* 寅さん、プーチンスターリンに問いかけ
神様: 熊さんの望み通り、プーチンスターリンを、スペシャルルームに
   招いておきましたよ。次は、トランプ大統領と、ケネディを予定して
   いるがね。
熊さん: まさか実現するとは思ってもいなかったが、仮想会見としても。
   相手がね。といって、神様の特別の計らいだからね、誠実に聞くよ。
   敬語など使えないので、普段どおりだけど、断っておくね。
神様: そうだね、お前さん一人じゃ無理ですか。じゃあ、大家さんを呼ぶよ。
熊: プーチン大統領、いま、アメリカのロシア疑惑というのは本当ですか。
プーチン: 私も、当のトランプも、まさか大統領に当選するとは思っても
   いなかったさ。でも万一と思って、自分たちでは出来ない情報工作を
   頼んで来たのさ。聞いた時は、まさかと思ったけどね。
大家: 事実でなければ、FBIの長官や、今度は副長官が、早々に辞めないよ。
プーチン: もう、当分は、世界はワシのようなもんさ。
スターリン: 何か、私を参考にしているようだが。お前さんに私のように
   非情になって自国民を殺せますか。
プーチン: 中東では、ISを手当たり次第に殺しましたよ。それとチェチェン
   でも。今度は、アメリカと北朝鮮の相討ちを狙っているが… 今では
   虐殺現場がカメラビデオに映しだされるんで、殺り辛いんですよ。
   北朝鮮アメリカ、いいところまで来ているですがね。上手くいき、
   中国の参戦で相討ちともなれば、理想的ですがね。
熊: 何か居た堪れなくなってきたけど… で、開戦の結果は分かっている
   戦争じゃないですか。一般の人が気の毒じゃないの。
大家: 金様にしろ、プーチンにしろ、自分が弾丸の中の悲惨な経験をして
   ないので、現実の悲惨さが解ってないの。
熊: そんなのが大統領なの。 
スターリン: 1000万、2000万を殺したところで、麻痺をしてしまえば、
   何てことはないよ。まだまだプーチンは、柔いよ。ワシのつくった
   ソ連邦を解体されて。何じゃい。敵はアメリカ連邦の解体だよ。
神様: お前らを見ていると、神でいることが嫌になるよ。
熊: 本当に戦争になるの? 東京にミサイルを打ち込まれると、一瞬に
   して80万人が死ぬというけど。それと、難民問題もあるしね。
大家: これが大変だよ。 中国じゃ、3ヶ所の難民収容所を想定し、
   万一の備えを考えているらしい。 中東、アフリカの、欧州への
   難民問題と同じことが、今度は極東で起こるんだ。
プーチン: ズブの素人が突然大統領になるんだから… バカな話さ。
スターリン: ワシが聞いても恐いよ。大統領は、プロ中のプロがなるもの。
   あの顔からして、相応しい指導者ではないね。 どうなってるの?
プーチン: 正直なところ、ワシも、同じ考え。8年にわたった黒人大統領と、
   女の国務大臣に、世の中の冴えない白人層が腹を据えかねていたからさ。
   としても、娘婿の援助の依頼には驚いたよ。 アメリカを見ていて、
   民主主義の建前ほど変なのはないね。
スターリン: やっちまえ、今の内、二度とないソ連邦解体の復讐の機会だよ。
神様: 何で、こんな男を、呼出してしまったのか? プーチンの思惑を
   聞きたかったので、これはこれで… 二人とも、トリックスターじゃ
   ないか。それも陰湿、露悪の。 熊さんよ、現在の平和は、仮の姿。
   もう、動き出したの。その辺の計らいを読み取って大家さんにばかり
   頼らないで、自分の頭で考えなさい。白鳥もいれば、黒鳥もいる。
プーチン: 日本っていうのは、この72年間、軍備を蓄積していたのは流石。
   生真面目過ぎるけど、侮れないんだ。 北朝鮮なぞ誰が相手にするか。
大家: 貧しさを国民に強要してきた国は、国家として卑しいのは当然。
   まともな正論は通じないの。

▼ 寒さの中でのライブの内容のため、悲観的になったが、スターリンの参加
 を思い立ったのは我ながら驚いた。「陰惨で、残酷で、疑り深い」人物と
いうが、プーチンも似たようなもの。 彼の前のトランプなど赤子そのもの。
この数ヵ月は、過ってないほど緊迫した事態が続くことになるのだろうが… 
 
