* 何? アメリカ 世も末かい!
 日本国の事実的宗主国が、隠れ極右の泡沫男に交替したら、どうなる? 
気違いに刃物とは、このこと。これでは 今年は去年よりも大荒れになる。 
去年が英国のEUからの離脱と、米国の泡沫候補トランプの大統領の選出。
その裏に、ロシアのプーチンの策謀があったというから…お粗末もいいとこ。
オバマが80点なら、20~30点程度の泡沫を大統領に選ばせたのだから
米国も地に落ちたもの。 ちなみに、小ブッシュは40点。
支持をした中・下層の白人が一番、圧迫されるというのに…これは歴史的惨事。
まずトランプが不動産屋ということ。長期ビジョンが少しはあるが、実業家の
本能で、目先の実績を優先する習性が染みついている。その上に平気で嘘をつく。
世界政治を大きく左右するアメリカ大統領には最も向いてない人物。それさえ
理解できないのが中・下層の白人の程度。低劣なハリウッド映画並の物語の
様相である。まず年末まで重大な隠された問題が出てくる? それもプーチン
の仕掛けで…? 来年の夏までは持たない? 二流俳優上りのレーガンは、
レーガノミクスで対応したが、後始末が、それは大変だった史実がある。
  * 大相撲が始まった
 大相撲が始まったが、この数年、腕白相撲上りの個性的な力士が出てきた。
「正代」が関脇に、「遠藤」に加えた「北勝湖」と「御嶽海」が上位に顔を並べ、
新潟出身の「小柳」が十両上位に上がってきた。これに小兵力士の数人が加わる。
昨年末の全日本相撲選手権、全日本学生相撲選手権を見ると、モンゴル人、腕白
上りの将来性のあるのが何人かいる。 腕白相撲上りは、子供頃から基本が叩き
込まれている。しかし、大陸系のモンゴル人と骨格が違う。 
 ところで、目先の今場所はどうなる? 白鵬が本命?。相撲に対する姿勢が
他とは圧倒的に違う。ただ強いだけでなく、強靭の精神力・人間力があるが、
土俵年齢が賞味期限を超えている。それにつけても、女子供のファンが多い。

・・・・・・
5414,閑話小題 = 寒い朝〜つれづれなるままに
2016年01月10日(日)
   * 寒い朝〜つれづれなるままに 
☆ 北朝鮮が、再び核実験をおこなったが、水爆ではなさそうだ。
 今のところ不明だが、年明け早々、イラン、アラブの国交断絶や、
世界的の株式の暴落などを含めて世界は更に混沌としてきた。
米国大統領の最後の年もあって世界の混乱に拍車がかかる年になる。
☆ ロシア、中国、欧州、米国の、どこから発火しても、その火の手
 は一瞬に世界を駈け回る。原油も暴落、30ドルを割りそうな気配。
ロシア、中東など資源で潤ってきた国々も、これで資金が不足すると、
それが戦争やテロの火種になって難民を輩出する。
☆ 積雪、多ければ多いで大変だが、無ければ無いで、水の循環に
 狂いが出る。オゾン層の破壊による地球温暖化は深刻だ。
☆ 年賀葉書が例年どおり、毎年、差出した人から、そのまま届いた。
 現役時代は個人宛てが70通位だったが、今では50数通に減った。
☆ 小学校時代の恩師から、『自分史』が送られてきた。
 30年前に頂いた個人史は18pの小冊子だが、これは、一冊の本。
先生の信条は、「話すより、手紙を書く」で、筆や、ペンでスラスラと
書かれた手紙は、それだけで、一つの作品のようである。 私は、
この随想日記を墓場と見立てて、個人史的なことも書いている。
分類が項目が、目次にして、駄文を切取って、構成すれば、本になる。
 まず母親の残した『自分史』を送ろうかどうか? 思案中!
