県知事の辞職、仕方がないのだろうが、気の毒といえば気の毒である。
何故に援助交際の相手が週刊誌にリークしたか大きな問題が残る。
詳細は知らないが、デリヘル慶大生、仕事?が仕事だけに、ブラックの
背景があると思うのは誰も同じ。金目的なら、百万円のロットだろう… 
当然、逆リークをされ、一生を棒にふることになるリスクが大きい。
先日のテーマで、学資目的のデリヘル女子大生の事例を取上げたが。
日払いなら援助交際、月払いなら愛人契約になる。としても、脇が甘い。
ブラックの世界は、恐ろしい魑魅魍魎の闇が広がっている。人生は独り旅、
誰ひとり自分を守ってはくれない。吾身のリスク管理がベースになくては…。

 一昔前なら、高級クラブがあって、容姿で、3,5,10万クラスの値があり、
便利に遊べたシスタムがあったようだ。いや、現在も同じ? ビフォア―、
アフター?代の支払いは、賞与の中に組込まれている? システム。
常連ともなれば、暗黙裡に?… その辺の浄化システムを抜くと、こういう
災難で一生を棒にふってしまう典型の事例というところ。

 社会に出てから50年以上経過するが、一度も、こういうトラブルを経験
したことがない。当然のことだが。「援助交際などもっての外!」。
幼児頃から父親の世間話で、様々な危いケースを聞き知っていたこともある。
「君子、危うきに近寄らず」が基本中の基本。その際どい辺りが面白いが、
何となく客種の見極めの勘が働く。他に履いて捨てるほど面白いことがある。

 何処かの居酒屋のオヤジが、「誰も口先では、そういうけどね!…」だが、
本能的に危ない相手や、飲み屋に近づかない。高い店ほど、若くて綺麗な
アルバイト・ホステスを揃える。 そこには生粋のプロと、学資などを稼ぐ
ために、割切ってくるアルバイトがいて、競わせる。 で、マスターか、
ママが、「あの子は、3万なら口説けるよ」と、何気なく裏情報を教える。
女好きな知人に聞いた話が、「3万ならと、遊んだところ、エイズに…。
ところが愛人の女子事務員に感染させたらしいが、何故か…?」と、 
かなり際どい話が続くが… 本人の人相まで変わっていた。その件以来、
断交したが。この話は、ここまで。夜の巷は華やかの裏側はドロドロの世界。
 
 さて、援助交際の女子慶大生の週刊新潮へのリーク代、幾らでしょうか。
500万? まけさせて300万? 
――――
2018年、4月15日
閑話小題 〜自由化された売春 −1
      
   * 風俗は既にセフティネットでなくなった
 図書館の返却コーナーから借りてきた雑誌の内容がシリアス。
これによると、「風俗は既にセフティネットでなくなった」とある。女性が年齢
が増すにつれ、よほど外見が良いスペックがないと敬遠される厳しい現実がある。
風営法が改正された数年後、地元の行きつけの居酒屋の店主に、デリバリの実態
を聞いたことがあった。よくぞ聞いてくれたと、嬉しそうに携帯でアクセスし、
予約直前までの手順を実演してみせてくれた。更に、それ専用の安い目立たない
ホテルも教えてくれた。風俗には全く興味がなかったが、新潟駅前で30年間も
ホテル事業をしていれば、様々な実態を聞くことが多かった。当然、デルヘル嬢
の入室は厳禁していたが、デルヘル嬢の長期滞在が、それ故に常時、隠れるよう
に宿泊していた。夜の外出、朝帰りのため、彼女らは、警察に怪しまれないよう、
宿泊時に身分を明かす。全国を渡り歩くそうだ。

