つれづれに

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  今日のYoutube
 
 午後からは、シネマに行く予定。
雪のピークは終わったが、寒さはまだまだである。

 



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4721,末期がん、その日のための予習を ー5
2014年02月16日(日)
            ー「末期がん、その不安と怖れがなくなる日」樋野 興夫 (著)
死にいく者を見送るのは辛いが、最も重要なこと! 見送る方も、その経験が自分自身の末期の予習になる。
父が余命一年と身内に宣言され、それを察知した父親の死への不安と恐怖を身近で感じ取った。そして現在、
ほぼ同じ年齢になり、自分にも、同じような事態が、さほど遠くない近未来にやってくる。御陰で、長年かけて
その時に対し、多くの知識を入れてきた。その時は、その時だが、長年かけて積み上げた知識は生きる意味を
学ぶことであった。最後は何もかも失ってしまう人生の残酷さ。これを前提に生きれば、何事も捨身で立向かう
ことが可能だったが?
  * 第四章 だいじな人との貴重な時間
・患者は病気のことを話したがっている ーだから、患者の集まりがにぎわう。
(患者を人間、病気を自分に置き換えられる)
・親しいからこそ話せないことがある  ー「がん哲学外来」も、そのためにある。
(だからがん患者の体験談の本が売れる)
・患者の日常を支えるのは家族 ー死を前にした生への欲求の乾きを満たすのは家族でも無理!
・30分間黙ったままいっしょにいられる関係
ー傍にいるだけで、来てくれるだけで充分。孤独地獄の中、藁をもすがる思い。
・「する」ことより「いる」ことのやさしさ ー御隠居生活の移行は「何かをする」から「世に存在する味わい」へ。
・家族にも見えにくい患者さんの本心 ー当人と、周辺の人との理解は至難の業!割り切るしかない?
・愛しているなら心配するな  ー心配と愛情は違う。家族は、愛情で包むしかない!
・正論が正しいとはかぎらない、ー家に帰りたい!に対し、同じ無理でも、言い方一つで、傷つけない注意を!
・「がんばれ」が患者さんの負担になることも ー「がんばっているのに、がんばれも、変」
・家族の「交替要員」はいない   ーだから、最期まで見送る覚悟を立てるしかない。
・患者を「第一」に考える     ーそのためには、当人にとっての優先順位を考える。
・家族の思いより患者の思い    ーだが、その立場の違いは無限大。
・がんを誰に知らせるかは状況次第 ー患者の立場になって。
・病院への遠慮はいらない     
・病気になる前にしておくことがある ーこの「その日のための予習」は、その最たるもの。
▼ 末期がんのための予習も、変なものだが。とはいえ、その時になってからでは無理。死刑宣告と、ほぼ同じ。
自分一人が、突然、奈落の底に落とされ、絶望と、恐怖に、恐れおののくのである。そこで、人間は神を創作し、
常に共にいてくれ、最後は天国に召されるという物語の刷り込みを数千年にわたり、してきた。
最後は、神様にすがるしかない弱い存在が、知識を持ってしまった人間である。
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4354, 書くことが思いつかない人のための文章教室  ー6
2013年02月16日(土)
           「書くことが思いつかない人のための文章教室」近藤 勝重 (著)
   * 感動体験を書く
「言葉にならないほどの感動」は数限りしてきた。言葉にしてないが、感動の場面は脳にシッカリと刻まれて
いるので、 それを言葉に替えて文章にすると、当然よい文章になる。人生を振り返ってみて、自主独立に過ごせた
ことと、感動を目いっぱい経験できたことが、何よりも変えがたい。 ー以下は、そのあたりを纏めたものー
≪ 感動したことを思い出し書きなさい、感動したことは忘れない。高校時代の同窓に小学校の先生をしていた
女性がいます。彼女はやはり「作文は感動したことを書かせることよ」と話していました。子どもならずとも感動