☆ 今日から大相撲が始まる。一時、熱が冷めていたが、不祥事後は、
 ガチンコ勝負の徹底で人気を回復させている。
人気回復に、若い女性の取り込みを戦略にしたこともあるが、観客席に、
その姿が少なく、中年女性が目に付く。

・・・・・・
5049,生と死をめぐる断想  ー3
2015年01月10日(土)
   * 死に対する恐怖 ー岸本英夫氏の場合
 宗教学者の故・岸本英夫氏が、東大教授であったアメリカ滞在中の1954年に
悪性の皮膚癌のが発見され、余命数ヶ月と宣言され、10年にわたる闘病生活で、
常に死を見つめてきた。〜『死を見つめる心―ガンとたたかった十年間』から
≪「人間にとって何より恐ろしいのは、死によって今持っている『この自分』
の意識がなくなってしまうこと。 死の問題を突き詰めていくと、それが
『この今意識している自分』が消滅することを意味すると気がついた時、
人間は愕然とする。 これは恐ろしい。何よりも恐ろしいことである。
身の毛がよだつほどおそろしい。死後の生命存続ということが、煎じつめると、
その一点にかかっている。何とかして、「この自分は」いつまでもその個体意識
をもちつづけうるということが確かめられればと願う。 これが近代的来世観。
 しかし、どうであろう。死によって肉体が崩壊すると、感覚器官や神経系統も
消滅する。脳細胞もまったく自然要素に分解してしまう。生理的構造が何もなく
なった後で、「この自分」という意識だけが存在することが可能だと考えようと
するのは、相当に無理がある。これは近代においても、人によって、その見解の
異なるところがあるように思われる。私自身、はっきりいえば、そうしたことは
信じることはできない。そのような考え方はどうも、私の心の中にある合理性が
納得しない。私の心の中の知性は、そう考える。≫
▼ 世界中の宗教を研究する岸本英夫。「世界の生命が何らかの形で死後も続く
と主張するところが共通する」が、そう信じて死んでいくことに否定しないが、
彼自身は、それを受けいれることが出来なかった。 死によって、肉体が崩壊
すれば、脳細胞も消滅する。生理的構造が無くなれば、「この自分」の意識
だけが残るというのは相当無理があるのではと。死後の世界を否定するのは
苦痛を伴う。その結果、自分がどこに行くかを問わない、というもの。
死後の生はないと決め、人間が与えられている今、この命だけと思い定めて、
「この自分」が確かに存在している生の期間に集中する。身の毛がよだつ
死の恐怖も、充実感に溢れる生き方をしていれば克服できると、彼は言う。
 その後、死は「別れのとき」という考えに到達する。人間が別れを経験し、
耐えることができた別れの、より大きく全体的なものだと。 そこまで、
心が到達して、平安を得る。私自身、父親の「生命飢餓状態」を、一年間、
身近で見ていて、父親が、煩悶の中で教えてくれた人生と、その結末。
【元気なうち、生きているうちが花! 死んでしまえば、それまでよ!
ただひたすら毎日を楽しめ!】に、深く納得する。死んで花見ができようか!