    『文藝春秋オピニオン2018年の論点100
      〜風俗市場も崩壊 シングルマザーの歯止めなき貧困』より〜
≪ 貧困問題の最たるのが「シングルマザー」の存在。全国で123万世帯になる。
 平均年間収入が223万円で、全国世帯収入の545万円、児童あり世帯の平均
の707万円を大きく下まわる。相対的貧困に該当する貧困に該当する母子世帯の
子供たちが、‘子供の貧困’のメインであり、6人に1人になる。
その多くは、近隣に実家や親せきがなく、誰も助けてくれないのが実態だ。
 老朽化した団地や、アパートに住み、母親はダブルワークする。最低賃金
近いサービス業で10万円に、児童手当、児童育成手当を足してギリギリ最低限
の生活をおくる。これまで、キャバクラ、風俗、AV女優、買春などは、一般女性
の志願者が増えすぎて、圧倒的な女性の供給過剰にある。価格は暴落、貧困女性
セーフティネットとしての一面が完全に失われた。よほど容姿などのスペック
が高くない1万以下の格安店でないと採用されない。
 性風俗店は2005年の風営法改正で店舗から無店舗販売に移行し、届け出制に
なって実質合法化した。女性の供給過剰、性風俗店の増加、そして少子化のため、
一店舗あたりの男性が減少。だから出勤しても、客がつかない。完全出来高制の
ため、待機時間を含めた時給計算をしたら最低賃金を割る。デルヘルで出勤して
も、一日待機しても、客は二人程度。男性が払う金は、60分で8000円のうち、
売上が店と折半で、4000円程度。運よく二人ついても8000円程度。
 某女子大生のケース。
「アルバイトだけでギリギリ生活は送れるが、学費が払えない。一年生の春に
デリヘルに出ました。週に一回ほどで、月6〜10万ほど。稼いだ金は、全て預金
をして学資に…。」 若い女性だから風俗、売春がセーフティになる。現在、
日本の貧困率は、OECD加盟国34ヶ国中、10番目。世界的にも進行する国と認定
されている。≫