 〜で、これまた6年前の以下に、脈絡として丁度よく繋がっていくr。
 ・・・・・・
3968, 民主主義への疑問 ー2
2012年02月05日(日)             
 * 明治元年五箇条の御誓文 「民主主義とは何なのか」長谷川三千子
【 たとえば自国が経済危機に陥っているからといって、若者たちがデモをし、
 店や車を壊して為ばれるという海外ニュースを、われわれはよく目にする。
愚かしいかぎりの行動であるが、民主主義イデオロギーに即していえば、彼らは
正しいふるまいをしているのである。指導者に対する不信と敵意を破壊的な
行動によって示すのは、近代民主主義の出発点をかざるフランス革命以来の
偉大なる伝統だからである。民主主義が本質的にかかえ込んでいるこうした
愚しさを克服して、かくも厄介な民主主義をなんとかうまく使いこなす方法は
ないものだろうか? 考えてみれば、「国民の、国民による」政治という形
それ自体は、活気にみちた健康的な国家をっくり上げてゆくうえで不可欠な
ものともいえる。国民自身が意欲を失い、やる気をなくした国家に、
「国民のための政治」が実現するはずはない。・・明治元年の五箇条の
御誓文には、そのエッセンスともいうべきものが簡明に表現さきじている。
 一、広ク会議ヲ興シ万機公論二決スヘシ
 一、上下心ヲ一ニシテ盛二経編ヲ行フヘシ
 一、官武一途庶民二至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
 一、旧来ノ随習ヲ破リ天地ノ公道二基クヘシ
 一、智識ヲ世界二求メ大二皇基ヲ振起スヘシ
 ここでまず注目すべきところは第二条である。 
この「経論」という言葉は、もともとは政治を指して使われる言葉であったが、
ここではむしろ経済活動に重点を置いて使われている。つまり指導者も国民も、
すべて心を合わせて、政治・経済の活動に積極的にかかわろう、ということ。
あたり前の呼びかけとも思える。政治であれ経済であれその他何であれ、上も
下も心を一つに合わせておこなわなければ、よい仕事はできないのである。
しかし今みてきたとおり、この「上下心ヲ一ニシテ」ということは、まさに
民主主義が捨ててしまった心構えである。その意味で、実はこれは極めて
根本的な民主主義批判ともなっている。】
▼ 日本の近代の始まりの明治元年に立ち返り日本の誇りを取り戻すことが必要。
 一条の「公論」の心構えこそ、この非常時に求められること。相手の論を叩き
潰すのでなく、危機を乗り越えるための論でなくては。目標が明確であれば、
公論が可能になる。声をだして、何度も読んでみたが、なる程、そのとおり。
現在の日本は壊滅状態、これを第二の敗戦とみるなら、近代日本の精神を、
 この御誓文として新たな第一歩とすべき、という著者の論も納得する。 
 ・・・・・・
5075,強みを生かす
2015年02月05日(木)
  * 強み生かす ー無駄な努力はダメ―  
 ドラッカーのマネジメントの法則に「自分の強み生かす」がある。
この「強みを生かす」について、ネットで簡潔にまとめてあった。
≪ 卓越した仕事を生き生きしている人がいる。彼は単に有能な働き者
 ではない。自らの強みを知り、自らの属する場所を得た人がゆえと、いう。
誰でも、自らの強みはについてはよくわかっていると思っている。だが、
たいてい間違っている。気づいているのは、せいぜい弱み。それさえ間違って
ることが多い。しかし何ごとかをなし遂げるのは、強みによってである。
弱みによって何かをおこなうことはできない。どうすれば自らの強みを知る
ことができるか。ドラッカーは、フィードバック分析しかないと言う。
 ドラッカー自身が五十年以上続けてきた方法だ。方法は簡単。まず何かを
することを決めたら、「自分はそれに何を期待するか」を記録しておく。
そして九ヵ月〜一年後に、自分が期待した内容と実際の結果とを比較。
フィードバック分析により、強みを生かすために行うべきことが明かになる。
?成果を生み出す強みに集中する
?誰にでも学べる技能や知識は身に付ける
?専門馬鹿にならない
?成果を挙げるうえで邪魔になっている悪癖は仕事ぶりは直す
?人への対し方、礼儀はわきまえる
?苦手の分野の仕事は引き受けない
?努力しても並にしかなれないことはしない
              ―(プロフェッショナルの条件』)≫
▼ ポジティブ思考は、ただ楽観的だけでなく、己の強みを生かすことで、
 ものごとをプラスに発展させる。幸せは、己の得意分野を生かしている
状態とすると納得できる。「得手に帆を揚げ」、フィードバックをする。
御隠居生活の強みは、「好きなことだけをして、嫌なことをしないで済むこと」
で、因業になっていくが、それで良い。まずは周囲に迷惑をかけないことだ。
・・・・・・
5805,なぜ日本人は世間と寝たがるのか ―読書日記 2
2017年02月05日(日)
      <なぜ日本人は世間と寝たがるのか: 空気を読む家族
                         佐藤 直樹 (著) >
  * 「世間」の4つのルール
 世間をまとめると、《細かいカースト制度にならった差別意識の状況下で、
中元・歳暮、旅行先の御土産、貰い物の御裾分けなどのやり取りの中で、個人
の顔をひた隠す。建前は平等原理を引合いに、法事や祝い事などは大安などを
引合いにして物事を進める極く普通の人たち》になる。これを否定すると、
日本社会では、非常に生きづらくなる半面、アウトサイダーに徹すれば、
それなりに生きていける。その代償として(大変な人)のレッテルをはられる。
 それに惑わされたくなけらば、自分の事業を立上げて、その中で唯我独尊で
生きるしかない。ただ、事業が傾くと、ふくろ叩きにあう。元もと、その接点
を最小にしておけば、馬耳東風で受流すことが可能。 要するに「世間とは
寝なければよい」だけのこと。父親は、『カス』の一言で切捨て、全く、気に
しない風にしていた。他人とのラインを家族に引いていた明治男の典型。
   〜その辺りの要約を抜粋〜
≪ 歴史学者の阿部勤也は、「世間」のルールには主要に4つあるとする。
 ☆贈与・互酬の関係(中元お歳暮などのお返し、)、
 ☆身分制(年齢にこだわる、英語ではブラザー・シスターであり、
