つれづれに

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 今日のYoutube

新潟県知事の援助交際の件、財務省次官のセクハラ問題で、
思いの外、バッシングは無かったような。あっさりと認めたからだ。

私が県知事なら、逆リークをするはず。何を、このオナゴはん、
考えているかだ。当然、万人が周知するはず。もうネットで流されて
いるかもしれない。当然、ネット上に曝され、隠れて住まわなければ
ならない。







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4784,閑話小題 ー倒産よもやま話 ~①
2014年04月20日(日)
  * 倒産よもやま話(三年後に思うこと)
 倒産など滅多にできない経験である。姉夫婦、兄夫婦の倒産劇を身近にみて、
相談にのっていたのが予備知識になっていた。お陰で、右往左往することなく
比較的冷静に対処できた。「人助けは、結果として自分のため」になる。
幼馴染が10年前に訪ねてきて、倒産の生々しい話をしていたが、姉・兄と共通
する点が、弁護士などの代理人をたてること。そのための資金を必ず確保する
ことを強調していた。それもあって、迷わず弁護士に依頼した。30年来の経理
事務所の合同センター内の弁護士に依頼することになった。兄の倒産も手がけて
いたので、内情を知っていたこともあり、順調に手順が進んでいった。 
無我夢中の渦中、何もかもが新鮮な体験で、ドラマの主人公のような気分。 
過酷というより、「痛・面白い日々」という感覚で、惨めとか、恥ずかしいなど、
思う余裕などなし。動物的本能が自らをつき動かしていた。 2011年3月30日
午後5時に、担当弁護士の主導のもと、弁護士二人と、女子事務員と、私たち
三人の役員が起立をして礼をした後、「これで会社は消滅しました!」と宣言。
その後、経理総務は全てが弁護事務所に引き継がれた。その時から、二人の役員
は弁護事務所の引継ぎと、資産処分の補佐になる。と同時に、私は倒産会社の
前社長。翌日の午前、弁護士と二人で、地元銀行に報告を兼ねた御詫びまわり。
午後からは、従業員への事情説明と解雇の宣言。その後は、取引先からの問い
合わせは一切なく、私個人の身の回りの整理だけ。そのため、40年近い事業
人生の緊張感が切れて、浮いたような軽い気持ちになる。数日間は、町内と、
取引先しか情報は流れてないため、普段通りだったが、一週間経ってから、
マスコミが騒ぎ出す。どのチャネルを回しても、倒産騒ぎ。それも、震災絡み
もあってか、日テレ「真相報道バンキシャ!」(毎週日曜18:00~放送)から
自宅に取材依頼の電話。尾ひれ羽ひれが流される位は解っていたので、迷わず
断る。東北震災絡みで、数軒のホテルなどが廃業・倒産をしていたが、規模
から見て、当方が最大規模の為、あわや全国版ニュースになるところ。 
振返ると、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、「痛・面白い」など、とんでも
ない事態ではあった。時間が経つにつれ、記憶の書き換えをするしかない
典型的事例か! ーつづく
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4417, 閑話小題 ー昨夜は高校の同級会
2013年04月20日(土)
  * 審判のミスジャッジ
 一昨日の巨人対阪神戦で、一塁審判が明らかにセーフのジャッジをアウト
にした。残酷なのは、走者の足が一歩先に塁に着いているのをビデオで何度も
流していること。後で注意勧告されるのだろうが。目から火が出る思いだろう。
恐らく、ビデオで流されているのだろうと気が気でないはず。甲子園の高校
野球で審判のミスジャッジを見かけるが、これも純真な子供の心を傷つける
ことになる。審判もミスをするが、致し方がないと割り切るしかない。
ビデオの方が人間の目より明らかに優れている。その結果の現象だが・・試合が
流れているため、ミスとしても後に戻せない矛盾がある。これと同じことが、
