『坐禅は心の安楽死〜ぼくの坐禅修行記』横尾忠則 (著)
   * ピラミッド・パワー ?
 座禅の空間環境にはピラミッド空間は最適だろう。実家の仏間の一角に、
書斎コーナーがある。その環境が、ピラミッド・空間と似ている。仏間が
亡き先祖の魂、とりわけ両親の魂と同化しているような安堵感がある。
これを書上げ、アップした後に、仏前で祈っている。早朝のこの時間と、
9時から2時間の読書か、ネットサーフィンか、随想日記の下書きの時空間が
パワーの源になっている。
――

≪ ぼくがピラミッド・テントの中で座禅、あるいは瞑想をするようになって
 からの効果となると、まだわからない。 しかし、この中に座ると、
<自分が完全に外界から遮断されているという意識だけは強烈に起こってくる。
それと、同時に非常に特殊な空間によって保護されている安心感が得られ、
また普段と違ってある種の聖なる意識を伴った上昇感がある。>
 になるのが特徴。
 
 …アメリカにはフラナガンというピラミッド・パワーの研究者がいる。
彼とそのグループは過去数年間にわたって生体宇宙エネルギーと呼ばれる
エネルギーの諸現象に関して研究を続けているが、まだ誰一人としてこれこそが
そのエネルギーであると現実に示した者はいないという。このエネルギーは古来
から色いろな呼び方をされている。生体エネルギー、磁気エネルギー、プラーナ、
マーナ、クンダリーニ、気、その他で、これらのエネルギーの根源や特徴について
殆どが宗教的あるいは秘教的修法にかかわる見解ばかりである。 

 ピラミッド製品を取り寄せたパンフレットに、フラガン博士のパンフレットの
‘ピラミッドと、その生体宇宙エネルギーとの関係’の一部が紹介してある。
【 現在私の研究では、生体宇宙エネルギーは磁気の特殊性質によって起こる現象
 であることを実験的に確認しており、このエネルギーは宇宙の諸力と密接不離に
結びついています。 … 磁気形態共鳴によって、ミクロ的次元のエネルギーは
ピラミッドのようなマクロ的次元の形態の中に凝縮化されていくに違いない。
電磁スぺクタルに於ける周辺効果の場合には、このエネルギーはしばしば隠されて
しまいますが、これと同じように、このエネルギーは不可視の次元で存在し、ただ
その性質だけが現われてくるのです。さまざまな物理的現象がこのエネルギーを
現出せしめていても、このエネルギーの本性自体は人々の注意を引くことはない。 
このエネルギーは生体絶縁子によって引き付けられ、磁力と同じように熱や光を
発生しますが、この熱や光自体がこのエネルギーの正体ではありません。これら
多くの発見は、ピラミッドによってもたらされたものです。】
                   横尾忠則『わが坐禅修行記』より ≫
――
▼ 気といえば、学生時代のクラブで、「合気道」に属していた。演武が中心で
 実戦がないが、「気」の鍛錬で相手を丸め込む技。これも、大男のアスリート
には、実のところ敵わない。しかし、「気」が鍛錬されているため、少なくとも
相手に気合負けすることはない。宇宙の気と自ら一体化する訓練は、ヨガ、座禅
に通じるところがある。特に重視するのは呼吸。 ヨガも同様だが、聖なる意識
空間が、道場にある。4〜11月の早朝の信濃川土手へのポタリングも同じ。
 人間には7つのチャクラがあり、ヨガは第7のチャクラを活性化させることが
目的と言われている。ピラミッドには、そのチャクラを全開にしてくれるパワー
を引出すのが目的に創られたとは、驚きである。いま、思いだしたのが、以前、
『光の手』ー上・下』と『7つのチャクラ』を読んでいたこと。倉庫の書棚にある
筈だが。この2冊は手かざしで7つのチャクラの歪みを正し、病を治す、ヒーラー
への道しるべの内容である。長年かけた不摂生の中でも、現在、生き残っている
のは、聖なる?生活習慣と、内臓に向けた夜半の手かざしの習慣があるためか。 
毎日、心かけていることは、「ああ面白かった」と心の底からいえること。
そう考えると、結構、面白い日だった。有難いこと。で、今日はシネマの日。
 『グレイテスト・ショーマン』を予定。
☆「地上でもっとも偉大なショーマン」と呼ばれた19世紀アメリカの
 実在の興行師P・T・バーナムの半生を描いたミュージカル… 面白そう。

・・・・・・
5450,閑話小題 〜木鶏クラブにて ー?創造的生き方とは
2016年02月16日(火)
   * 創造的生き方とは
 去年の会で初めて会ったが、ここに新大医学部二年生が参加している。
平均60数歳の中で、良くぞと感心する。彼の一年終了後の一年間の休学は、
人生設計上、理想的に思えた。当時、『よく、その発想と決断が出きたね』
と褒めると、『「一年終了時の一年間の休学」は東大の医学部で流行ってる、
その真似しただけです』と謙虚な答え。私が知る限りの医者の選択肢には、
医院の開業医の独立(父親の開業医を引継も含め)か、勤務医での昇進
(山登り)がある。更に、僻地医療も専門にするか、あくまで都会にするか。
医師で探検家で大学教授など、様々な顔を持ち、 「グレートジャーニー」