  兄・姉を区別しないし、相手が大統領でも二人称はユーだ)、
 ☆共通の時間意識(個人の時間意識が存在せず、人間平等意識で能力差を
  認めない、皆一緒という同調圧力)、
 ☆呪術性(クリスマス、盆の墓参り、お払いなど、信心深くはあるが特定の
  宗教を信じるわけではなく、根底にはアニミズム自然宗教の類がある)
  1 贈与・互酬の関係
 お中元やお歳暮が良い例。
相手との関係や上下関係を考慮して内容に差をつけるのも特徴的です。西洋には
プレゼントの習慣はありますが、贈与や互酬を習慣として行うことはありません。
メールにしてもそうです、送った以上は相手もそれに返答しなければいけないと
いう暗黙のルールがあり、LINEだと「既読スルー」などと揶揄されて気疲れする
原因にもなっていますね。日本人にはこのように「こちらがこれだけのことを
したのだから、相応の返礼があって然るべき」という考え方を持っているようです。
  2 身分制
 憲法第14条で法の下の平等を謳っているにも関わらず、色々なカーストがまかり
通っているのが現状です。スクールカースト、学歴偏重、ママカースト、部落差別
などなど。表には出さなくとも、そのような差別意識が法律よりも強い影響力を
持っているのが日本の世間です。つまり憲法がタテマエになってしまっている。
西欧でももちろん差別はありますが、この場合は法的に「人権」を掲げて戦うこと
ができます。個人が厳然と存在して「法の下の平等」が根幹をなす社会だからです。
しかし、日本は世間が強烈な影響力を持っている。だから、実質差別があっても、
それを覆すのが難しいのです。
  3 共通の時間意識
 出る杭は打たれる、ということです。
極論を述べれば日本人に「個人」はいません、これは西欧から輸入されて強引
に訳した言葉であります。みんな同じ時間を共有している、だから一人だけ
違うことをするのは許されない、みんな同じであるべきだという思想ですね。
能力差を認めないのも特徴的です。誰かが努力の末に結果が出なかったとしても
「運が悪かった」として、決して「劣っていた」とは認めない。人間には本来、
能力や才能の差があるものです。しかし、日本ではそれを周りにひけらかしては
いけないという「人間平等主義」が支配的です。皮肉なものです、これほど
あからさまに「身分制」が渦巻く世間で、表面的に平等を謳うのですから。
これでは多くの人が良く分からなくなり、病んでいくのも頷けます。
  4 呪術性
 合理的根拠のないルールが多いです。
大安に結婚式を挙げ、引っ越しを避け、友引に葬儀を執り行うことをしません。
大きな建物を建築する際には土地の神様に祈りますし、地鎮祭もする。
日本は先進工業国の中でも、異様に多数の古いものを保存する唯一の国。
合理的に説明のつかない俗信・迷信の類を尊重するのです。法律ではこのように
決まっているから、というのは「社会」という概念が醸成された文化でのみ通用
することであり、世間のルールが世の中を支配する日本では通用しません。
法律よりも呪術が強い影響力を持っている。
 西欧では、このような俗信迷信の類、呪術性をとうの昔に否定しています。
一神教多神教の違いも大いに影響しているようです。日本独特のアニミズム
がこのような土壌を形成しているのでしょう。    ≫
――
▼ 一定量の経験と知識が人生には必要と最近、つくづく実感する。そこから、
 知恵とか、新たな経験、知識が生まれ出る。 世間様から内実を隠し、目立つ
ことなく無難に人生を過ごすことが、生きやすいのが娑婆。そうこういうが、
世間にしろ、社会にしろ、理解していると思いこんでいる妄想がベースにある。
その妄想度合いの高いのが世間人ということ。誰もかれもが、妄想の分厚い
レンズを通して外界をみている自覚がないだけ。せめて自覚を持たないと!
 ・・そういうこと。
・・・・・・
4343,閑話小題  ーテレビの現状と未来 
2013年02月05日(火)
 先週金曜日のNHK・60周年記念「テレビの未来」について千人アンケートを
しながらパネラーが討論する番組が面白かった。NHK以外の各局のディレクター
も参加していたが、内容は冒頭からシビア。「現在のテレビはツマラナイ、
面白くない」と、街頭インタビューが辛口のものばかり。その上にTVを持たない
人や、不満の多さに各局のディレクターは言葉を失っていた。
無くて困るものの第一がパソコンで47%、携帯が24%で、テレビが22%
には驚いた。これではテレビがパソコンに凌駕された結果になる。 私の場合、
「未来型のTV」を買い替えて二年半になるが、見るのは殆どが録画したものか、
再放送のもの。「テレビが面白くなくなった」「無くても困らない」という
街頭での意見が多いが、私は逆で、「スマートテレビ」に買換えて、バカ
みたいだが、俄然に面白くなった。地デジの全番組を30時間分を自動的に
録画してしまう。ゴールデンタイム19時から24時までを設定すると、
6日間分の全チャンネルが自動的に録画される。それを週間のテレビ欄をみて、
面白そうな順に見る。2〜3日に一本の割合で面白いのが必ずある。 
設定無しだと、全地デジの30時間分が自動録画され、時間が過ぎたものは
自動的に消去される。これに面白そうなBSの旅番組やWoWoWを録画しておけば
見切れないぐらいの面白い番組がストックされる。どんどん録画をし、どんどん
除去する。だから「面白くない番組がない」というのは、面白い番組を見逃して
いることに彼らは気づいていないだけ。 実際、テレビに嵌るのは良くないのは
分かるが、面白いものは面白い。その上に、パソコンでも、TVでも、Youtubeなど
の投稿録画を見ることが出来る・・ ネットゲームを知らない人と気ままに
遊びたくなってきた。 で、再びパソコン教室に通う時期が来たようだ。
居間では横にiPadを置き、TVドラマの合間にネット・サーフィンかゲーム。
ますます馬鹿になっている。 大馬鹿ならよいが、中馬鹿のようだから、
どうもこうも! 最近の話題はTVの内容が多いか。
・・・・・・・・
5439,人生で最も大切な技術 ー?
2016年02月05日(金)
       『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
   * 憎しみ