▼ 地元の繁華街の風俗店のドキツイ看板も殆ど見かけなくなった。
 スナック店主が曰く、「デルヘリと、マッサージ店が取って替わった」とか。
それと暴力団事務所もテラ銭が皆無になり撤退をして暫く経つとか… 。
売春が合法化され13年… 普通の子女の買春の許容売価が、一週間分の
労働賃金。愛人の平均売価が、大学新卒の初任給が世界各国の目安という。
貧しき人にとって、世界は苦海である。幸せの家系と、不幸の家系が現にある。
一度、転落すると、元に戻るのは? 
「元はこちら、そのまま結構!」など、悠長に言ってはいられない!のが現実。
・・・・・・・
3677, 自己を見つめる −4
2011年04月20日(水)
    「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 節目どきは、境遇の節目でもある。特に乗り越えることが不可能と思える壁に
直面した状況を「限界状況」と、ヤスパーが指摘している。 その限界状況に
「人生の不条理」に突き当たる。その時、それまで隠されていた真実が現れ出る。
節目を打つとは、人生の不条理を受け入れ目を背けないことである。
正中心一点無になり、変化を受け入れること。
  ー 第三章 境遇 ーから、抜粋
【 現在、変えることのできない定めを帯びた宿命的な境遇のなかへと投げ
出され、置き入れられて、人生の途上にある。その私たちの無に貫通された
現世における存在のうちには、宿命的な境遇のもつ変えることのできない定めが
刻印されている。ヤスパースが指摘するように、私たちの生存のうちには、
どうしようもない「限界状況」が巣くっていると言える。限界状況とは、
それに突き当たっては、私たちは挫折し、崩れ去る崩れ去るような、乗り越る
ことの不可能な壁に直面した状況を言う。そうした限界状況に面座して、
私たちは途方に暮れた困惑のなかで、解決しようのない自己の人生の不条理の
根源的事実に突き当たる。しかし、そのときにこそ、私たち自身の、ほんとう
の「実存」が目覚めてくる。実存とは、私たち各自の生存の、赤裸々な真実、
その拒否できない現実のあり方のことである。自己の実存を自覚し、それにも
とついて生きるよりほかに、この世を生きる生の根拠を、私たちはもたない。】
・・・・・・
5879,閑話小題 〜通りすがりの人生
2017年04月20日(木)
   *「家、ついて行ってイイですか?」について行った。
 2年前から、日曜日の午後には、「家、ついて行ってイイですか?」を
時どきだが見ていた。その撮影ディレクターとスタッフは、どんな人たちか、
どんな撮影カメラかをギャラリー視線で観たいと思っていた。ところが先日、
 <「家、ついて行ってイイですか?」について行ってみました。>
というテーマで、声かけ場面と、ついて行った家と部屋と、人生模様を
引出すサマを、そのままの視線で写しだす、味ある切口の構成であった。 
  〜そこで検索すると、番組のHPに以下の案内があった〜
≪ < 終電を逃したとき、通りすがりの人から、知らない人から突然、
「タクシー代を払うから家までついていっていいですか?」と言われたら、
如何する? そして家と部屋の生活の場に飛込むドキュメンタリーがある。
 テレビ東京の番組「家、ついて行ってイイですか?」です。 いったい、
どんなディレクターが、どんな言葉で通りすがりの人を説得させるのか。
「家、ついて行ってイイですか?」について行ってみました。>
をテーマで放送していた。 そのディレクター氏、いわく。
【 某テレビ局で若い男女がオシャレな家で共同生活をしながら恋愛する
 番組 がありますよね。複数のイケメンと美人がキラキラした生活する番組。
あれって日常を最大限にショーアップした番組ですよね。「家、ついて行って」
は、その対極にある番組です。平凡で地味なフツーの人の生活を見る。
その100%リアリティにこだわろうと。
「家、ついて行って」は、ほかのテレビ番組と真逆のつくり方を目指しました。
台本なし、アポなし、ナレーションなし、効果音なし、音楽もほとんどなし。
だから、感情の誘導もできないし、ストーリーの補強もできない。
例えば、悲しそうな場面は、「○○さんは悲しそうだ」とナレーションを入れ
られないので、泣いている様子や「悲しい」と言う様子を撮ってくるしかない。
画面にリアリティしかない。
 これまで約150人ほどの人生譚(たん)を放送してきました。
 僕は「家、ついて行って」を100年後の人たちが見たとき
「ああ、平成ってこんな時代だったのか」と感じられる作品として残したい。
柳田国男の「遠野物語」のように。 座敷わらしが出てくることで有名な
遠野物語」は、岩手の遠野地方の民話を、脚色なく丁寧に聞き書きしました。
あの本のおかげで僕たちは100年前の農村のフツーの人たちの生活や風習、
考えていたことを知ることができます。
 100年後の研究者が平成という時代を知ろうとしたとき、公の部分は新聞
を読めばいいんだろうけど、市井の人がどんな家に住んで、何を持っていて、
何を食べていて―といった生活スタイルや生き様、人生観は記録には残らない。
だからこそ、「家、ついて行って」で記録していきたいですね。】 ≫
――
▼ 若い女性のADと二人、小さな撮影機を抱えて、駅前を中心に、酔った
 様々な人に声をかける。そして、無防備な部屋にはリアルな人生のカケラが
剥き出しになっている。そこから、これまでの人生を引出していく。当人は
困惑しながら、しかし喜々として生立ちから今までの生き様を語る。それは
視聴者にとっての人生に重なるところがあるため、自然に惹き込まれていく。
その一部始終を三カメ(第三のカメラ=客観的視線)で捉える企画が抜群だ。
 老いるに従い、帰し方を、通りすがりの人の人生のように、思い出す度に、
紡ぎ直して、静かに喜怒哀楽を繰返す日々。老人の沈黙の深さが、そこにある
とは、知らなんだ。そして、記憶が融けるように、己も呆けて、融けていく。