で有名な関野 吉晴みたいに、探検を気ままする生き方もある。
直後に連れといく、近くのスナックに誘うと、喜んで参加したが、そこに
60歳半ばの男が話しかけてきた。それが、何と、内科の勤務医を66歳で退職
直後の、高校も、大学も、その学生の先輩という。
 本人にとって、医師としての人生設計上、知りたい情報の宝庫である、
嘘のような偶然の出会い。二人の話が盛り上っていたので、列車の都合で、
中座をしたが、普通なら誘われても断るのだろうが、求める何かがあると
感じたからだろう。こういう人に、偶然という形で、大いなるチャンス
を与えてくれる何かが存在する。大成のためには、この頃から志にそって、
着実に知識と経験を積み始めている若きエリートの一端を見た思いである。
父親は医師ではないが、祖父が精神科開業医で、退職した勤務医の近所にあり、
その医院の存在を知っていたような? 命を扱う医師こそ分厚い教養が必要。
分厚い教養を得るに、一年間の休学という予定挫折?こそ、代えがたい経験だ。
羨ましいというより、これからのキャリアを積むプロセスが大変だが、明るい
のが良い! で、以下の内容をHP内を検索、コピーしてみた。
・・・・・・
5086,タガメ女の正体  ー�
2015年02月16日(月)
         ー日本の男を喰い尽くすタガメ女の正体〜深尾 葉子(著)
 子供の頃、小川で見かけたタガメが、カエルなどを主食にした肉食昆虫で、
捕食する姿から、夫婦に例え、「世の亭主は、すべからず女房にお金も人生も
吸いとられる」という切口が、なかなか説得力がある。〜その辺りから抜粋〜
 ≪ タガメとは、体長5〜6・5�の肉食の大型水中昆虫 ・・
 今から一〇年以上前、私はNHKのハイビジョン番組を観ていました。
琵琶湖近くにある〆里山の四季を追いかけるというもので、写真家の指導のもと
撮影された映像はそれは美しく、素敵だなあと目を奪われていると、初夏の水田
風景のなかでショッキングな映像にでくわしました。それはタガメの捕食シーン。
 じつはタガメというのは肉食で、魚やカエルを獲物にしています。
場合によっては、自分よりも身体が大きい生物をいったいどうやって捕まえる
のかというと、これがなかなかエグいやり方なのです。
 その映像では、まず土のなかに身を潜めて獲物がくるまでじっと待ちます。
そして、カエルが近くにやってきたらガバッと飛びつき、鎌状の前脚でガッチリ
と挟んだら、鋭い注射針くちばしのような口吻(鳥でいう噛)を刺します。
タンパク質を溶かす消化液を注入するのです。カエルも当初は異変に気づき、
「バタバタと必死にもがいているのですが、タガメの締め付けはハンパでは
ありません。やがて気力を失ったのか全身に毒がまわったのかグッタリ。
体内の消化液で溶かされ、肉をチューチューと吸われて絶命してしまいました。
番組ではそこまで映してはいませんが、タガメに吸い尽くされた獲物は骨と皮
しか残りません。言葉ではさほどではありませんが映画『エイリアン』を彷彿
とさせるグロテスクな捕食方法。タガメが「水中ギャング」と呼ばれる所以。
 そんな捕食シーンをハイビジョン映像で目の当たりにし、息をのみました。
自然界とはいえ、やはりひとつの命が奪われるシーンというのは衝撃的だった
ということもありますが、私にはこれが別の場面と重なって見えたからです。 
 『これって男と女の関係にそっくりじゃないか――』
 女はガッチリと男を捕まえて、月一万円という小遣いで身動きがとれない
ようにし、チュフユーと夫の収入と社会的なリソースを吸いつくすつ男たちは
といえば、最初はバタバタもがくも、やがて諦めたようにグッタリとして、
ゆっくりと収入やリソースを吸い尽くさ最後は骨と皮になって死んでいく。≫
▼ タガメ女の餌食の「カエル男」は、妻の洗脳で「ATM」と揶揄される
 タガメ女の搾取と奴隷生活を巧みな洗脳と人格改造により「それなりに幸せ」
と勘違いさせて心の平衡を保ち、保てない人間は職場で溢れたストレスを
パワハラ、セクハラ、不倫で発散させる。タガメの顔写真が、女性の股間
見えてきた。これでカニバサミされ、一度食らいついたら骨の髄まで(ノД`) あ゙
・・・・・・
5816,緩和小題 〜しまった! ー 人は意味を探す  ー 4
2017年02月16日(木)     
       < しまった! 「失敗の心理」を科学する
       ジョゼフ・T・ハリナン (著) >
 人は意味(価値)を求めて生きている。当然、自分だけでなく、他人にも、
それを求める。男女別なく、死ぬまで生活をしていかなくてはならない。
まずは、その確保。そして好きなこと(趣味)を生涯続けることが出来れば、
これに越したことはない。 それが連れ合いと重なれば尚のことよい。そこで
連れ合いとの相性の問題(価値の共有)がある。 また連れ合いとのバランス
がある。相方は長期物(人)件?。選定の9割は間違えるか、長年かけ破損する。
それでも、何とか… 
  * 人生何を生業(なりわい)にし、何に価値を求めるか?