 5年前の節目から、この方、聞こえよがしの言葉を多く投げつけられた。
これも帰り矢かと凝視すると、その憎悪は共同幻想で作られた魔物に誘発
された当人自身の猛毒。周りまわって本人への返り矢になっている。2〜3年
以内に8〜9割の確率で、本人か、連れ合いにネガティブな事態が起きている。
不幸な人間の性で、共同幻想の媒体を通して当人自身に猛毒が発するため。 
で、残りの1〜2割は? 聞こえてこないだけ!と思えば心が晴れる。
 自分の人生、境遇の不遇の憎しみの毒、その血の投げかけの対象探しに
目を凝らし、何時の間に「鬼の形相」の「ネガティブ3、ポジティブ1」
のマイナーに陥ってしまった人の憎しみは、何とも? 
  〜その辺りから〜
≪ 憎しみは、心の猛毒である・・あらゆる大量殺数、あらゆる人間の尊厳
 に対する攻撃の駆動力となる。誰かに打たれたら、本能的に打ち返す。
それ故に人間社会は、正義の御旗の元に、文化度に応じたさまざまなレベルで、
復権を構成員に与えている。通常の場合、寛容、赦し、攻撃者の状況に対する
理解などは、任意の選択と解釈される。犯罪者は自分の憎しみの犠牲者である、
と考えることは滅多にない。 復讐願望とは、基本的に、攻撃者が攻撃する
ときと同じ感情に由来している、ということを理解するのは稀だろう。
一人の憎しみが他者の憎しみを生じさせる限り、敵意、恨み、報復そして
苦しみの悪循環は永遠に断ち切れない。「憎しみに対して憎しみをもって
報いる限り、憎しみは消えることはない」は、釈迦の教えである。したがって、
流れ続ける思考から憎しみの感情を排除することが、幸福の旅への決定的な
第一歩となる。
 ネガティブな怒りは憎しみの芽生える前兆。この怒りは、衝動に従い、他者
の幸せを一切省みず、セルフの要求を遮る者を誰かれなく乱暴に追い払おうと
する。この怒りは、セルフが脅かされるときに感じる敵意、あるいは、セルフ
が傷つき、軽蔑され、無視されたときに感じる恨み、等の形で表れる。
 悪意は、憎しみより暴力的ではないものの、相当に油断がならないものだし、
同じくらい破滅的である。悪意は、直接または遠まわしなやり方で、誰かに
害を加えようとする願望と行為であり、煽られると憎しみに変わることもある。
 憎しみは、対象の欠点を誇張し、美徳を無視する。アーロン・ベックはこう
表現している。「認識と思考が偏る、万力のように心をぎゅうぎゅうと締め
つけ、実際上または想像上の脅威に反応する。この堅固な枠が心を牢獄にし、
我々を煩わせる憎しみと暴力の主な原因となる」。
 心が恨みと憎悪にどっぷり漬かると、幻想の中に閉じこもり、自分が
何にも満足できない原因がすべて心の外側にあると確信する。 人間は、
不当に扱われている、脅かされている、といった認識を持つと、個人または
集団のネガティブな側面にのみ焦点を当てるようになる。・・≫
▼ 5年前、直ぐに反応してきた共通点が、「人生に充実感」が持てないと
思しき人々。「幸福な人には、幸福なことが擦り寄ってくる」の真逆の人達。
それが見て取れるため、平然としていられる。嫌うから嫌われるのは分かって
はいるが、卑しいのは・・ そういう人を父は「下衆」と、割切っていたが。
ポイントは、閑静の「閑」の塀を、時間をかけ自分(木)の周囲にめぐらし、
内側を綺麗にしておくこと。 泥棒がいても、門は出入自由に。〜で、以下に〜
・・・・・・
4710,閑話小題 ー遺体の生ゴミ化 
2014年02月05日(水)
 * 献体という死体処理 ー日経新聞2011〜「上手な逝き方」嵐山光三郎
 現在、遺体の生ゴミ化が問題になっている。20年以上前だが、姉の一人が、
「私が死んだら、自分の遺体を大学病院に献体する手続きをとった。
葬式は無しだから悪しからず」と宣言。何か呆気にとられた思いだった。
75歳で健在だが、その後、撤回したかどうかは分からない。
当時、思い切った決断だったのだろうが、時代は、大きく変わったようだ。
先日、借りてきた随想集に最近の献体事情があった。
《 いま、大学病院への献体が増えて、病院が困っているという。
 献体医学生が解剖実習に利用するものだが、解剖したあと、遺族に連絡
すると「お骨はいりません」といって引きとりにこない。献体という名の遺体
処理である。斎場でも「遺骨はいりません」という遺族が増え、火葬場が
合同の収納施設へ入れる。遺体は生ゴミ化した。墓場も火葬場も足りない。
東京では夢の島へ散骨する計画が申し込まれている。海への散骨、樹木葬
骨をパウダーにする。骨壷に骨をいっぱいつめるのは時代おくれだ。
高齢化社会で死亡者が増えると火葬場の能力を超えた遺体数となり、遺体を
保存する冷凍庫も足りない。さあ、どうするか。この半年間で五回の葬儀へ
行ったが、火葬場でお経もあげずにすます直葬が二回あった。火葬のみの
遺体処理である。ただ、棺の中には花が埋められ、遺体の顔には美しい化粧が
ほどこされている。大村さん(関西学院大学教授、僧侶)は、いまの死に化粧は
アメリカ流儀のエンバーミングで、ベトナム戦争で死んだ兵士をドライアイス
に詰めて本圃へ帰すころから流行した。死人を生きている人のように化粧する
エンバーマーという職業かある。真宗では死体を化粧をせずに、頭を剃り、
遺体から色も欲もみな抜け出して、この世の未練をすべて捨て浄土へ行かせる。
生きているような化粧をしたら、この世への執着が残る。 大村さんに
そういわれると、たしかにそうで、「はよ向うへ行きなさい」
と成仏させるために、エンバーミングなんてしない。・・・》
▼ ネットで遺体の日本人感を調べると、以下のような考え方に出会った。
【精神と肉体の混同、未分離の日本人の死生観が最も露骨に出る。
冬山で遭難死しても、キリスト教なら「霊は去っている。遺体自体はそっと
その場に眠らせておけばいい」・・というのが日本人には「罰当たり」になる。 
精神、霊と肉体、遺体との混同、未分離の考えが習俗の建前となるとき、
極度の遺体自体の重視となる。】
 葬式は、遺体を火葬にする前の家族による当人を見送る儀式。
一神教の場合、天国の神のみもとへ召されるが、無神教に近い日本人は、
それぞれの心の中で生きるという思いがある。そのため、焼かれる直前まで、
生ゴミと分かっていても美しい姿であることが、必要になる。
結局、残るのは写真と言葉と三代残る?資産だけ。