 で、以下の一年、二年前の文章につづく! 偶然だが、そういうこと。
・・・・・・
4684, 偶然からチャンスを見つけだす能力 ー2
2014年01月10日(金)
         〈ー偶然からモノを見つけだす能力ー沢泉 重一 (著) 〉 
   * 私の体験例より・・
 偶然からチャンスを見出した経験は人生を長く生きてくれば、誰もが
多かれ少なかれ持っている。その偶然に出会うのは、節目の極限状況が多い。 
新潟の駅前から150Mほど離れている角地の更地70坪で、さて何か事業を
始めようかと考えた。その直前まで実家の衣料品ディスカウントの本店を
任されていて、二ヶ月に一度の割で東京、高崎、名古屋、岐阜、大阪、広島
などの産地に仕入れに行ってビジネスホテルに4年半ほど宿泊をしていた。
その顧客経験から、新潟駅前の格安ホテルなら必ず成功すると思い至った。
おりしも上越新幹線が部分開通が始っていた。34年も前のことである。
以前より、何かに捨身で無我夢中にエネルギーを集中すると、そのプロセスで
他の何かをつかみ取れる経験をしていた。卒業後、ジャスコに一年勤務。
考えるところがあって産能大編入した時も同じである。その時、千葉郊外の
姉の家に居候をして自由が丘に通っていたが、姉が家から車で20分離れた
新興住宅地の一角を将来の貸家のために買っていた。千葉県住宅供給公社が
開発、販売のため、一般の半値近い。そのため何倍かの希望者があるため、
公開の会場で抽選会が行われ、その場で次々と当選が決まる。それには
条件があって、二年半以内に建物を立てないと公社に強制的買戻し条件がある。
それもあって、地区ごとに、団地が住宅建設が見られる。ある朝、何気なく
新聞広告をみると、その五万人ほどの住宅地のド真ん中の商業地の販売広告が
載っていた。そこで、姉に「これは買いだと思う!申し込みをして当たれば
儲けもの、どうだろう?」と話すと、「当たってからの物種。当たったら、
父親に借金をすればよい。とにかく申し込んでみたら」と言う。
時は、高度成長期の真っ只中。団地の一等地である商業地の「角地と、隣」
二箇所を、早速、申し込んだ。物件の倍率は、角地が十五倍、その隣は三倍。
抽選当日、会場の抽選会に行ったが、何となく角地の隣は抽選に当たる!
予感がしていた。そして、当選。 外れても当選者の辞退が出た場合、
次点の人に権利がある方式。「これで余裕があれば、応募しない手はない」
と思ったのを憶えている。 それも隣接する二万人の隣の住宅地加えると
七万人の十字路の角地の隣接地からみて、五年で数倍になるのは誰でも分る。
そこで、私に甘い父に「せっかく、当選したのだから、私の物件でなくても
よいから」と、三日間、つききりで、その価値を説き続け、その結果、
実家の会社名義で買うことになった。これも、当時の合併した直後の
ジャスコを思い切り辞め、大学に入り直して必死に学んでいたおかげ。
 その二年後に貸ビルを建設し、その一角で「養老の滝1122号店」と、
焼きたてのパン屋「センチュリー・ベーカリー」を立ち上げ、無我夢中で
取り組んでいるうちに、実家でお家騒動が勃発、その二つを経営委託をして、
長岡に帰ることになった。 これも私にとって大きはチャンスになった。
千葉は5千万の総投資だったが、一億で売却。 それが新潟駅前シリーズ
の事業資金。 まず、時流に乗った何かを見つけ、全身全霊を込めると、
思いもよらないチャンスが舞い降りてくる。 
 この随想日記も、そうである。第三者からすれば「毎日、飽きもせず、
この程度の文章を書き続けて!」と思うだろう。他人を傷つけ、銀行の担当
から疑われ5百万も脅し取られ、この一連の中で「これは、計画倒産そのもの
じゃないか?」と詰なれても、割り切ってしまえば、それまで。
10年、50年先に残るのは、その時どきに残した言葉=魂(全身全霊の
エネルギー)だけ。言葉とは、それだけの力があると実感するからである。 
事業40年、人生68年の総括での「遇察」は何だったか? 
般若心教の悟りに近い、色即是空、空即是色の透視?