<名前が他の要素に比べて、さほど重要ではないことは、数年前の英国の実験で
 証明された。にせの人物のプロフィールを暗記させる実験だ。各プロフィール
に架空の名前のほかに、人物ゆかりの地名(出身地など)や職業、趣味といった、
にせの情報が記されている。たとえば、〖アン・コリンズ。有名なアマチュア
写真家。プリストル近郊在住。地元で訪問介護師として働いている〗とする。
 憶えていた第一が、職業で、69%。 第二位がタッチの差の68%で「趣味」。
第三位が、62%の「出身地」。最下位が、「名前」で、ファーストネーム(名)
が31%、ラストネームが30%しか憶えてなかった。なぜか、人は意味を求めて
いるため。その人の名がパン屋を営んでいることは姓がベーカリーより憶えやす
かった。人の名は、あまり意味がない恣意的につけられた「ラベル」でしかない。
それに対して、職業、趣味、場所は「意味論的に豊かで何かを意味している。>
――
▼ 当り前のことだが、その人となりの判断基準が生活を支える「職業」と、
長年かけて蓄積された「資産」。そして、「趣味」になる。 次に男なら、
「美形」と「センス」。女なら「出身地」「最終出身校」と続く。男は、実は
「美形」と「センス」ではない。 それに加えた身についた魅力で8割は知り
えるが、それでも数ヶ月は様子をみなければ…。当然、名前などどうでもいいが、
相手の注意を惹きたいなら、フルネームを覚えればよい… このことから、
人生如何に生きるを読みとく示唆がある。 まず職業を何にするか。そして何を
趣味にしたライフワークを続けるか。その為の学校の選択。その条件としての、
両親の職業(家柄)と、学歴の土台を元に、自分の特性をキャリアを加えていく。
それが、各自の人柄になる。「で、このザマ」が、知る限り万人に当てはまる。
 そう思えば、気が休まる。社会など、世間など、他人など、妄想でしかない。 
あるのは、行蔵と知恵だけ。遊べるうち、学べるうち、今のうち、人生を歩め!
・・・・・・
「ゴールデン・ルール」のコーナー
2015/12/02
武器としての決断思考 ー?     
        ー武器としての決断思考〜 瀧本 哲史 (著)ー
 図書館で見つけた本で、京大の医学部で場違い?の『起業論』を教えている
内容に興味を引かれ借りてきた。医師の世界も、将来的に、そう甘くはない。
30年以上前に新潟で立ち上げた「木鶏クラブ」の会が、今も二ヶ月に一度、
開かれている。そのの例会に、年末か、年始に、年一回参加しているが、去年、
新大医学部の20歳の学生で、考えるところがあって、一年の休学をとって、
白紙で将来を考えたいという青年が来ていた。『思い切った判断だね!』
と褒めると、『教養課程で、一年の休学は東大医学部の学生の一部で
受継がれてきたのを聞き、考えるところがあり真似ただけ!』という。
この「武器としての決断思考」が、そういう人たちのバイブル?かどうかは
不明だが、私が人生を通し、学んできた要点を、軽く一冊に凝縮してある。 
『青年は荒野を目指せ!』である。でないと、溝沼の腐った一員になっていく。
 人生からみたら、「事前の一策は、事後の百策に勝る」の、具体例。
「事前に学んでおくべき人生戦略本」で、さすが、東大、京大医学部。
20歳の白紙の状態の決断は人生を大きく左右する。〜アマゾン内容紹介より
《 東大×京大×マッキンゼー式・決断の技術!
 本書は、著者がいま、京都大学で二十歳前後の学生に教えている
「意志決定の授業」を一冊に凝縮したもの。今後、カオスの時代を生きていく
若い世代にいちばん必要なのは、意思決定の方法を学ぶことであり、決断力を
身につけることです。もう過去のやり方は通用しないし、人生のレールみたい
なものもなくなってしまいました。「答え」は誰も教えてはくれません。
 となれば、自分の人生は、自分で考えて、自分で決めていくしかないのです。
仕事をどうするか、家庭をどうするか、人生をどうするか? この本で私と
一緒に「自分で答えを出すための思考法」を学んでいきましょう。
きっと、あなたの人生を変える授業になるはずです。》
  〜カスタマーレビューより〜
《 筆者は、東大→マッキンゼー→京大准教授というエリート。
人生において、自分で考え、行動ができる事の重要性を説き、その秘訣を
伝授するとの趣旨。出版社である星海社新書という会社は、「戦う事を選んだ
次世代の仲間たちに、武器としての教養を配る事」を目的として謳っています。
私は、本屋で初めて見つけた本を買って読む事は、めったにないのですが、
思わず買いました。 内容はと申しますと、ガイダンスまでは期待通りで、
これからの厳しい世界を生き抜いていくには、知識・判断力・行動力・修正力
をバランスよく身につけるべき! と実例を交えながら、うなずきの連続。
ただし、本章に入ってからは、ほとんどがディベートの基礎講座。
(大雑把に言うと)ロジカルに物事を考え、常に(正解ではなく)最善解を
導いて、行動を起そう。状況が変化すれば、適宜修正をしていこう。それが
決断思考であり、自分の頭で考えて、自分で決めて行くという事!という内容。
日ごろから、ある程度、まともに物事を考えている人からすると、
同意こそすれ、目から鱗とまではいかないでしょうか。》
▼ ーはじめにーの「武器としての教養」を身につけろーが、この書の要約。
 学生時代の教養課程から専門課程で、何を目指すかを課題を無い頭を絞って
考えて結論を出したが、正に、著者の、この要約を地でいっていたようだった。
50年前の当時は、「坂の上の雲」を目指す高度成長時代の真只中。で、結果は、
バブル崩壊への転換を甘くみて、この結果? しかし、面白く、充実していた。
 で、現在は低成長時代の真逆の環境。だからこそ、ゲリラとして、それぞれが
実学としての武器としての教養が必要になる。 既に時代は氷河期に入った。 
 その中で、久々に? 面白い戦略本に出会った。来週、この会の忘年会に
出席予定だが、この青年、来ているかどうか?   ーつづく
・・・・・・
「ゴールデン・ルール」のコーナー
2015/12/03
武器としての決断思考 ー?    