・・・・・・
5514,恐竜と人類どっちが凄いか ー?
2016年04月20日(水)
 「人間の人生は豊かとは」を何をもって言うのか? の問題が残るが、
私が生きてきた実感は、人間は、他の動物から比べ豊かといえる。
それは、人間は雑食者で、利己主義に加えて利他的であり、人生に意義を求め、
豊かさを実現しようとする言語手段と、その記録方法を早くから身につけて
いたからである。その人生を楽しまなくて、何のための人生ぞや。
  * 人間の人生は豊か
≪ 人類の中でも人間とはいかなる存在か、人類ばいつどのように人間に
 なったのかを探るのが、人類学の重要なミッション。〜主な事項を拾うと〜
・まず人間は、驚異的な雑食者。霊長類は基本的に植物食だがが、人間は各種
植物に加え、鳥獣肉から魚介類まで手を出す。人類進化史でそのような選択を
迫られるきっかけがあったらしいのだが、ここまでメニューを広げられたのは、
陸.海.空の資源を利用する技術発達があってのこと。不安定な自然環境下では、
雑食者は偏食者より有利である。その利点に加えて、高い食料調達技術を持つ
ようになった人類が結果的に成功したのは、理解しやすい。
・人間にも、他の動物と同様に利己的な側面がある。しかし仲間を思いやり、
仲間と通じ合いたいとする感情が一段と強いのも、人間である。血縁のない相手
とも積極的に食物を分け合ったり、他人に教えてあげたりする行動が、人間に
独特であることをご存知だろうか? 例えば集まって会食している人間以外の
動物など、見たことはないだろう。野生動物界ではふつう、採食=争奪である。
外敵から隠れてひっそりしている、あるいは暇があったら寝ているというような
通常の野生動物たちに比べ、人生は楽しみに溢れている。前出の会食のみならず、
スポーツや音楽や芸術があるし、旅行や読書や勉強だって楽しい。他の生物の
生き方を否定しようとは思わないし、恐竜の生き方に至っては実態がよく
わからないが、「人生に意義を見出そう」という発想があること自体が、
何とも素晴らしいではないか。人間は、生きるということを豊かにした
生き物なのであると私は思う。 ≫
   * 人間の共通の祖先は既に凄かった
≪ 一昔前には進化は漸進的に生じると考えられていたので、例えば3万年前の
祖先ともなれば現代人よりかなり知的に劣っていると、決めつけられていた。
しかし世界各地の現代人が共有している種々の能力は、言語力にせよ芸術を
生み出す創造性にせよ、アフリカにいた現代人の共通祖先に既に備わっていた
可能性が高い。4万年前頃に日本列島にやってきた人々も、その例外ではない。
例えば種子島や富士・箱根地域には、3万年以上前から、狩りのための落し穴が
作られていた。これは、罠という動物行動を先読みした高度な狩猟法の、世界
最古の直接的証拠として、たいへん貴重。新石器時代になって世界に普及する
磨製石器の技術も、日本とオーストラリアには2万5000年も前からあった。 
さらに面白いことに、琉球列島や伊豆諸島においても、相当にチャレンジング
な海洋渡航が太古の昔から行われていたらしく、さらなる探求の価値がある。
人類学とは人間の凄さ・面白さを知れる学問なのだと、研究を20年積み重ねた
最近になって、ようやくわかってきた。 ≫
▼ 人類は、言語手段と記録方法を身に付け、探求し、生きることを楽しむ
ことが、人類の人生を豊かにしてきた。これを、そのまま、個人に当てはめる
と、人間、如何に生きるべきか、「良く遊び、良く働き、良く学ぶ」を、実践
して積み上げた分、豊かな人生を過ごしたことになる。問題は「良く」!「欲」
に何時の間に変質するから困ったもの。で、このザマ! お後が宜しいようで