 因縁、感謝、感動!の中にある一連の現象。 
人生に後悔が無い、といえば嘘だが、諦め(明め)はついてきた。
・・・・・・
4317, 幸せはいつうもちょっと先にある −5
2013年01月10日(木)
      「幸せはいつもちょっと先にあるー期待と妄想の心理学」
                    ーダニエル・ギルバード著
   * お金の果てない追求は、なぜおこるのか? −�
 お金の効用こそが、価値を決定する。今さらのことだが、その辺が曖昧に
なってしまう。私自身、末っ子のため、両親の傍で、いつも金銭哲学を聞いて
育った。そして、最期の死様から多くの教訓を得た。その一つが、時節ごとに
使うべき金は使うべし、残しても、後でみると不安を具現化した残物でしか
ないということ。人生(特に事業)は何時何が起こるか分からない。
財産を残しても、一瞬で消え去る恐ろしさを見聞きしていた。
で、給料範囲で全てを使い切ることにしてきた。 振り返ると、それが正解。
満足した行蔵が人生の晩年の宝として残っている。本を読んでも、TVを見ても、
それがベースになっている。
  ーその辺りを抜粋するー
≪「ものの価値、その値段ではなく、そのものが与える効用をもとに
決定しなければならない。ものの値段は、そのもの自体に左右されるだけで、
誰にとっても同じだ。しかし効用は、予測をしている人の個別の状況に
左右される。そのため1000ドルの利益は、たとえ額は同じでも、金持ち
より貧乏人にとっての方が間違いなく価値が大きい」 富そのものは幸せに
関係ない。大事なのは「効用」。お金や昇進やビーチでの休暇そのものには
興味ない。あるのは、こうした形態の富がもたらす、満足や喜びである。
賢い選択とは、喜びを最大にする選択であり、お金を最大にする選択ではない。
お金が増えていく場合、一ドルが与える喜びは常に前回よりわずかに少ない。
人は絶対量でなく、相対量に敏感である。しかし効用を推定することは難しい。
それをするには、そう想像だ。我われの脳は独自の構造を持っていて、
心の中で自分を未来の状況に移動させ、そこでどんな気持ちがするか自分に
尋ねることができる。 効用を数学的な正確さで計算しなくとも、明日に一歩
足を踏み入れて、その感触を確かめればよい。自分を時間軸の前方に投影し、
出来事が起こる前にそれを経験できる能力のおかげで、我われは誤りをおかす
ことなく学ぶことができ、行動することなくそれを評価できる。
 それでも未来の自分と未来の状況をシュミレーションする能力は、完璧から
ほど遠い。未来の状況を想像するとき、我われは、実現しない細部を穴埋めを
し、実現する細部を放棄する。未来の状況を想像するとき、今感じていること
を無視できず、あとで起こる物事について、どう考えるようになるか気づかない。
しかし、先見はもろい能力だ。そのためには、目を細め必死に目を凝らして
みたりしなければならない。幸せを見つける公式はない。しかし、偉大なる
脳は、ちょっと先にあるように見える幸せに、かならずしも導いてくれない
としても、なぜ辿りつけないかを教えてくれる。≫
▼ 秘境ツアーは、その最たるもの。大体、価格の5〜10倍の価値を実感
 してきた。その効用(価値)は、経験と情報でほぼ予測可能である。
その上、行った先をTVの旅行番組で映し出してくれる。その時の見れなかった
細部をプラスして見せてくれる。とはいえ、それも時間と金銭と気持ちに
余裕があってこそ。 亡くなった姉が派手な浪費家と思っていたが、
振り返ると、浪費家というより‘良’費家に思えてきた。その時々を最大限、
楽しんでいた。 人生は、それでよいと、この歳になる身に沁みて思える。
ただ、面子を捨てることが出来るかどうか。面子は面子で、それも可愛い。
 ・・・・・・
3942, 終わりなき危機 君はグローバリゼーションの真実を見たか ー2
2012年01月10日(火)
     「終わりなき危機 君はグローバリゼーションの真実を見たか」 