          ー武器としての決断思考〜 瀧本 哲史 (著)ー
  * 人間を自由にするための学問を ーリベラルアーツ
 高度成長期は、20年以上も昔におわり、今では時代は氷河期に入ろうと
しています。そこで選ばれし者同士の熾烈な戦い生じてくる。そのための
明らかなエリート教育が、これである。著者そのものが、更に選ばれし者。
自分自身の経験を、筋立てて教えればよい。 〜その辺りから抜粋〜
《 リベラルとは本来「自由」を意味する言葉で、アーツとは「技術」。
 すなわち人間を自由にするための学問である。その基礎としての教養は、
10〜20代の若い時にそのベースをつくっておくべきである。
 教養の起源は、古代ギリシャにまでさかのぼります。
 当時の社会には奴隷制度があり、奴隷と非奴隷を分けるものとして、
学問の重要性がさけばれていました。かなり大ざっぱに言えば、
「学のない人間は奴隷として使われても仕方、ない」、ということです。
 奴隷などというと、21世紀の日本で生活しているこの本の読者にはあまり
関係のない話のように思えますが、決してそんなことはありません。
 私は、いまだからこそ、リベラルアーツが必要だと強く感じています。
それも、未来の日本を支えていく10代〜20代の若い世代にこそ必要なのです。
どうしてか? それを説明するため、京都大学医学部生の話をしたい。
  * どうして京大医学部生の40パーセントが「起業論」を学ぶのか?
 私は京都大学で、「意思決定論」だけでなく、「起業論」の授業も受け
持ってます。教えているのは、成功したベンチャー企業ケーススタディ
中心とした、実践的な起業の方法であり、その根底にあるべき考え方です。
 その授業を受け持ってしばらく経ったときのこと。ふと履修者の情報を
整理してみたところ、驚くべきことに気づきました。
 なんと、学部別の割合で見ると、医学部の学生がもっとも私の授業を
受けていたのです。その率、40パーセント。
 京大医学部ば、東大医学部と双璧をなす最難関の学部として知られています。
卒業後は、ほぼ100パーセントの人間が医者になります。やりがいだけでなく、
高い社会的地位も報酬も得られ、まさに一生食いっぱぐれない安粛な人生を
約束されたはずのエリート中のエリートたちが、なぜ私の起業論の授業を
受けるのか?不思議に思い、私は学生にヒアリングを試みました。
すると、こんな答えが返ってきたのです。
「この国では、医者になったって幸せにはなれない」
「もう昔のように、医者髄お金持ち、という時代でもない」
「やりがいだけではやっていけない。新しい方法を見つけないと」
彼らは自分の将来に対し、明確な不安を抱いてました。》
▼ 医者の卵でも、勤務医より開業医の方が遥かに恵まれていることと、
 その開業(起業)のための知的準備を学生時代から始めておくべきも
知っている。だから、連れあいも、医師とか、資産家の娘の中から、
探すことになる。医師を目指そうというのは、本来、ある程度の資産が
必要条件である。開業するには、医師としての特性がなければ成立たない。
その特性を磨くには学生時代からの長期のリベラルアーツが必要となる。
「鬼に金棒」の金棒と、使い方は、学生時代から準備すべし、ということ。
・・・・・・
2015/12/04
武器としての決断思考 ー?    
          ー武器としての決断思考〜 瀧本 哲史 (著)ー
 『学問のすすめ』が、明冶5年の3000万人の人口の中で、300万冊の大ベスト
セラーだったというから、当時の民度が高かったことが窺い知ることができる。
明治初期の日本で、欧米のバイブルみたいに読まれていたことになる。
今の人口比からすると1200万冊。明治以来、日本は果して進化したのか。
現在の日本人が、これだけ読む知性も、教養もない。 明治以来、日本は
果して進化したのだろうか。国敗れて教養なし! 何かが失われた!