・・・・・・
5149,閑話小題 〜家族という病
2015年04月20日(月)
  * 家族という病
 NHKアナウンサーだった下重暁子が『家族という病』という本を出した。
家族も、国家同様、共同幻想とみることも出来るが、「欺瞞を信じること」
が問題と、いう。 〜アマゾンの内容紹介から〜
≪ 日本人の多くが「一家団欒」という言葉にあこがれ、そうあらねばならない
 という呪縛にとらわれている。しかし、そもそも「家族」とは、それほど
すばらしいものなのか。実際には、家族がらみの事件やトラブルを挙げれば
キリがない。なのになぜ、日本で「家族」は美化されるのか。 一方で、
「家族」という幻想に取り憑かれ、口を開けば家族の話しかしない人もいる。
そんな人達を著者は「家族のことしか話題がない人はつまらない」「家族写真
入りの年賀状は幸せの押し売り」と一刀両断。家族の実態をえぐりつつ、
「家族とは何か」を提起する一冊。≫
  〜ビュアーからの投稿より(アマゾン)
【 世の中には口にすること自体タブーとされる領域がいくつかある。
 出生、能力、死、犯罪歴、宗教、遺伝、国籍などである。
本書は「家族はすばらしい」は欺瞞である、という斬新な切り口から
家族観における1つのタブーに挑んでいる。これまでにないテーマだけに
読後感は様々だろう。本書の主旨、提言などと全く無縁なまま一生を終える人は
ある意味安泰で幸福な人生かもしれない。しかし家族の中にも修復不能となる
アクシデントがなかなかの頻度で発生するものだ。配偶者との離別は無論、
血縁者間でも家族内崩壊は起きる時には簡単に起きてしまう。
 一家団欒を無邪気に肯定するのも悪くないが、ある種の読後感の悪さを
犠牲にしても筆者の視点に一度触れておく効用もあろう。読み進むと上記の
保険的効用だけでなく筆者のより普遍的な家族観を垣間見ることができる。
いかに生きるかは正しい死生観が前提となるように正しい家族観には
本書の主旨の理解が前提になるのかもしれない】
▼ 家族のあり方は、時代により変化していく。TVのインタビューや、
上記の内容を見る限り、納得する部分と、違和感を感じる部分がある。
国家幻想論を、その構成要素の一つの家族に当てはめると、これまた共同幻想
でしかないことが分かる。その家族の形態が情報化の時代の中で、大きく変化
を始めてきた現在、そのあり方を根こそぎ否定してみる必要がある。
 殺人事件の過半数以上が家族内殺人という現実がある。 商家の大家族の
末っ子の環境で、下目目線で家族を見てきた経験から、また両親から孫の
ように扱われたため、その温みが今でも残っている。それもあって、著者の論
は、あくまで一面でしかないことも見て取れる。 私の家族は、戦前、戦中、
戦後と、生き抜く中で、全員が病というより、戦傷の深い痛手を受けていた。
誰一人として、家族が素晴らしい!など思ったことはなかった。ただ自分ひとり
を守り、生きていくだけで精一杯。 この時代は誰もそうだったのだろう。
家族は素晴らしくあらねばは、占領国アメリカの洗脳の一つでしかない。
確かに家族は病であるが、魂の故郷でもある!家族が病と割切って良いものか?
・・・・・・
4784,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜?
2014年04月20日(日)
  * 倒産よもやま話(三年後に思うこと)
 倒産など滅多にできない経験である。姉夫婦、兄夫婦の倒産劇を身近にみて、
相談にのっていたのが予備知識になっていた。お陰で、右往左往することなく
比較的冷静に対処できた。「人助けは、結果として自分のため」になる。
幼馴染が10年前に訪ねてきて、倒産の生々しい話をしていたが、姉・兄と共通
する点が、弁護士などの代理人をたてること。そのための資金を必ず確保する
ことを強調していた。それもあって、迷わず弁護士に依頼した。30年来の経理
事務所の合同センター内の弁護士に依頼することになった。兄の倒産も手がけて
いたので、内情を知っていたこともあり、順調に手順が進んでいった。 
無我夢中の渦中、何もかもが新鮮な体験で、ドラマの主人公のような気分。 
過酷というより、「痛・面白い日々」という感覚で、惨めとか、恥ずかしいなど、
思う余裕などなし。動物的本能が自らをつき動かしていた。 2011年3月30日
午後5時に、担当弁護士の主導のもと、弁護士二人と、女子事務員と、私たち
三人の役員が起立をして礼をした後、「これで会社は消滅しました!」と宣言。
その後、経理総務は全てが弁護事務所に引き継がれた。その時から、二人の役員
は弁護事務所の引継ぎと、資産処分の補佐になる。と同時に、私は倒産会社の
前社長。翌日の午前、弁護士と二人で、地元銀行に報告を兼ねた御詫びまわり。
午後からは、従業員への事情説明と解雇の宣言。その後は、取引先からの問い
合わせは一切なく、私個人の身の回りの整理だけ。そのため、40年近い事業
人生の緊張感が切れて、浮いたような軽い気持ちになる。数日間は、町内と、
取引先しか情報は流れてないため、普段通りだったが、一週間経ってから、
マスコミが騒ぎ出す。どのチャネルを回しても、倒産騒ぎ。それも、震災絡み
もあってか、日テレ「真相報道バンキシャ!」(毎週日曜18:00〜放送)から