つれづれに

イメージ 1

他のブログ
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 今日のYoutube

 雪もピークを過ぎたようだが、まだ積雪がありそうだ。




・・・・・・
・・・・・・

5439,人生で最も大切な技術 ー⑲
2016年02月05日(金)
       『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
   * 憎しみ
 5年前の節目から、この方、聞こえよがしの言葉を多く投げつけられた。
これも帰り矢かと凝視すると、その憎悪は共同幻想で作られた魔物に誘発
された当人自身の猛毒。周りまわって本人への返り矢になっている。2~3年
以内に8~9割の確率で、本人か、連れ合いにネガティブな事態が起きている。
不幸な人間の性で、共同幻想の媒体を通して当人自身に猛毒が発するため。 
で、残りの1~2割は? 聞こえてこないだけ!と思えば心が晴れる。
 自分の人生、境遇の不遇の憎しみの毒、その血の投げかけの対象探しに
目を凝らし、何時の間に「鬼の形相」の「ネガティブ3、ポジティブ1」
のマイナーに陥ってしまった人の憎しみは、何とも? 
  ~その辺りから~
≪ 憎しみは、心の猛毒である・・あらゆる大量殺数、あらゆる人間の尊厳
 に対する攻撃の駆動力となる。誰かに打たれたら、本能的に打ち返す。
それ故に人間社会は、正義の御旗の元に、文化度に応じたさまざまなレベルで、
復権を構成員に与えている。通常の場合、寛容、赦し、攻撃者の状況に対する
理解などは、任意の選択と解釈される。犯罪者は自分の憎しみの犠牲者である、
と考えることは滅多にない。 復讐願望とは、基本的に、攻撃者が攻撃する
ときと同じ感情に由来している、ということを理解するのは稀だろう。
一人の憎しみが他者の憎しみを生じさせる限り、敵意、恨み、報復そして
苦しみの悪循環は永遠に断ち切れない。「憎しみに対して憎しみをもって
報いる限り、憎しみは消えることはない」は、釈迦の教えである。したがって、
流れ続ける思考から憎しみの感情を排除することが、幸福の旅への決定的な
第一歩となる。
 ネガティブな怒りは憎しみの芽生える前兆。この怒りは、衝動に従い、他者
の幸せを一切省みず、セルフの要求を遮る者を誰かれなく乱暴に追い払おうと
する。この怒りは、セルフが脅かされるときに感じる敵意、あるいは、セルフ
が傷つき、軽蔑され、無視されたときに感じる恨み、等の形で表れる。
 悪意は、憎しみより暴力的ではないものの、相当に油断がならないものだし、
同じくらい破滅的である。悪意は、直接または遠まわしなやり方で、誰かに
害を加えようとする願望と行為であり、煽られると憎しみに変わることもある。
 憎しみは、対象の欠点を誇張し、美徳を無視する。アーロン・ベックはこう
表現している。「認識と思考が偏る、万力のように心をぎゅうぎゅうと締め
つけ、実際上または想像上の脅威に反応する。この堅固な枠が心を牢獄にし、
我々を煩わせる憎しみと暴力の主な原因となる」。
 心が恨みと憎悪にどっぷり漬かると、幻想の中に閉じこもり、自分が
何にも満足できない原因がすべて心の外側にあると確信する。 人間は、
不当に扱われている、脅かされている、といった認識を持つと、個人または
集団のネガティブな側面にのみ焦点を当てるようになる。・・≫
▼ 5年前、直ぐに反応してきた人の共通点が、「人生に充実感」が持てないと
思しき人々。 「幸福な人には、幸福なことが擦り寄ってくる」の真逆の人達。
それが見て取れるため、平然としていられる。嫌うから嫌われるのは分かって
はいるが、卑しいのは・・ そういう人を父親は「下衆」と、割切っていたが。
ポイントは、閑静の「閑」の塀を、時間をかけ自分(木)の周囲にめぐらし、
内側を綺麗にしておくこと。 泥棒がいても、門は出入自由に。


・・・・・・
2863, アメリカ発 世界自動車危機 -2
2009年02月05日(木)

 この番組で、電気自動車を取り上げていたが、脱化石燃料の流れ加速しそうだ。自動車の心臓
部分はガソリン・エンジンだが、それが電気モーターに変わると、これまでの自動車の概念が変る。
・「自動車が電気商品になってしまう」のである。現在一台あたり3万点の部品が、2万点で済む。
・前部のエンジン・スペースが、大幅に減ってしまうのである。
・更にガソリンエンジンのため、車体は鉄と決まっていたが、電気モーターの場合は熱を持たない
 ために、プラスチックやカーボンも可能になり、軽量化が劇的に進み、エネルギー効率も良くなる。
・電気は家庭のコンセントからでも充電可能になり、結果としてガソリンスタンドは激減。
・これまでのような原油値上がり、即ガソリン代の高騰の構図はなくなる。