                            水野和夫著
  * 事実は真実の敵である
‘はじめ’の次の言葉が、この本の全てを要約している。
≪ 我々がシュミットのいう「世界史」の終わりに近づいているに一刻一刻と
 近づいているにもかかわらず、その認識がなく、グロバリゼーションを
「ヒト、モノ、カネが国境を越えるプロセス」と考えて資本の反革命の片棒を
担いでいる。・・ 「事実は真実の敵だ」といったのは、ミュージカル
ラ・マンチャの男」の脚本を書いたD・ワサーマンである。
グロバリゼーションの「事実」とは、「ヒト、モノ、カネの国境を越える
自由な移動」であり、その「真実」とは、帝国システムをなす中心と周辺を
結びつけるイディオロギーである。≫
▼ ここで、二つの経済震災と、一つの自然震災を著者は「近代の自己敗北」と
「歴史における危機」とみる。近代は、過去の遺産を食い潰し、未来の利益を
横取りをしたと看破している。現在の日本のy財政や年金を例にみても、その
ことが納得できる。ヒト、モノ、カネの移動をグロバリゼーションの事実だけ
みて、その真実を知らないと、近代科学のもつ恐ろしい力に飲み込まれてしまう。 
その上に、ひとりひとりの手には、高性能の情報端末を持つ時代になっきた。
情報化社会でグローバリゼーションを止めることは不可能。 
グローバル化は金融や情報だけでない、細菌なども含まれる。
今回は大地震津波、そして原子力発電の破壊が重なった大震災だったが、
鳥インフルエンザや、狂牛病などの細菌汚染もあるから、ことは重大になる。
それぞれの地区、国内の問題が、一瞬に世界に広がってしまう危険が増した。
帝国システムをなす中心だけでなく、最悪の問題にとって変わって世界の周辺
各国に結びつける作用になる。これこそ、グロバリゼーションの事実であり、
真実といえるのである。 従って、この本のテーマの「終わりなき危機」が
グローバリゼーションの真実ということになる。インドや、中国のような膨大な
人口を広い国内に抱えている国が、最後に生き残ることになるのか? 
グローバリゼーションは、それぞれの文化を破壊する。
それが一番、恐ろしいことである。 きしくも、下にある二年前の
「一〇〇年前の世界一周 ー2」の文章が、それを語っている。
・・・・・・・
3577、10年一昔というが ー1
2011年01月10日(月)
10年一昔というが、それにしても激しい変化である。 
 10年前の2001年といえば、
・前大統領のブッシュがゴアに僅差をつけて大統領になり
・9・11テロが発生、アルカイダと断定し、アメリカは
 アフガン攻撃をし、タリバン政権は崩壊した。
・国内では、小泉が「改革なくして成長なし」「自民党をぶっ壊す」
 などのフレーズで、首相に就任。 田中真紀子が外相になったが、
 直ぐに能力に問題ありと失脚。
イチローが大リーグのマリナーズに移籍、豪語したとおりにMVPを獲得。
・この年に、アップルがiPodを発売し、携帯デジタル音楽プレーヤーが
 爆発的に売れ始めた。
・皇太子妃に第一子の愛子様が誕生。
 これが21世紀の幕開けであった。
 それから、ブッシュはアフガンに攻撃の後、イラクに侵攻、泥沼に入った。
 そして、リーマンショックという大事変が起きてしまった。
その結果、失われた10年をそのまま引きづり、失われた20年と日本経済と
社会は疲弊してしまった。首相は、小泉の後、一年ごとに交代し、現在に
至っている。その間の失政による混乱は、あまりに悲惨である。戦後、
間接的アメリカによる統治で日本そのものが骨抜きにされたことは言う
までもない。小泉元首相の改革で垣根が低くなったが、格差は拡大。
これも仕方がないこと。
・・・・・・・・
3202, 一〇〇年前の世界一周 ー2
2010年01月10日(日)
 先日の新幹線の行き帰りの車中で、旅行記の文章を読みおえた。
8割が117枚の写真で埋められていたので、70ページぐらいの文章で
しかなかった。その半分は、この本をまとめあげたドイツの文筆家の