自宅に取材依頼の電話。尾ひれ羽ひれが流される位は解っていたので、迷わず
断る。東北震災絡みで、数軒のホテルなどが廃業・倒産をしていたが、規模
から見て、当方が最大規模の為、あわや全国版ニュースになるところ。 
振返ると、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、「痛・面白い」など、とんでも
ない事態ではあった。時間が経つにつれ、記憶の書き換えをするしかない
典型的事例か! ーつづく
・・・・・
4417, 閑話小題 ー昨夜は高校の同級会
2013年04月20日(土)
  * 審判のミスジャッジ
 一昨日の巨人対阪神戦で、一塁審判が明らかにセーフのジャッジをアウト
にした。残酷なのは、走者の足が一歩先に塁に着いているのをビデオで何度も
流していること。後で注意勧告されるのだろうが。目から火が出る思いだろう。
恐らく、ビデオで流されているのだろうと気が気でないはず。甲子園の高校
野球で審判のミスジャッジを見かけるが、これも純真な子供の心を傷つける
ことになる。審判もミスをするが、致し方がないと割り切るしかない。
ビデオの方が人間の目より明らかに優れている。その結果の現象だが・・試合が
流れているため、ミスとしても後に戻せない矛盾がある。これと同じことが、
政治にもある。誰が見てもミスジャッジの政治判断としても、変えることが
出来ない。私利私欲や党略で、正当な判断が出来なくなり方向を誤ってしまう。
  * 昨夜は高校の同級会。
 昨夜は高校の同級会。幹事は気をゆるして酒が飲めない役回り。このところ
二回に一度は、私と幹事相棒Mの役目。別に好きでやっているわけでないが、
大学の寮とか、会社経営をしていた頃の宴会を含めると、間接を含めて二百回
以上は仕切りをしてきた。いや、もっと多いか。まずは盛り上げに役回りに
徹すること。酒を飲むのも一期一会。人生を振り返ると、いつも、「宴会ととも
にあった」。 気の合う相手であれば二人でも宴会。
 ネットの「日本大百科全書」によると、
≪ 酒や歌舞などを伴う高揚した心の触れ合う機会。宴とも饗宴ともいう。
また宴会の性格によって祭宴、祝宴、招宴、酒宴、狂宴などとよばれる。
一般に宴会は季節ごとの折り目や人生の節目に行われ、忘年会や新年会が年末、
年始という折り目に行われる宴会とすれば、子供の誕生祝いや結婚の披露宴は、
人生の節目に行われる宴会ということになろう。≫ 
とあった。以前は、各家ごとに料理をつくって御客を招待したり、料理屋で
宴会を開いたが、今では居酒屋の大部屋で開くケースが多いという。小・中学校、
高校、大学の同級・同期会だけは、最優先に出席にしてきた。同級会は魂の世界。
心の故郷が魂とすると、年々「遠き日は 年とるごとに 近くなり」というのが
実感できる。結局、家に帰ったのが一時過ぎ。
・・・・・・
4043, 一時停止 ー3
2012年04月20日(金)         
  * 出会い ーフェルメール 1967年     
「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪ 私がほんとうにフェルメールを見たのは、その本物を見たときである。
本物を見たから、フェルメールが見たくなったのだし、旅に出ずに複製しか
見る機会がなかったら、もしかすると一生私はフェルメールに気づかなかった
かもしれない。現代の進歩した印刷技術は、複製と本物との差をだんだんに
小さなものにしてゆきつつある。複製で見ても本物で見てもそんなに変わりは
ないという絵画もあるだろう。複製を見ることが、本物を見ることにつながる
絵画もあるだろう。だがフェルメールはちがう。複製と本物との間に、越え
がたい断絶がある。 あたかもヴィニールの花と、野の自然の花とのように。 
あるいはこう言いかえてもいいかもしれない。本物を見ても、複製を見たのと
同じ感動しかなければ、私はその絵にほんとうに感動してはいないのだと。
そういう形で感動した絵は実は私にはまことに少ないのだが。 はじめて見た
フェルメールに感じた気持ちを、そのときの状態のままにことばにすりとしたら、
それは「ああきれいだなあ、ほんとになんてきれいなんだろう」ということに
しかならない。 美は人を沈黙させるという。その通りである。その沈黙の中に、
無数のことばにならぬことばがひしめいているのではないかと言う人もあるが、
少なくとも私の場合、そう言えば嘘になる。沈黙はもっと深く、ことばにならぬ
ことばなどといった不純なものはない。しんとした純正の沈黙なのである。 
ことばはずっとあとになってから、やっと重い腰をあげる。その時でもことばは
謙虚だ、ただいちばんふさわしいオマージュを捧げ、絵の美しさにほんの
少しでもあやかりたいと思うだけなのだ。≫
▼ 本物の絵画や美術品を数多く見てきた。TPOもあるが、その前で
立ちすくし、身動きが出来なくなる。ダビンチのモナリザ、サンピエトロの
ミケランジェロピエタの像、ゴッホのヒマワリなどを目の当たりにした感動。
対象が浮き出てくるようなエネルギーが満ち溢れていた。 特にゴッホ
ヒマワリは、周囲に誰もいなかったこともあり、10分間ほど、釘つけになって
しまった。出会いである。そういえば、近じかフェルメール展が日本で開催される。