これからの10年間は、部品メーカーを含めた劇的な産業構造の転換が起こる。
ガソリンエンジンなどの部品メーカーは、存在そのものが問われるのである。
いや既存メーカーの存在意義も問われるのである。 既存のシステムが逆に重荷になる。電気エンジン
となれば、電機メーカーはお手のもの。 冷蔵庫を作るように気楽に自動車産業に参入可能になる。 
そのため原油の需要が劇的に減る反面、原子力水力発電や、太陽光や風車などの自然のエネルギーを使用
発電に重心が移動することになる。 自動車産業はビックスリーの壊滅と同時に産業構造の大転換期に
入ってしまった。トヨタを含めた既存大手の存在意義が根こそぎ問われる時代になった、ということだ。
そのキッカケが、この金融恐慌だったのである。 大きな時代の変わり目は、エネルギーの転換期が必ず
起こってきた。 石油などの化石燃料から、他の燃料への転換期になったのである。 
オバマ大統領は、それを政策として掲げているから正論を掲げ、正道を進もうとしているのだが・・・
その前に、米国産軍共同体か、石油メジャーに暗殺される可能性が大。
トヨタパナソニックに吸収合併される日が来るかもしれない。 その前に変身出来るかだが??
 現在のトヨタ炎上をバネに出来るかどうかにかかるが、時代がそれを待ってくれるかどうかだ。

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2008年02月05日(火)
2498, 無くてはならぬもの -6
 Ⅴ 一度だけの人生 ―どこに根を張るかー

 P-196
他人とばかり比べないで世界中に、私はたった一人しかいないんだ、とかけがいのない自分という存在と
いうことを、もういちど、しっかり見出してほしい、と。あなた方の人生は誰にも代わってもらうことは
できないし、しかもそれは二度と繰り返すことができない一度限りの人生なのだ。それが本当にわかって
ないと、人生をどう生きるか、という問題は、真剣に考えていくことができない。
 p-199
たとえどんな小さな仕事でも、自分が一生をかけてやりとげる、そういう人生の目的を見出してほしい。
そうして二度と戻ってこない一日一日を、そのことに打ち込んでゆく。それは無限の希望なのである。
天才とは、努力をする人間なのである、といった人がいる。私たちの個性というのは、何かに生涯を通して
何かに打ち込んでいく、そういう努力を通して形成されていくもの。あなたは社会的に成功しなくてもよい。
自分がやりたい事を一度かぎりの人生に打ち込んで努力してみたらよいではないか。
そのことに10年打ち込んでみたらどうか。その道ではエキスパートになるだろう。
一流大学を出ているなど、誰も問題にはしない。どんな小さなことでも、これが自分がしたいことを
生涯を通して行えば、世界のために何か貢献することができるのである。それで途中で倒れることが
あっても、一日一日を、そういう仕事にうちこんでいれば、人生はそれで良いのではないだろうか。
 P-202
亡くなった和辻哲郎が若いときに書いた「樹の根」というエッセーを思い出す。「偶然再興」の中に
収められ文章であるが、「・・・ある時、砂に食い込んだ松の木の複雑な根を見守ることができた。
地上と地下姿があまりにも違っていたのである。楽しそうに葉先をそろえた針葉と、それに比べて
地下の根は。戦い、もがき、苦しみ、精一杯の努力をしつくしたように、枝から枝と分かれて、乱れた
女の髪のごとく、地上の枝幹の総量より多いと思われる太い根、細い根を無数にもって、いっせいに
大地に抱きついている。私は、こういう根があることを知っていた。しかしそれを、目の前にまざ
まざと見たときに、思わず驚異の情に打たれぬわけには行かなかった。
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「順境には枝を張れ、逆境には根を張れ」という言葉があるが、当時、この「樹の根」のエッセーの
言葉が心の支えであった。個性とは、自分が人生をかけて打ち込んだ中でこそ生まれるもので、むしろ
逆境の中でこそ形成される。38年ぶりに読み返してみたが、私にとって「人生を支えてくれた三冊の本」
の一冊であった。実は読み返して今、気づいた。それでは他の二冊は何か? 近々に取り上げてみようか。
大本教出口王仁三郎の本と、新約聖書である。

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2007年02月05日(月)
2134, 時間についての一考察 -1
    b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪

最近ますます哲学づいている。今日は「時間」について考えてみる。その中で「いま、ここ」
-現在ーの意味が深い。考えてみても解ったような解らないような難しい問題である。「いま、ここ」
という永遠への控えの間?には非常に深遠な光と陰を感じる。 感動した瞬間、感激した瞬間、そして
心の奥底から感謝した瞬間、怒り心頭に達した瞬間、人を殺してやりたい位に憎んだ瞬間、そのどれも
自分を構成している骨組みである。その時々のことは、ほぼリアルに記憶に残っている。
その瞬間・瞬間は、過去・未来ではなく「その時点での今・現在」に経験したことである。
我々が経験することができるのは、この今・現在しかない。その時点の一秒前でも後でも絶対に
ありえないこと。その「今・現在」を現に考えている間にボロボロと過去に過ぎ去っていく。
しかし未来はあるのかといえば、「それはあるだろう」という想像でしかない。砂時計の落ちていく
細い部分を「今・現在」という例えがあるが、それはあくまでも砂時計でしかない。時間に関しては、
「哲学はこんなふうに」(スポンヴィル)の中の『第10章 時間』で次のように述べている。
 ==
・・・抵抗も創造も行動も、現在においてしかー現在のほかには何もないのだからー
なされえず、現在の後にはまた別の現在が続くだけである。
ストア哲学者が言うように、いまに生きることは夢想でも理想でもユートピアでもない。
これこそが、生きるということのきわめて簡単であると同時に、はなはだ厄介な真理なのだ。
永遠はどうなるのか?アウグスティヌスが考えたように、永遠とは「永遠の今日」のことであるなら、
明日のために永遠を待つのは無意味になる。これも、アウグスティヌスの言葉だが、永遠とは
「永遠の現在」のことであるなら、それは現在そのものであるだろう。なにしろ実際、つねに現在
であり、つねに顕在的であり、常に活動していることこそが、時間の真理なのだから。
 スピノザは「エチカ」の中でこう述べていた。「我々は自分たちは永遠であると感じ、体験している」。
これは、我々が死なないという意味でも、我々が時間の中にいないという意味でもない。これが言わん
としていることは、死は我々から何一つ奪い去るものではなく(死んだ我々から奪い取るのは、存在
していない未来だけなのだから)、時間も我々から何一つ奪い去るものではなく(現在がすべてなのだから)、
最後に永遠を希望するのはばかげているー我々はすでにそこにいるのだからーということである。
ウィゲンシュタインが彼なりの言い方でこう言っている。
「もし永遠ということで、終わりなき持続でなく無時間を考えるなら、現在を生きるもの永遠の
生を持っていることになるだろう」。そうであるならば、我々は全員いつでも永遠の生をもっており、
すでに救われているのだ。・・・
   ==
少し難しそうな話だが、常に現在しかないし、現在考えている過去も、未来も、それを現在考えて
いるという意味で現在に含まれる。永遠とは「永遠の現在」のことで、その永遠は常にその時点の
現在の中にこそある、ということ。この辺りが時間を考える意味で一番面白いところである。 
いま・ここを、さらに次回に抜粋をしながら考えてみる。
                               b(^o^)ノ バイ!
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2006年02月05日(日)
1769, 閑話小題
   ー エ!まさかー