フォローの文章であり、読みやすい。アベクが50年後に、この写真と昔の
メモを見ながら書いた文章で、旅行中はカメラに思いを込めていた。
そのため、その写真の向こうからアベクの思いが、そのまま出ているよう
でもある。この中で日本の写真は20枚あり、当時の庶民の姿が何ともリアル。 
彼は旅行を通して、自分の住む世界に疑問を持つようになり、旅も終わりに
なるにつれて、考えが大きく変化したことに気づく。
「旅を始めたとき、彼は欧州文明が正しいという確信を持ち、その一員である
ことに誇りを持っていた。そして海を渡り、彼方で暮らす人々と知り合うよう
になった。すると、欧州の本当の姿は、安っぽい民族主義に包まれ、まるで
動物ででもあるかのように万国博覧会の見せ物になっていた世界の人とは、
大きく異なることを見いだしたのだ。彼等は貧しくとも、言葉が理解できなく
とも、奇妙な風習があっても、ワルデマールは彼等と心を交わすようになった。
インディアンの青年、快活なアメリカ女性、別府で過ごした二人の芸者、
日本の職人、友となったナカノ、北京で雇った少年、バラナシにいた敬虔な
信徒たち、そして、ジャワで見かけた花のような人たち・・」
「 シナ海やマラッカ海峡と比べたら、地中海には何の夢も描けない。 
黄浦江から見た上海と比べたら、世界で最も美しいといわれたナポリでさえ
色あせて見える。ベスビオ山はせいぜい小さな丘で、インドネシアのセメル山
を見たときのような興奮を覚えない 」等々。 このリーマンショックは、
欧米中心で周っていた世界の崩壊過程の大きなキッカケである。彼は旅行を
通して、それまでの欧州中心の世界観が、いかに歪んでいたかに気づいた。
私の趣味が「世界異境、秘境ツアー」である。そこでみるのは、自分の世界が
いかに小さいか、そして歪んでいるかを再確認することである。
それより、大自然のパノラマの魅力もあるが。100年前の、この経験は、
それまでの価値観を根底から破壊するのは当然である。近代哲学の一群が、
いち早く、それに気づいている。 構造主義、脱構造主義などである。
アマゾンの原住民の風習と、欧米とどちらが優れているのか? 
もしかしたら、彼らの方が?という疑問が出てきた。
100年前に、アベクは、それに気づいたのである。 
タダ、彼は哲学者ではなかったのである。

つれづれに

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  今日のYoutube

 今日は快晴。 今週中に大雪が降らないと冬物は大打撃。

 70歳を超えると、思い出すのは20歳の頃のこと。ある意味で、
極限の中で生きていた。高度成長時代の真っ只中。何もかもが明るく、
希望に満ちていた。 そして、現代をみると、何か暗雲が漂っている雰囲気。
 とはいえ、現在が暗く、当時が明るかった訳でなく、明暗は、同じ量である。

 昨日、一昨日と、東京オオクボ界隈と、中国のネット通販村を
TVレポートをしていた。何か、切羽詰った人達の戦いが、いやに
生々しく、直に伝わってくる内容。 明日と明後日のテーマに丁度よい。

 




・・・・・・
3202, 100年前の世界一周 ー2
2010年01月10日(日)

 先日の新幹線の行き帰りの車中で、旅行記の文章を読み上げた。
8割が117枚の写真で埋められていたので、70ページぐらいの文章でしかなかった。
その半分は、この本をまとめあげたドイツの文筆家のフォローの文章であり、読みやすい。
アベクが50年後に、この写真と昔のメモを見ながら書いた文章で、旅行中はカメラに思い
を込めていた。そのため、その写真の向こうからアベクの思いが、そのまま出ているようでもある。 
この中で日本の写真は20枚あり、当時の庶民の姿が何ともリアルである。彼は旅行を通して、
自分の住む世界に疑問を持つようになり、旅も終わりになるにつれて、考えが大きく変化した
ことに気づく。「旅を始めたとき、彼は欧州文明が正しいという確信を持ち、その一員である