つれづれに

イメージ 1

 他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/549/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

 

 今日のYoutube

新潟県知事の援助交際の件、財務省次官のセクハラ問題で、
思いの外、バッシングは無かったような。あっさりと認めたからだ。

私が県知事なら、逆リークをするはず。何を、このオナゴはん、
考えているかだ。当然、万人が周知するはず。もうネットで流されて
いるかもしれない。当然、ネット上に曝され、隠れて住まわなければ
ならない。







・・・・・・
・・・・・・

4784,閑話小題 ー倒産よもやま話 ~①
2014年04月20日(日)
  * 倒産よもやま話(三年後に思うこと)
 倒産など滅多にできない経験である。姉夫婦、兄夫婦の倒産劇を身近にみて、
相談にのっていたのが予備知識になっていた。お陰で、右往左往することなく
比較的冷静に対処できた。「人助けは、結果として自分のため」になる。
幼馴染が10年前に訪ねてきて、倒産の生々しい話をしていたが、姉・兄と共通
する点が、弁護士などの代理人をたてること。そのための資金を必ず確保する
ことを強調していた。それもあって、迷わず弁護士に依頼した。30年来の経理
事務所の合同センター内の弁護士に依頼することになった。兄の倒産も手がけて
いたので、内情を知っていたこともあり、順調に手順が進んでいった。 
無我夢中の渦中、何もかもが新鮮な体験で、ドラマの主人公のような気分。 
過酷というより、「痛・面白い日々」という感覚で、惨めとか、恥ずかしいなど、
思う余裕などなし。動物的本能が自らをつき動かしていた。 2011年3月30日
午後5時に、担当弁護士の主導のもと、弁護士二人と、女子事務員と、私たち
三人の役員が起立をして礼をした後、「これで会社は消滅しました!」と宣言。
その後、経理総務は全てが弁護事務所に引き継がれた。その時から、二人の役員
は弁護事務所の引継ぎと、資産処分の補佐になる。と同時に、私は倒産会社の
前社長。翌日の午前、弁護士と二人で、地元銀行に報告を兼ねた御詫びまわり。
午後からは、従業員への事情説明と解雇の宣言。その後は、取引先からの問い
合わせは一切なく、私個人の身の回りの整理だけ。そのため、40年近い事業
人生の緊張感が切れて、浮いたような軽い気持ちになる。数日間は、町内と、
取引先しか情報は流れてないため、普段通りだったが、一週間経ってから、
マスコミが騒ぎ出す。どのチャネルを回しても、倒産騒ぎ。それも、震災絡み
もあってか、日テレ「真相報道バンキシャ!」(毎週日曜18:00~放送)から
自宅に取材依頼の電話。尾ひれ羽ひれが流される位は解っていたので、迷わず
断る。東北震災絡みで、数軒のホテルなどが廃業・倒産をしていたが、規模
から見て、当方が最大規模の為、あわや全国版ニュースになるところ。 
振返ると、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、「痛・面白い」など、とんでも
ない事態ではあった。時間が経つにつれ、記憶の書き換えをするしかない
典型的事例か! ーつづく
・・・・・
4417, 閑話小題 ー昨夜は高校の同級会
2013年04月20日(土)
  * 審判のミスジャッジ
 一昨日の巨人対阪神戦で、一塁審判が明らかにセーフのジャッジをアウト
にした。残酷なのは、走者の足が一歩先に塁に着いているのをビデオで何度も
流していること。後で注意勧告されるのだろうが。目から火が出る思いだろう。
恐らく、ビデオで流されているのだろうと気が気でないはず。甲子園の高校
野球で審判のミスジャッジを見かけるが、これも純真な子供の心を傷つける
ことになる。審判もミスをするが、致し方がないと割り切るしかない。
ビデオの方が人間の目より明らかに優れている。その結果の現象だが・・試合が