した話というのは、人に話したいという思いが強いものです。感動とは心を動かされること。自分の心が動いたと
いうことは、とりもなおさず「そこに自分がいる」ということです。作文が主として自分自身の表現であることを
考えても、感動体験は最上の題材になる。 感動には二つある。 外からの感動と内から感動です。外からの感動は、
映画をみたりTVでドラマをみたり、本を読んだり、人の話を聞いたりして経験する。もう一つの内からの感動は、
何かに挑戦して得られる感動です。山登りや受験に合格したとか、達成感にかかわるもの。
そこで感動と感激の違いというと、「感動」は大自然の美や映画、絵画など価値のある他者に向けられたもの。
「感激」は入試に合格したとかの自分にかかわること。というと、感激も感動の範疇に重なる。何かに「あっ!」と、
思ったら、そこに自分があると思えばよい。女性初の国会議員の故加藤シズエさんは、一日10回の感動を
モットーにしていた感動人間でした。彼女の対談集に興味深い話が次々と出てくる。「脳というのは不思議なもので、
普段はいちいち覚えたつもりがないことでも、感動して思ったことはどこかの引き出しに入っている。
誰が整理するのか、その脳が整理して必要に応じて出てくる。なまじ、記憶で試験勉強で覚えたより、感動で
覚えることの方が、自分の身につくということ」という。 ≫
▼ 「感動した時に、そこに自分がいる」には、納得する。この在庫を多く持っていると、色いろな引き出しから、
必要に応じあらゆる思い出が引き出せる。感動体験を意識して文章化をしておくことは最重要のことになる。
感動体験の総体が、その人そのものといえる。感動は求めれば得られること。特に大自然の懐で体験できる。
それも、内なる経験は、そこへの旅路の行程を乗り越えて、そこに至った喜び、そして、そこにしかない大自然
美しさの感動が相重なり、至高体験になる。そうこう考えると、まだまだ文章化をしてないことになる。
書くことが無いとは、書く能力が足りないということになる。
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3979, よかまん ー2
2012年02月16日(木)
      「‘11年版ベストエッセイ集’人間はすごいな」 会田誠(美術家)
  ーよかちん節の由来ー
これが??大学の大根踊りレベルだったら別に、そんなものだが、東京芸大の宴芸というから中和される。
それも自分の個展の入口に堂々と、というのも良い。品のないこと?この上ないので人には話すことでないが、
面白さは格別。卑猥な芸?も、書き方一つで抵抗なく読むことが出来る。若い時節の男の性欲は男なら分かるが
異常に強い。それを酒宴で、露骨に踊ってみせるのも一興。 お神楽のヒョットコ踊りに、巨根の棒を振舞わして、
オカメと踊るのを見たことがある。その亜流だろうが、品はないが罪がない。 顔をしかめる人も多いだろうが、
よくぞ・・である。 ー前回の続きからー
≪ 美術大学に代々伝承されてきた宴会芸に「よかちん」というものがあります。僕は今から四半世紀以上昔のこと、
美大の新入生歓迎コンパか何かの席で初めて見たように記憶しています。どんなものかというと、宴もたけなわな頃、
やおら全裸の男が登場し、一升瓶を股間に挟んだまま(だから一応性器は隠している)、手拍子をとりつつ"数え歌"
を歌い始めます。
「一つよかちん、なんじゃいな。ひねれば、ひねればひねるほど、よかちんちん。あ~あよかよか、よかちんちん」
この「ひねれば、ひねればひねるほど」のところで、一升瓶を男根に見立てたアドリブによる(この場合"ひねる")
ゼスチャーが入ります。口述的に受け継がれる芸なので、歌詞のバリエーションは様々なようですが、僕が知って
いるところでは、数え歌は以下のように続きます。
二つー振れば、三つー見れぱ、四つーよじれば、五つーいじれば、六つー剥けば、七つー舐めれば、八つーやれば、
九つー擦れば。そして十でとうとうよかちんちんー と結ばれます。つまりこのような色々な体験をさせれば、