  * 『学問のすすめ』は、いま、若い世代こそ読むべきだ
≪ 変化が激しい今の時代、これまでの価値観や方法・人生のレールという
ものは、意味をなさなくなってきているということです。京大医学部生の話は、
その顕著な一例にすぎません。右肩上がりの「幸福な時代」は過ぎ去りました。
良い大学、良い会社に入れば人生は安泰、みたいなことはもうないのです。
 さらに断言すれば、これからの日本はもっともっと厳しい状況になっていく。
良い時代を経験して「逃げ切り」ができる世代であれば、昔はよかったとただ
嘆いていればいいのでしょうが、これから社会に出る世代、もしくはこれから
社会のメインステージに立つ世代にとってみれば、問題は深刻です。
 では、どうすればいいのか? ここで、リベラルアーツの話に戻ります。
人間を自由にする学問がリベラルア↓だという話をしましたが、まさにいま、
それが求められているのです。
 医者の話が良い例ですが、国家試験に合格しただけでは、これからの時代は
生き残れないし、幸せになることもできません。むしろ奴隷として、上の世代が
作ったシステムにからめとられる可能性が高い。それも自分が気づかないうちに。
 だから教養が必要です。自由になるために。自分の力で幸せになるために。
といってもそれは、大学生がパンキョーと呼んでいるものとは違います。
極端に言ってしまえば、大学の教養課程で教えている一般教養は、大学教授を
食わせるためのものでしかなく、本来の意味での「リベラルアーツ」とほど遠い。
 もっと実践的で、実用的な知でなければならない。
ここで、福沢諭吉が著した『学問のすすめ』から一節を引用してみましょう。
まさに私が言いたいことを代弁してくれています。 
 《学問というのは、ただ難しい字を知って、わかりにくい昔の文章を読み、
また和歌を楽しみ、詩を作る、といったような世の中での実用性のない学問を
言っているのではない。(中略)いま、こうした実用性のない学問はとりあえず
後回しにして、一生懸命にやるべきは、普通の生活に役に立つ実学である》
(引用『現代語訳学問のすすめ齋藤孝訳/ちくま新書)
 『学問のすすめ』が刊行されたのは明治5年。新しい時代の幕開けに、明治人
が持つべきメンタリティを説いたこの本は、300万部を超す日本史上最大の
ベストセラーとなりましたが(当時の人口は約3000万人)、いま、既に20年以上
が過ぎたこの平成の世にこそ、そして、そんな時代に生きる若い世代にこそ、
この福沢諭吉のメッセージは伝えていかなければならないでしょう。
そう、まさにいま、実学が必要なのです。医学部生が起業論を学ぶように、
自分にとって必要な学問は何かと考え、探し、選び取るーそういった行為が、
ベーシックなものとならなければなりません。≫
▼『学問のすすめ』は、学生時代に読んだが、これほどベストセラーとは!
 『世間』に対し異常なほど嫌悪感を持つのは、身近な人間関係に取込まれた
奴隷のような絡みとられた視線を感じるため。教養とは、それらから自由に
なるための素養。情報化社会こそ、実学としての教養が必要になる。

つれづれに

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  今日のYoutube
 
 午後からは、シネマに行く予定。
雪のピークは終わったが、寒さはまだまだである。

 



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4721,末期がん、その日のための予習を ー5
2014年02月16日(日)
            ー「末期がん、その不安と怖れがなくなる日」樋野 興夫 (著)
死にいく者を見送るのは辛いが、最も重要なこと! 見送る方も、その経験が自分自身の末期の予習になる。
父が余命一年と身内に宣言され、それを察知した父親の死への不安と恐怖を身近で感じ取った。そして現在、
ほぼ同じ年齢になり、自分にも、同じような事態が、さほど遠くない近未来にやってくる。御陰で、長年かけて
その時に対し、多くの知識を入れてきた。その時は、その時だが、長年かけて積み上げた知識は生きる意味を
学ぶことであった。最後は何もかも失ってしまう人生の残酷さ。これを前提に生きれば、何事も捨身で立向かう
ことが可能だったが?
  * 第四章 だいじな人との貴重な時間
・患者は病気のことを話したがっている ーだから、患者の集まりがにぎわう。
(患者を人間、病気を自分に置き換えられる)
・親しいからこそ話せないことがある  ー「がん哲学外来」も、そのためにある。
(だからがん患者の体験談の本が売れる)
・患者の日常を支えるのは家族 ー死を前にした生への欲求の乾きを満たすのは家族でも無理!
・30分間黙ったままいっしょにいられる関係
ー傍にいるだけで、来てくれるだけで充分。孤独地獄の中、藁をもすがる思い。
・「する」ことより「いる」ことのやさしさ ー御隠居生活の移行は「何かをする」から「世に存在する味わい」へ。
・家族にも見えにくい患者さんの本心 ー当人と、周辺の人との理解は至難の業!割り切るしかない?
・愛しているなら心配するな  ー心配と愛情は違う。家族は、愛情で包むしかない!
・正論が正しいとはかぎらない、ー家に帰りたい!に対し、同じ無理でも、言い方一つで、傷つけない注意を!