流れているため、ミスとしても後に戻せない矛盾がある。これと同じことが、
政治にもある。誰が見てもミスジャッジの政治判断としても、変えることが
出来ない。私利私欲や党略で、正当な判断が出来なくなり方向を誤ってしまう。
  * 昨夜は高校の同級会。
 昨夜は高校の同級会。幹事は気をゆるして酒が飲めない役回り。このところ
二回に一度は、私と幹事相棒Mの役目。別に好きでやっているわけでないが、
大学の寮とか、会社経営をしていた頃の宴会を含めると、間接を含めて二百回
以上は仕切りをしてきた。いや、もっと多いか。まずは盛り上げに役回りに
徹すること。酒を飲むのも一期一会。人生を振り返ると、いつも、「宴会ととも
にあった」。 気の合う相手であれば二人でも宴会。
 ネットの「日本大百科全書」によると、
≪ 酒や歌舞などを伴う高揚した心の触れ合う機会。宴とも饗宴ともいう。
また宴会の性格によって祭宴、祝宴、招宴、酒宴、狂宴などとよばれる。
一般に宴会は季節ごとの折り目や人生の節目に行われ、忘年会や新年会が年末、
年始という折り目に行われる宴会とすれば、子供の誕生祝いや結婚の披露宴は、
人生の節目に行われる宴会ということになろう。≫ 
とあった。以前は、各家ごとに料理をつくって御客を招待したり、料理屋で
宴会を開いたが、今では居酒屋の大部屋で開くケースが多いという。小・中学校、
高校、大学の同級・同期会だけは、最優先に出席にしてきた。同級会は魂の世界。
心の故郷が魂とすると、年々「遠き日は 年とるごとに 近くなり」というのが
実感できる。結局、家に帰ったのが一時過ぎ。
・・・・・・
4043, 一時停止 ー3
2012年04月20日(金)         
  * 出会い ーフェルメール 1967年     
「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955~2010
≪ 私がほんとうにフェルメールを見たのは、その本物を見たときである。
本物を見たから、フェルメールが見たくなったのだし、旅に出ずに複製しか
見る機会がなかったら、もしかすると一生私はフェルメールに気づかなかった
かもしれない。現代の進歩した印刷技術は、複製と本物との差をだんだんに
小さなものにしてゆきつつある。複製で見ても本物で見てもそんなに変わりは
ないという絵画もあるだろう。複製を見ることが、本物を見ることにつながる
絵画もあるだろう。だがフェルメールはちがう。複製と本物との間に、越え
がたい断絶がある。 あたかもヴィニールの花と、野の自然の花とのように。 
あるいはこう言いかえてもいいかもしれない。本物を見ても、複製を見たのと
同じ感動しかなければ、私はその絵にほんとうに感動してはいないのだと。
そういう形で感動した絵は実は私にはまことに少ないのだが。 はじめて見た
フェルメールに感じた気持ちを、そのときの状態のままにことばにすりとしたら、
それは「ああきれいだなあ、ほんとになんてきれいなんだろう」ということに
しかならない。 美は人を沈黙させるという。その通りである。その沈黙の中に、
無数のことばにならぬことばがひしめいているのではないかと言う人もあるが、
少なくとも私の場合、そう言えば嘘になる。沈黙はもっと深く、ことばにならぬ
ことばなどといった不純なものはない。しんとした純正の沈黙なのである。 
ことばはずっとあとになってから、やっと重い腰をあげる。その時でもことばは
謙虚だ、ただいちばんふさわしいオマージュを捧げ、絵の美しさにほんの
少しでもあやかりたいと思うだけなのだ。≫
▼ 本物の絵画や美術品を数多く見てきた。TPOもあるが、その前で
立ちすくし、身動きが出来なくなる。ダビンチのモナリザ、サンピエトロの
ミケランジェロピエタの像、ゴッホのヒマワリなどを目の当たりにした感動。
対象が浮き出てくるようなエネルギーが満ち溢れていた。 特にゴッホ
ヒマワリは、周囲に誰もいなかったこともあり、10分間ほど、釘つけになって
しまった。出会いである。そういえば、近じかフェルメール展が日本で開催される。