良いチンポ(よかちん)に成長するという、まったくもって脳味噌パーな、でも憎めない庶民的下ネタ芸なわけです。
あと、どうやらルーツが九州ということもあって、九州男児的マッチイズムの匂いもぷんぷんと漂っています。 
学徒出陣で出征する美大生を「よかちル」で送ったという、泣き笑いの昔話をネットで見つけたので、おそらく
戦前からあったものでしょう。浪漫主義華やかなりし明治後期、青木繁など九州出身者が東京美術学校 (現・東京藝大)の
乱痴気騒ぎの飲み会で、郷里のお馬鹿芸を披露して喝采を浴びたーそんな空想を僕はしてしまいますが、もちろん定かでは
ありません。いずれにせ少なくとも僕が美大生だった1980年代後半まで、油絵科を中心に脈々と受け継がれてきました。≫
 ▼ この後の文章に、よかちん節があるなら、よかまん節があってよいだろうと、創作したのが面白い。
私も、品位が邪魔をして?そこまで思いもよらなかった。一升瓶の代わりに、ザルとは・・ とは。 
Youtubeで調べたが、さすがに無かった。  ーつづき
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3614, 哲学は死の練習になるか
2011年02月16日(水)
 * 哲学は死の練習になるか   ー木田元
死についての特集の中に、木田元の文があった。なかなか考えさせられる
  ーまずは、その抜粋からー
≪ 哲学者ハイデガーは『存在と時間』で「自己の死」についてこう述べている。 自己の死は「誰にも替わって
もらうことができないし、誰の助けを借りることもできず、それがくることは確実だが、いつくるのかは決まって
おらず、その先にまわってみることなど決してできない、自己の究極の可能性」なのだ、と。 そしてハイデッガーは、
人間にとって「本来的な生き方」とは、この自己の死を不断に見据え、それに覚悟を定めて生きる生き方、つまり
「死に臨む存在」なのだと主張するのだ。
・・・ 自己の死についてのハイデッガーのこの見方はまことにユニークだが、まるで『はがくれ葉隠』のように、
つねにおのれの死を見据えて生きるというのが、いったいどういう生き方なのか、私にはうまくのみこめない。
自己の死についてのハイデガーのこうした主張に対しては、少し年少のフランスの哲学者サルトルも『存在と無
で異論を唱えている。 彼にとって死は私のすべての可能性を無にし、私の人生からすべての意味を除き去ってしまう、
まったく不条理な偶発事なのである。 彼に言わせると、私の誕生が選ぶことも理解することもできない不条理な
事実であるのと同様に、私の死も、理解したり対処したりすることのできない不条理な事実なのだ。ここで面倒な
議論をする気はないが「自己の死」に関してだけは、私もサルトルに一票を投じたい。こちらの方が私の感じ方に
近いからだ。 ハイデガー自身、『存在と時間』で持ち出した死生観の根にあるのは自分の個人的信念であることを
認め、どんな哲学的思索も、結局こうした個人的信念を出発点にせざるをえないのだと主張していたそうである。
・・・つまり、私たちは生命の大きな流れの中から飛び散った一滴のしずくのようなもので、しばらくはそう
した個体とし生きているが、やがてまた元の大きな流れに引きもどされ、蕩々と流れてゆく。それが個体にとって
の死なのだ、とそんなふうに思うようになってから体調が落ちて、あまり永くは生きられそうもないなという気分
になったときも、それほどジタバタしなくなったような気がする。こうした一種アニミステイックな死生観を整理し
体系化すると神道のようなものになるのではないかと思うのだが、あまり体系化などしない方がよいのかもしれない。
本当に死が間近にせまったとき、肉体的苦蒲のなかでこんなとりすましたことを言っていられるかどうか自信が
ないが、これが今のところ私の死をめぐる想いである。≫
ー以上だが、言葉を持ってしまった人間は、他者の死を身近にみて、自分の死を思い抱くようになった。
死んだ人は、その瞬間に何もないが遺体が残る。それが死と勘違いするから、妄想が起こるのだが、その妄想を
理性で乗り越えようとしても、それも無理の話である。木田元は、滔々と流れていく大河に引き戻されて一滴が