政治にもある。誰が見てもミスジャッジの政治判断としても、変えることが
出来ない。私利私欲や党略で、正当な判断が出来なくなり方向を誤ってしまう。
  * 昨夜は高校の同級会。
 昨夜は高校の同級会。幹事は気をゆるして酒が飲めない役回り。このところ
二回に一度は、私と幹事相棒Mの役目。別に好きでやっているわけでないが、
大学の寮とか、会社経営をしていた頃の宴会を含めると、間接を含めて二百回
以上は仕切りをしてきた。いや、もっと多いか。まずは盛り上げに役回りに
徹すること。酒を飲むのも一期一会。人生を振り返ると、いつも、「宴会ととも
にあった」。 気の合う相手であれば二人でも宴会。
 ネットの「日本大百科全書」によると、
≪ 酒や歌舞などを伴う高揚した心の触れ合う機会。宴とも饗宴ともいう。
また宴会の性格によって祭宴、祝宴、招宴、酒宴、狂宴などとよばれる。
一般に宴会は季節ごとの折り目や人生の節目に行われ、忘年会や新年会が年末、
年始という折り目に行われる宴会とすれば、子供の誕生祝いや結婚の披露宴は、
人生の節目に行われる宴会ということになろう。≫ 
とあった。以前は、各家ごとに料理をつくって御客を招待したり、料理屋で
宴会を開いたが、今では居酒屋の大部屋で開くケースが多いという。小・中学校、
高校、大学の同級・同期会だけは、最優先に出席にしてきた。同級会は魂の世界。
心の故郷が魂とすると、年々「遠き日は 年とるごとに 近くなり」というのが
実感できる。結局、家に帰ったのが一時過ぎ。
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4043, 一時停止 ー3
2012年04月20日(金)         
  * 出会い ーフェルメール 1967年     
「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955~2010
≪ 私がほんとうにフェルメールを見たのは、その本物を見たときである。
本物を見たから、フェルメールが見たくなったのだし、旅に出ずに複製しか
見る機会がなかったら、もしかすると一生私はフェルメールに気づかなかった
かもしれない。現代の進歩した印刷技術は、複製と本物との差をだんだんに
小さなものにしてゆきつつある。複製で見ても本物で見てもそんなに変わりは
ないという絵画もあるだろう。複製を見ることが、本物を見ることにつながる
絵画もあるだろう。だがフェルメールはちがう。複製と本物との間に、越え
がたい断絶がある。 あたかもヴィニールの花と、野の自然の花とのように。 
あるいはこう言いかえてもいいかもしれない。本物を見ても、複製を見たのと
同じ感動しかなければ、私はその絵にほんとうに感動してはいないのだと。
そういう形で感動した絵は実は私にはまことに少ないのだが。 はじめて見た
フェルメールに感じた気持ちを、そのときの状態のままにことばにすりとしたら、
それは「ああきれいだなあ、ほんとになんてきれいなんだろう」ということに
しかならない。 美は人を沈黙させるという。その通りである。その沈黙の中に、
無数のことばにならぬことばがひしめいているのではないかと言う人もあるが、
少なくとも私の場合、そう言えば嘘になる。沈黙はもっと深く、ことばにならぬ
ことばなどといった不純なものはない。しんとした純正の沈黙なのである。 
ことばはずっとあとになってから、やっと重い腰をあげる。その時でもことばは
謙虚だ、ただいちばんふさわしいオマージュを捧げ、絵の美しさにほんの
少しでもあやかりたいと思うだけなのだ。≫
▼ 本物の絵画や美術品を数多く見てきた。TPOもあるが、その前で
立ちすくし、身動きが出来なくなる。ダビンチのモナリザ、サンピエトロの
ミケランジェロピエタの像、ゴッホのヒマワリなどを目の当たりにした感動。
対象が浮き出てくるようなエネルギーが満ち溢れていた。 特にゴッホ
ヒマワリは、周囲に誰もいなかったこともあり、10分間ほど、釘つけになって
しまった。出会いである。そういえば、近じかフェルメール展が日本で開催される。