先月の末の話になるが、長岡のある料理屋が閉鎖をしたと朝日新聞の新潟版に別枠で大きく取り
扱われていた。店主が店の2Fで心不全で亡くなっていたのが翌日になって発見されたとか。
戦前(この言葉も古いが)から七十数年も続いた店で、両親に何度か連れられていった記憶が鮮明
に残っている。タンシチュウや、エビフライなど独特の味付けだった。昨年の暮れ、家内とその店の
向かったが途中で吹雪いたため、駅前の居酒屋に入ってしまった。一昨夜、長岡で飲んだおり居酒屋
とスナックでその話をしたところ、自?という。4~5軒まわった店では全員がそのことをしっていた。
いま殿町では、その話でモチッキリという。どの店も不景気で他人事でないだけに身に沁みるという。
有名な飲食店が数年前に店主が病死をして閉店をしたのも、実は自?だったとか、あの店も、その店の
誰かも、実をいうと??で・・、そのほとんどが借金苦だったという。これだけ災害が続けばお客の
足が遠のくのもわかるが。
              
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2005年02月05日(土)
1404, 立花隆の旅について

この人の本を読むと、その博学と行動力の凄さに驚きざるを得ない。深い人間洞察を何気なく言って
のける。長年かけた知識構築の結果といえば、それまでだが。人間洞察を旅を通して語っているから
尚のこと解りやすい。人生は旅であるからだ。今回借りてきた、「思索紀行」-ぼくはこんな旅を
してきたの序論のなかの「旅と人間について」の次の文章でもいえる。ーすべての人の現在は、結局、
その人の過去の経験の集大成としてある。その人が過去に読んだり、見たり、聞いたりして、考え、
感じたすべてのこと、誰かと交わして印象深い会話のすべて、心のなかで自問自答したことのすべてが、
その人の最も本質的な現存在を構成する。考えた末に、あるいは深い考えなしにしたすべての行動、
その行動から得られた結末に対して反省や省察を加えたすべて、あるいは獲得されたさまざまの反射
反応が、その人の行動パターンを作っていく。人間存在をこのようなものと捉えるとき、その人の
全ての形成要因として旅の持つ意味の大きさがわかるだろう。日常に支配された、パターン化された
行動の繰り返しからは、新しいものは何も生まれては来ない。知性も感性も眠り込むだけだろう。
意欲行動も生まれては来ない。 人間の脳は、知情意のすべてにわたって、ルーチン化されたものは
いっさい意識の上にのぼらせないで処理できるようになっている。そして、そのように処理されたものは、
記憶にもされないようになっている。 意識の上にのぼり記憶されるのは、新奇さの要素があるもの
だけなのだ。旅は日常性からの脱却そのものだから、その過程で得られたすべてが新奇の要素を持ち、
記憶されると同時に、その人の個性と知情意のシステムにユニークな刻印を刻んでいく。
旅で経験するすべてのことがその人を変えていく。その人を作りかえていく。旅の前と後では、
その人は同じ人であり得ない。旅の意味をもう少し拡張して、人の日常生活ですら無数の小さな旅
の集積ととらえるなら、人は無数の旅の、あるいは「大きな旅の無数な構成要素」がもたらす小さな
変化の集積体として常住不断の変化をとげつつある存在といってよい。
 ーー
以上であるが、人間と旅の本質をズバリ言い当てている。旅行に行って帰ってくると、それまでの
自分とは別人になったような感覚になる。行った先の自然や文明文化から受けた感動によるものだ。
旅行で感動した幾つかが、自分の人生の魂の奥に沈んで、人生の大きな骨格になっている。そして
一回行った旅行は、それぞれが今も現実的に続いている。TVや書物で、その後も多くの疑似体験が
できるからだ。何処かしら週に2~3回は情報媒体を通して、その続きの経験をしている。
この随想日記も、過去の出来事、考えたこと、経験の集積ぶつを拾い上げ書き出している。 
汲んでも汲んでも尽きることなく出てくる。

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2004年02月05日(木)
1037, 「わたしは悪い不動産屋」  
 読書日記-1