固体の死のイメージを述べているが、毎年同じ木に咲く桜の花とも、それぞれのイメージがあるもの。
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3249, 最近のベーカリー事情
2010年02月16日(火)
  * ベーカリーのファーストフード化
数ヶ月前から週に2~3回は新幹線の改札口に近いベーカリーで通勤途上、昼飯用のパンを買っている。
サンドイッチや、ナンで惣菜を包んだものや、カレーパンなど種類が多くあり、値段の割りに美味しい。
中でも食べられる。300円から500円で済み、外食の半値で済む。他に構内スーパーにある弁当とか、専門店街の
菓子屋が売っているオニギリを買っている。その御蔭か週一も外食に出なくなった。要は気晴らしに出ていた
外食が面倒になったのだ。 ところで、知人が「カテゴリーキラーの外食が新潟郊外の青山に去年の暮れに
オープンした」と話してくれた。
・テイクアウトも、イートイン(店内でも食べられる)も出来るベーカリーで、レストランの
   ような外観と、イートインのできる客席はレストラン風
・ポイントは、コーヒーが無料で、二杯目が20円
・家族3~4人で、1500~1800円で食事のできる店というのが受けている・・・
 その話を聞いて、「ラブラ万代の地下にあるベーカリーが、コーヒー無料にして、その脇にある
   自由食事スペースのテーブルと椅子をレストラン風にした感じ?」というと、その通りという。 
   成るほど、親子三人でパンやミニピザを2~3個ほど食べても、コーヒーが無料なら2000円以下で済む。 
   長岡と新潟の新幹線構内にあるベーカリーで、パンを買った
 (字数の関係でカット12年02月16日)
・・・・・・・・・
2009年02月16日(月)
2874, 成長モデルから 脱成長モデルへ  -2
「規制されたモデル」といえば、戦後日本の20数年の日本経済のモデルが理想であるが、
これは成長モデルそのもの。結局は資本主義経済はバブルの繰り返すしかないのである。その本質は
ネズミ溝であるからだ。その繰り返しの中で、自由と平等を如何に両立させるかという難しい問題は人類の
永遠のテーマと重ねる。突き詰めると、どれもこれも共同幻想でしかない。共同幻想でしか人類はコントロール
できないとすれば、共同幻想の「正・反・合」を繰り返すしかない。更に前回に続いてポイントの部分を抜粋する。
~~ 
  *『自由放任的競争』から『規制された競争』
ケインズが終生説いたのは、実は、グローバリズムへの警戒なのである。
『頽廃的で国際的で個人主義的な資本主義が世界をかけめぐり、国内経済を破壊することこそ、
彼は恐れたのである。『それは、知的でなく、美的でなく、公正ではなく、有徳ではない。われわれは
、それを嫌っている。いまやそれを軽蔑し始めている』とさえ彼は書いている。この『資本の気まぐれな浮動』
から、一国の経済を守らなければならない。
(字数の関係でカット11年02月16日)
 ・・・・・・・・・
2008年02月16日(土) 2
 509, 新・知的生産の技術 -2
好感の持てる人である。東京の知人が言うには「最近、東京では健康を兼ねてスポーツタイプの自転車で
チョットした移動に活用している人が多くなっている。」という話を聞いたばかりなので、成るほどと感心した。
この人の場合は、携帯用のナビまでつけている。ナビは個人の行動まで自由にしているようだ。ここまで電子
機器が発達し、ソフトも高度化したなら、己を空しくして逆に無駄取りをして合理化に徹したほうが良いに
決まっている。その意味で、この本は批判が多いかもしれないが、見習うべきことがあまりに多い。ここまで
グーグルが世界の人たちに支持をされるには、それなりの内容があるはず。 なら、限度のある自分を徹底的に
排除をして、己を空しくして圧倒的なベストに従ったほうが良いという彼女の問いかけが、シンプルで
訴える力がある。
・補助脳としてのパソコン
フォトリーディング親指シフトマインドマップなど、じぶんなりのOSを整え
・アナログとデジタル入力のバランスを使い分け