・「がんばれ」が患者さんの負担になることも ー「がんばっているのに、がんばれも、変」
・家族の「交替要員」はいない   ーだから、最期まで見送る覚悟を立てるしかない。
・患者を「第一」に考える     ーそのためには、当人にとっての優先順位を考える。
・家族の思いより患者の思い    ーだが、その立場の違いは無限大。
・がんを誰に知らせるかは状況次第 ー患者の立場になって。
・病院への遠慮はいらない     
・病気になる前にしておくことがある ーこの「その日のための予習」は、その最たるもの。
▼ 末期がんのための予習も、変なものだが。とはいえ、その時になってからでは無理。死刑宣告と、ほぼ同じ。
自分一人が、突然、奈落の底に落とされ、絶望と、恐怖に、恐れおののくのである。そこで、人間は神を創作し、
常に共にいてくれ、最後は天国に召されるという物語の刷り込みを数千年にわたり、してきた。
最後は、神様にすがるしかない弱い存在が、知識を持ってしまった人間である。
・・・・・
4354, 書くことが思いつかない人のための文章教室  ー6
2013年02月16日(土)
           「書くことが思いつかない人のための文章教室」近藤 勝重 (著)
   * 感動体験を書く
「言葉にならないほどの感動」は数限りしてきた。言葉にしてないが、感動の場面は脳にシッカリと刻まれて
いるので、 それを言葉に替えて文章にすると、当然よい文章になる。人生を振り返ってみて、自主独立に過ごせた
ことと、感動を目いっぱい経験できたことが、何よりも変えがたい。 ー以下は、そのあたりを纏めたものー
≪ 感動したことを思い出し書きなさい、感動したことは忘れない。高校時代の同窓に小学校の先生をしていた
女性がいます。彼女はやはり「作文は感動したことを書かせることよ」と話していました。子どもならずとも感動
した話というのは、人に話したいという思いが強いものです。感動とは心を動かされること。自分の心が動いたと
いうことは、とりもなおさず「そこに自分がいる」ということです。作文が主として自分自身の表現であることを
考えても、感動体験は最上の題材になる。 感動には二つある。 外からの感動と内から感動です。外からの感動は、
映画をみたりTVでドラマをみたり、本を読んだり、人の話を聞いたりして経験する。もう一つの内からの感動は、
何かに挑戦して得られる感動です。山登りや受験に合格したとか、達成感にかかわるもの。
そこで感動と感激の違いというと、「感動」は大自然の美や映画、絵画など価値のある他者に向けられたもの。
「感激」は入試に合格したとかの自分にかかわること。というと、感激も感動の範疇に重なる。何かに「あっ!」と、
思ったら、そこに自分があると思えばよい。女性初の国会議員の故加藤シズエさんは、一日10回の感動を
モットーにしていた感動人間でした。彼女の対談集に興味深い話が次々と出てくる。「脳というのは不思議なもので、
普段はいちいち覚えたつもりがないことでも、感動して思ったことはどこかの引き出しに入っている。
誰が整理するのか、その脳が整理して必要に応じて出てくる。なまじ、記憶で試験勉強で覚えたより、感動で
覚えることの方が、自分の身につくということ」という。 ≫
▼ 「感動した時に、そこに自分がいる」には、納得する。この在庫を多く持っていると、色いろな引き出しから、
必要に応じあらゆる思い出が引き出せる。感動体験を意識して文章化をしておくことは最重要のことになる。
感動体験の総体が、その人そのものといえる。感動は求めれば得られること。特に大自然の懐で体験できる。
それも、内なる経験は、そこへの旅路の行程を乗り越えて、そこに至った喜び、そして、そこにしかない大自然
美しさの感動が相重なり、至高体験になる。そうこう考えると、まだまだ文章化をしてないことになる。
書くことが無いとは、書く能力が足りないということになる。
・・・・・・
3979, よかまん ー2
2012年02月16日(木)
      「‘11年版ベストエッセイ集’人間はすごいな」 会田誠(美術家)
  ーよかちん節の由来ー
これが??大学の大根踊りレベルだったら別に、そんなものだが、東京芸大の宴芸というから中和される。
それも自分の個展の入口に堂々と、というのも良い。品のないこと?この上ないので人には話すことでないが、
面白さは格別。卑猥な芸?も、書き方一つで抵抗なく読むことが出来る。若い時節の男の性欲は男なら分かるが
異常に強い。それを酒宴で、露骨に踊ってみせるのも一興。 お神楽のヒョットコ踊りに、巨根の棒を振舞わして、
オカメと踊るのを見たことがある。その亜流だろうが、品はないが罪がない。 顔をしかめる人も多いだろうが、
よくぞ・・である。 ー前回の続きからー
≪ 美術大学に代々伝承されてきた宴会芸に「よかちん」というものがあります。僕は今から四半世紀以上昔のこと、
美大の新入生歓迎コンパか何かの席で初めて見たように記憶しています。どんなものかというと、宴もたけなわな頃、
やおら全裸の男が登場し、一升瓶を股間に挟んだまま(だから一応性器は隠している)、手拍子をとりつつ"数え歌"
を歌い始めます。
「一つよかちん、なんじゃいな。ひねれば、ひねればひねるほど、よかちんちん。あ~あよかよか、よかちんちん」
この「ひねれば、ひねればひねるほど」のところで、一升瓶を男根に見立てたアドリブによる(この場合"ひねる")
ゼスチャーが入ります。口述的に受け継がれる芸なので、歌詞のバリエーションは様々なようですが、僕が知って
いるところでは、数え歌は以下のように続きます。
二つー振れば、三つー見れぱ、四つーよじれば、五つーいじれば、六つー剥けば、七つー舐めれば、八つーやれば、
九つー擦れば。そして十でとうとうよかちんちんー と結ばれます。つまりこのような色々な体験をさせれば、
良いチンポ(よかちん)に成長するという、まったくもって脳味噌パーな、でも憎めない庶民的下ネタ芸なわけです。
あと、どうやらルーツが九州ということもあって、九州男児的マッチイズムの匂いもぷんぷんと漂っています。 
学徒出陣で出征する美大生を「よかちル」で送ったという、泣き笑いの昔話をネットで見つけたので、おそらく
