想や、
抑えていた悪口・陰口が始まる。心が腐っていくのが手に取るように解る。マダラボケは一緒に生活を
していると疲れるものである。亡くなって一月後になって「人様はなんて楽な日常を過ごしているのだろう!」
と、驚いてしまった。両親の一生をみると人生の深さを思い知る。戦争は全ての国民に深い傷と重石を担がせる。
第二次大戦直後に生まれたが、あと十数年早く生まれていたら戦争にとられて・・・
ところで母の命日なので供養として、母の幼少時の、絵に描いたような地獄絵の世界を話してみよう。
そして、それが長男・次男の死の間接的な死の原因になってしまう。この話を故人になったが教育学者の
森信三さんが間接的に聞いて、「自分の主催している会で話して欲しい」依頼があったが、断ってしまった。
20年前で母が生存中なことと、それを多くのセレブの前で話すには自分が出来てなかった。その時、
是非話しておけばと悔いが残っている。母が幼児の頃、父親が母の兄と姉を残して亡くなってしまった。
(奇しくも昨日 TVのWOWOWで「世界で不幸な物語」という映画を観た。3人の資産家の孤児が、里親に命を
狙われ転々とする筋書きであった)家が商売をしていたので残った母の母ー祖母は男後家をもらうしかなった。
そして祖母と男後家との間に4人の子供が生まれた。そこで何が起こるだろうか? この設定は、言わずもがな
の結果になる。義父による実子との差別と、徹底的な虐めである。3人の末であった母に、特に虐めが
いったという。それが母のトラウマになってしまった。             ーつづく
                              さて墓参りだ!
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1000, \(~o~)/千日の随想日記!
2003年12月30日(火)
 1昨年の5月2日から今日の12月30日までは973日である。更に旅行をしていて休んだ
一回分の日を加えると約35~40が合わない。調べてみると206ー222とか250,251辺りとか何箇所かが
ぬけている。しかし小説風の「宗親日記」が大体その位の数を書いているので、合わせて一千回の到着日
とすることにした。あくまで自分ひとりの記念でしかない。子孫への永久保存版として
ー「子供や孫に見せるように」と、また「遺言」のつもりで書いてきた(書き始めて一年位経ってからだが)
だから続いたのだろう。自分の父親や、祖父がこのような文章を残していたら、実際のところ面白いだろう。
いま考えてみると、私にとって随想日記を書き始めた日を境に自分が間違いなく変った。一日一日が本当
に充実したのだ。会社のネットを含めると50人位の人に毎日読まれていると思うと誰かに見守られている
ような感覚になる。作家などの物書きが必死になって書くのも解るような気がする。いずれにしても
50年以上は残らないのだろう。いや死んだと同時に消滅してしまうか。そうすると生前葬の遺言みたい、
いや墓みたいなものだ。ところで実感としていうと一番勉強になり良いのが、自分であることだ。
・テーマ探しに46時中頭が1杯   ・そして構成に苦労して
・書き上げた後に、何回か書き直し  ・誤字と矛盾をさがす
このプロセスで内容を練り上げることが、思考を練ることになるからだ。といってこの程度の内容であるが。
スッと書ける日はよいが、全く書けない日がある。それでも何とか書くからよいのだ。書きつづけていると、
自分自身が変っていくのが良く解る。書くということは、考えるということであり、考えを纏めることになる。
書き続けることは、書き重ねることになる。深層の自分は、ユングではないが万人にあい通じる部分が出てくる。
その共通面と、違う面を自分で見つめることが可能となる。少し難しくなってきたが。