・マスメディア情報を減らし、実体験、他者体験、良書を三大情報源とする。
・自分以外の感覚器、特に耳をもっと活用する
・そして睡眠はよくとり、運動をよくする
だいたい、これにブログや日記、メモをよく取ること、これが言いたいことである。
大部分が進学にエネルギーの大部分の人が取られているとき、このような合理性で自己研鑽に
勤めれば、そこそこのことが出来ることだ。
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2007年02月16日(金)
2145, 「狂い」のすすめ -2        才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)                              
 この本は「世間」に対する私の鳥瞰視と同じトマリ木の目線である。第一章の「狂い」のすすめは、
「世間を幻覚と割り切ること。その為に自分を狂者と割り切ってしまえばよい。世間は狂っているのだから、
そんなものを元々相手にしなければよい。」私自身の人生を振り返ると、「狂」が一つのキーワードであった。
狂を演じてないと、事業など立ち上げることができない。現状否定が事業の立ち上げの切り口であるからだ。
その辺の二代目が、その「狂」を冷笑しているのをお笑い芸人の目で、その反応を計算している自分の様も
  面白かったが。 現在もそうである・・。いや、狂いが目立たなくなったということか!定年を迎えようと
  している男が急ごしらえの定年後の準備を始めている様はコミックといえばコミックである。「狂」になって
  一度自分を破壊しないと、定年後の第二の人生の構築はできない! その意味で、この本は彼ら向きなのだ
  ろうが、はたして理解できるか?この本では「狂者の自覚」という表現をつかっているが・・・
それまでの人生観を根こそぎ疑って、新しい人生観を構築しないと!それが第二の人生である。
この無自覚な連中を集めて商売にしようと目論んでいる人がいるが、その悪臭は自分では分からないだろ。
でも、その人たちに目先の安らぎを与えるどこが悪いか! という論法も成り立つが! どうでもよいことか。
 この本の中で一番気に入ったのは、ーカタツムリからナメクジへー というところである。
  *そこを抜粋すると*
「カタツムリが旅に出て、ナメクジになって帰ってくる」私たちは常識や既成概念、世間の物差しを持っています。
そういう殻を背負ったカタツムリが旅をするのは、そうした殻を捨てるためです。殻を捨ててナメクジになって
帰ってくる。そうした気持ちでする旅こそ、最高の旅である。たとえば、インドの貧困だって、貧困を悪いものだ
とみるカタツムリでなく、貧困もよいものじゃないかというナメクジの目でみることができれば、素晴らしい旅に
なるはずです。インドの子供の裸足を見て「かわいそうに・・」と思うかもしれませんが、「裸足のどこが悪いんだ、
上等の靴を履かされて、重い鞄を持って塾通いと、裸足でのびのびと遊んでいるインドの子供と、どちらが幸福
なんだ・・・?」とね。 もう一つは ーついでに生きているー である。「‘人生なんぞ無意味である'と言う
のであれば、なんでお前は生きているのか? それなら、生きている価値がないじゃないか」と言うが、その反論
として「人生に意味がないなら、自殺さえ必要ないじゃないか」と反論していた。そのうちにうまい言い方を
考案しました。それは、人間は、-ついでに生きているーという言葉です。
人間に生まれてきて、生まれたついでに生きているだけだ。 別段、それ以上の意味はない。
人生に意味があり、目的があるとしたら、私たちはその目的に向かって邁進したくなります。
そうすると、競走馬的な人生になってしまいませんか。
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まあ、一日一日を切断して、その一日を「日々是好日」と楽しめということだ。
二度とない人生、そして一日である。著者こそ、実際は逆に生きてきたし、現在もそうだろう。
(字数の関係でカット14年02月16日)