戦前からあったものでしょう。浪漫主義華やかなりし明治後期、青木繁など九州出身者が東京美術学校 (現・東京藝大)の
乱痴気騒ぎの飲み会で、郷里のお馬鹿芸を披露して喝采を浴びたーそんな空想を僕はしてしまいますが、もちろん定かでは
ありません。いずれにせ少なくとも僕が美大生だった1980年代後半まで、油絵科を中心に脈々と受け継がれてきました。≫
 ▼ この後の文章に、よかちん節があるなら、よかまん節があってよいだろうと、創作したのが面白い。
私も、品位が邪魔をして?そこまで思いもよらなかった。一升瓶の代わりに、ザルとは・・ とは。 
Youtubeで調べたが、さすがに無かった。  ーつづき
 ・・・・・・・
3614, 哲学は死の練習になるか
2011年02月16日(水)
 * 哲学は死の練習になるか   ー木田元
死についての特集の中に、木田元の文があった。なかなか考えさせられる
  ーまずは、その抜粋からー
≪ 哲学者ハイデガーは『存在と時間』で「自己の死」についてこう述べている。 自己の死は「誰にも替わって
もらうことができないし、誰の助けを借りることもできず、それがくることは確実だが、いつくるのかは決まって
おらず、その先にまわってみることなど決してできない、自己の究極の可能性」なのだ、と。 そしてハイデッガーは、
人間にとって「本来的な生き方」とは、この自己の死を不断に見据え、それに覚悟を定めて生きる生き方、つまり
「死に臨む存在」なのだと主張するのだ。
・・・ 自己の死についてのハイデッガーのこの見方はまことにユニークだが、まるで『はがくれ葉隠』のように、
つねにおのれの死を見据えて生きるというのが、いったいどういう生き方なのか、私にはうまくのみこめない。
自己の死についてのハイデガーのこうした主張に対しては、少し年少のフランスの哲学者サルトルも『存在と無
で異論を唱えている。 彼にとって死は私のすべての可能性を無にし、私の人生からすべての意味を除き去ってしまう、
まったく不条理な偶発事なのである。 彼に言わせると、私の誕生が選ぶことも理解することもできない不条理な
事実であるのと同様に、私の死も、理解したり対処したりすることのできない不条理な事実なのだ。ここで面倒な
議論をする気はないが「自己の死」に関してだけは、私もサルトルに一票を投じたい。こちらの方が私の感じ方に
近いからだ。 ハイデガー自身、『存在と時間』で持ち出した死生観の根にあるのは自分の個人的信念であることを
認め、どんな哲学的思索も、結局こうした個人的信念を出発点にせざるをえないのだと主張していたそうである。
・・・つまり、私たちは生命の大きな流れの中から飛び散った一滴のしずくのようなもので、しばらくはそう
した個体とし生きているが、やがてまた元の大きな流れに引きもどされ、蕩々と流れてゆく。それが個体にとって
の死なのだ、とそんなふうに思うようになってから体調が落ちて、あまり永くは生きられそうもないなという気分
になったときも、それほどジタバタしなくなったような気がする。こうした一種アニミステイックな死生観を整理し
体系化すると神道のようなものになるのではないかと思うのだが、あまり体系化などしない方がよいのかもしれない。
本当に死が間近にせまったとき、肉体的苦蒲のなかでこんなとりすましたことを言っていられるかどうか自信が
ないが、これが今のところ私の死をめぐる想いである。≫
ー以上だが、言葉を持ってしまった人間は、他者の死を身近にみて、自分の死を思い抱くようになった。
死んだ人は、その瞬間に何もないが遺体が残る。それが死と勘違いするから、妄想が起こるのだが、その妄想を
理性で乗り越えようとしても、それも無理の話である。木田元は、滔々と流れていく大河に引き戻されて一滴が
固体の死のイメージを述べているが、毎年同じ木に咲く桜の花とも、それぞれのイメージがあるもの。
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3249, 最近のベーカリー事情
2010年02月16日(火)
  * ベーカリーのファーストフード化
数ヶ月前から週に2~3回は新幹線の改札口に近いベーカリーで通勤途上、昼飯用のパンを買っている。
サンドイッチや、ナンで惣菜を包んだものや、カレーパンなど種類が多くあり、値段の割りに美味しい。
中でも食べられる。300円から500円で済み、外食の半値で済む。他に構内スーパーにある弁当とか、専門店街の
菓子屋が売っているオニギリを買っている。その御蔭か週一も外食に出なくなった。要は気晴らしに出ていた
外食が面倒になったのだ。 ところで、知人が「カテゴリーキラーの外食が新潟郊外の青山に去年の暮れに
オープンした」と話してくれた。
・テイクアウトも、イートイン(店内でも食べられる)も出来るベーカリーで、レストランの
   ような外観と、イートインのできる客席はレストラン風
・ポイントは、コーヒーが無料で、二杯目が20円
・家族3~4人で、1500~1800円で食事のできる店というのが受けている・・・
 その話を聞いて、「ラブラ万代の地下にあるベーカリーが、コーヒー無料にして、その脇にある
   自由食事スペースのテーブルと椅子をレストラン風にした感じ?」というと、その通りという。 
   成るほど、親子三人でパンやミニピザを2~3個ほど食べても、コーヒーが無料なら2000円以下で済む。 
   長岡と新潟の新幹線構内にあるベーカリーで、パンを買った
 (字数の関係でカット12年02月16日)
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2009年02月16日(月)
2874, 成長モデルから 脱成長モデルへ  -2
「規制されたモデル」といえば、戦後日本の20数年の日本経済のモデルが理想であるが、
これは成長モデルそのもの。結局は資本主義経済はバブルの繰り返すしかないのである。その本質は
ネズミ溝であるからだ。その繰り返しの中で、自由と平等を如何に両立させるかという難しい問題は人類の
永遠のテーマと重ねる。突き詰めると、どれもこれも共同幻想でしかない。共同幻想でしか人類はコントロール