本屋で何回も立ち読みをしていたが、ついに買ってしまった。知り尽くしている私が読んでも、
面白いのだから素人は是非読むことを勧めます。こと不動産業界に関しては、一般の素人は非常に
用心すべき世界である。最近よく目にするマンションでAP?とかいうマンションがあるが、
知る人ぞ知る危ない典型の??である。建設業界やマンション業界すべてを、素人なら危ない世界と
認識しておくべきだ。内装の一枚内側の設備などは、どうなっているか解らない。会社は何処も火の車、
何時潰れたもおかしくないのが内情。彼等はどこで手を抜くか、目に見えない配管とかの隠れたところ
しかない。その結果は、買って10年~20年経ってから欠陥として出てくるから始末が悪い。
間違いなく10年~15年で五分の一以下に確実になるのに20~30年ローンで買わされている。
無知そのものが罪だというが、露骨に自分に帰ってくる世界である。マンションを10年前に買った人の
いまの相場を聞いてみればよい。殆どが5分の1以下である。ファッションの服やバックは、一年経てば
五分の一である。コストからみると、買った瞬間2分の1である。本人もそれでよいと納得した買って
いるので、それはそれでよい。それと同じ感覚でマンションや住宅を買ってしまうことが問題なのである。
新興のマンションメーカーはファッションマンションとして割り切ってお客の無知を狙っているのだ。
それが消費者の意向ならそれでよいと。酷いといえば酷いが、飛びつく無知も無知である。
  以下はホームページから調べた概要である。   ー つづく
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 のっけから意表をつくタイトルだが、実際にはない土地を売るなどのいわゆる地面師みたいな本当に
悪い不動産屋なら、捕まって免許剥奪、不動産屋も解雇である。 従って、この本で扱うのは、
あくまで合法の範囲で、どのように不動産屋がインチキ臭いことをするのかといった話である。
(字数の関係でカット2009年2月05日)
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2003年02月05日(水)
672,嘆きの部屋

・高校同級の土田氏が入院でわずか3週間で亡くなった。 食道がんで肺に転移もう末期だったという。
 一瞬で地獄の底に突き落とされた恐怖は言語に絶するものだったろう。「病院には嘆きの部屋」があると
 モッケイクラブを事務所の部屋で開いていた時に、看護学校の末期医療専門の女の先生が話してくれた
 ことがあった。
・絶望のその気持ちや混乱を大声で喚くことで静める防音の部屋がどこの病院にもあるという。 
 もう他人事ではない年齢だ。 それまで生きてきた全ての人生を圧縮した時間が流れるという。
 キュ-プラー・ロスという「死ぬ瞬間」という本を出している死の見取りを専門にしてきた人が、
 その本で究極の死を受け入れの心理過程を書いている。確かまずは拒否、怒り、取引ー自分との、受容。
・父が死ぬまでの一年間、しっかりとその時間の中でそのプロセスをみた。
 生への渇望ーその砂漠の真ん中に一人取り残された生への渇きの極限状態だ。 その時父に
「昔の哲学者がー本人にとって死はない!という話をした。 死んだ瞬間それは自分でないから、
 生きている限り自分の死は存在しない。存在するのは他人の死だけだーエピクロス」と。
 父がその時ホッとした顔で「死について初めて解ったような気がした」と答えた対話が鮮明に残っている。 
 それまでの父の口癖は「死んでしまえばそれまでよ!」であった。
・死ぬのは仕方がないことである。ただ後悔をして死にたくない!いや、後悔したっていいじゃないか、
 死んでしまえば全て無なのだから。 生まれる時も独り、死ぬ時も独り。生きている時も独りだ。
 ただ忘れているだけでしかない。考えてみれば、生まれる前の状態に戻るだけ。
 誰もが生まれる前の状態と、死んだ後の状態が生きている時でも取り囲んでいる。
 寝ている状態はその際に戻っているのだろう!
                        以上、死のおさらいでした!
 ・・・・・・
 2002年02月05日(火)
 322、一人旅 ー「北海道」編

「北海道一周、九州一周、紀伊半島能登半島」と、けっこう経験しているが、世界一周の一人旅の経験はない。
人見知りするためか、どちらかというと「一人旅」は苦手だ!といって振り返ってみると結構経験をしていた。
若い時の一番人見知りの時期ほど旅をしているのは、若さのエネルギーか?そのいくつかを書いてみよう。
今回は北海道である。大学の4年の時である。今でいうと自己逃避か、はやまた気取りか。いやそうしなくては
ならない「自身の何か?」であった。かっこよく言えば行き詰った自己打開ということだったのか?
といって、それほど無理した旅行でなかった!殆ど記憶に残ってないが、確か列車の乗り継いで青森へ!
そして連絡船で函館?そして札幌、釧路、根室、知床、網走と汽車を乗り継いだ。書いていていて、
多くのことを思い出してきた。世界への一人旅へ出なかったのが悔やまれる?いや当時はまだ無理だったのか?
あの時何故日記を書かなかったのか?書いておけばよかった!
何か何処かの山の上によじ登り、尾根を歩いたのを思い出した!
一人に対して何の寂しさとか、不安は何もなかった?いやあったが忘れてしまったのか?
函館の函館山から見た夜景を鮮明に思い出した。屈斜路湖摩周湖、層雲峡と・・・・
一応振り返ってみると、やるべき時にやるべき事はやっていたようだ。
30数年たって、この旅行を初めて振り返ってみた。行方不明のアルバムに写真が残っている筈だが。
青春時代はいつも大きい壁があった。その為フラストレーションが
マグマのように溜まっていた。それがエネルギーになっていたのだろう。

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2月5日 
1969年
11時に「価格理論」の試験であった。あれだけ必死の勉強をしたが、満足がいかなかった。
帰りは、川崎と一緒だった。帰寮後は、今日の試験のショックでやる気が起きない。
いや、昨日のこともあるか。産関論の試験勉強をする。あまり熱が入らない。
しかし途中から集中ができた。の中でヤマをかけたが、どうなるか分からない。気持ちは刹那的である。