できないとすれば、共同幻想の「正・反・合」を繰り返すしかない。更に前回に続いてポイントの部分を抜粋する。
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  *『自由放任的競争』から『規制された競争』
ケインズが終生説いたのは、実は、グローバリズムへの警戒なのである。
『頽廃的で国際的で個人主義的な資本主義が世界をかけめぐり、国内経済を破壊することこそ、
彼は恐れたのである。『それは、知的でなく、美的でなく、公正ではなく、有徳ではない。われわれは
、それを嫌っている。いまやそれを軽蔑し始めている』とさえ彼は書いている。この『資本の気まぐれな浮動』
から、一国の経済を守らなければならない。
(字数の関係でカット11年02月16日)
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2008年02月16日(土) 2
 509, 新・知的生産の技術 -2
好感の持てる人である。東京の知人が言うには「最近、東京では健康を兼ねてスポーツタイプの自転車で
チョットした移動に活用している人が多くなっている。」という話を聞いたばかりなので、成るほどと感心した。
この人の場合は、携帯用のナビまでつけている。ナビは個人の行動まで自由にしているようだ。ここまで電子
機器が発達し、ソフトも高度化したなら、己を空しくして逆に無駄取りをして合理化に徹したほうが良いに
決まっている。その意味で、この本は批判が多いかもしれないが、見習うべきことがあまりに多い。ここまで
グーグルが世界の人たちに支持をされるには、それなりの内容があるはず。 なら、限度のある自分を徹底的に
排除をして、己を空しくして圧倒的なベストに従ったほうが良いという彼女の問いかけが、シンプルで
訴える力がある。
・補助脳としてのパソコン
フォトリーディング親指シフトマインドマップなど、じぶんなりのOSを整え
・アナログとデジタル入力のバランスを使い分け
・マスメディア情報を減らし、実体験、他者体験、良書を三大情報源とする。
・自分以外の感覚器、特に耳をもっと活用する
・そして睡眠はよくとり、運動をよくする
だいたい、これにブログや日記、メモをよく取ること、これが言いたいことである。
大部分が進学にエネルギーの大部分の人が取られているとき、このような合理性で自己研鑽に
勤めれば、そこそこのことが出来ることだ。
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2007年02月16日(金)
2145, 「狂い」のすすめ -2        才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)                              
 この本は「世間」に対する私の鳥瞰視と同じトマリ木の目線である。第一章の「狂い」のすすめは、
「世間を幻覚と割り切ること。その為に自分を狂者と割り切ってしまえばよい。世間は狂っているのだから、
そんなものを元々相手にしなければよい。」私自身の人生を振り返ると、「狂」が一つのキーワードであった。
狂を演じてないと、事業など立ち上げることができない。現状否定が事業の立ち上げの切り口であるからだ。
その辺の二代目が、その「狂」を冷笑しているのをお笑い芸人の目で、その反応を計算している自分の様も
  面白かったが。 現在もそうである・・。いや、狂いが目立たなくなったということか!定年を迎えようと
  している男が急ごしらえの定年後の準備を始めている様はコミックといえばコミックである。「狂」になって
  一度自分を破壊しないと、定年後の第二の人生の構築はできない! その意味で、この本は彼ら向きなのだ
  ろうが、はたして理解できるか?この本では「狂者の自覚」という表現をつかっているが・・・
それまでの人生観を根こそぎ疑って、新しい人生観を構築しないと!それが第二の人生である。
この無自覚な連中を集めて商売にしようと目論んでいる人がいるが、その悪臭は自分では分からないだろ。
でも、その人たちに目先の安らぎを与えるどこが悪いか! という論法も成り立つが! どうでもよいことか。
 この本の中で一番気に入ったのは、ーカタツムリからナメクジへー というところである。
  *そこを抜粋すると*
「カタツムリが旅に出て、ナメクジになって帰ってくる」私たちは常識や既成概念、世間の物差しを持っています。
そういう殻を背負ったカタツムリが旅をするのは、そうした殻を捨てるためです。殻を捨ててナメクジになって
帰ってくる。そうした気持ちでする旅こそ、最高の旅である。たとえば、インドの貧困だって、貧困を悪いものだ
とみるカタツムリでなく、貧困もよいものじゃないかというナメクジの目でみることができれば、素晴らしい旅に
なるはずです。インドの子供の裸足を見て「かわいそうに・・」と思うかもしれませんが、「裸足のどこが悪いんだ、
上等の靴を履かされて、重い鞄を持って塾通いと、裸足でのびのびと遊んでいるインドの子供と、どちらが幸福
なんだ・・・?」とね。 もう一つは ーついでに生きているー である。「‘人生なんぞ無意味である'と言う
のであれば、なんでお前は生きているのか? それなら、生きている価値がないじゃないか」と言うが、その反論
として「人生に意味がないなら、自殺さえ必要ないじゃないか」と反論していた。そのうちにうまい言い方を
考案しました。それは、人間は、-ついでに生きているーという言葉です。
人間に生まれてきて、生まれたついでに生きているだけだ。 別段、それ以上の意味はない。
人生に意味があり、目的があるとしたら、私たちはその目的に向かって邁進したくなります。
そうすると、競走馬的な人生になってしまいませんか。
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まあ、一日一日を切断して、その一日を「日々是好日」と楽しめということだ。
二度とない人生、そして一日である。著者こそ、実際は逆に生きてきたし、現在もそうだろう。
(字数の関係でカット14年02月16日)