ことに誇りを持っていた。そして海を渡り、彼方で暮らす人々と知り合うようになった。
すると、欧州の本当の姿は、安っぽい民族主義に包まれ、まるで動物ででもあるかのように
万国博覧会の見せ物になっていた世界の人とは、大きく異なることを見いだしたのだ。
彼等は貧しくとも、言葉が理解できなくとも、奇妙な風習があっても、ワルデマールは彼等と
心を交わすようになった。インディアンの青年、快活なアメリカ女性、別府で過ごした二人の芸者、
日本の職人、友となったナカノ、北京で雇った少年、バラナシにいた敬虔な信徒たち、そして、
ジャワで見かけた花のような人たち・・・・ 」
「シナ海やマラッカ海峡と比べたら、地中海には何の夢も描けない。黄浦江から見た上海
と比べたら、世界で最も美しいといわれたナポリでさえ色あせて見える。ベスビオ山はせいぜい
小さな丘で、インドネシアのセメル山を見たときのような興奮を覚えない」等々。このリーマン
ショックは、欧米中心で周っていた世界の崩壊過程の大きなキッカケである。彼は旅行を通して、そ
れまでの欧州中心の世界観が、いかに歪んでいたかに気づいた。 私の趣味が「世界異境、
秘境ツアー」である。そこでみるのは、自分の世界がいかに小さいか、そして歪んでいるか
を再確認することである。 それより、大自然のパノラマの魅力もあるが。 
100年前の、この経験は、それまでの価値観を根底から破壊するのは当然である。
近代哲学の一群が、いち早く、それに気づいている。 構造主義、脱構造主義などである。
アマゾンの原住民の風習と、欧米とどちらが優れているのか? もしかしたら、彼らの方が?
という疑問が出てきた。100年前に、アベクは、それに気づいたのである。 
タダ、彼は哲学者ではなかったのである。

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2837, 「犬の時間」と「猫の時間」
 2009年01月10日(土)
図書館で何気なく手に取った本の中に「犬の時間」と「猫の時間」という言葉があった。
犬は、人間に飼いならされ忠犬ハチ公ではないが、決まった時間に決まった行動をする習性がある。
これに対して猫は気の向くまま気ままに、時の流れにまかせて一日が何となく過ぎていく。
人間の生活の中にも「犬の時間」と「猫の時間」があるのではということだ。
会社では「犬の時間」、自宅は「猫の時間」。会社勤めは「犬の時間」で、定年後は「猫の時間」
ということも出来る。前に、男女、夫婦のことを「化け猫と、ボケ犬」と例えたが、それに似ている。
どっちの時間帯が良いということではなく、二つの時間帯を割り切って使えば良い。
それなら、「人間の時間」とは、いかなる時間を言うのだろうか。「人間らしい時間」というと、
知的であること(本を読み、文章を書き)、楽しい時間を持って笑っていること、過去・未来を
語り合っていること。そして、感謝・感激・感動している時間。酒を飲んで歌っている時間。
そうすると、「犬の時間」「猫の時間」は、それはそれで良しとして、人間らしい時間を多く持つ
べきことになる。せっかく面白い視点の喩え話も、人間様を持ってきて詰らなくなってしまったか。
 それにしても、うちのカミサン、全く猫のようだ。
・・・・・・・・・
2008年01月10日(木)
2472, ホテル納入業者の専務の話
                  ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…
 20年近くに亘り、仕事初めに地元でホテル用品と、スナックや居酒屋に酒を収めている大手?
業者の専務が来社、一年分の情報交換をするのが恒例になっている。県内の全般のホテル・旅館、
スナック・居酒屋などの趨勢の情報と、駅前周辺のホテルや居酒屋などの情報交換をする。
私と専務との二人の話は、地元のサービス業の生の潮流のダイジェスト。
ーその今年の県内の客商売の概要というと・・・
・柏崎沖地震以来、リゾート旅館やホテルは最悪の事態。1~2割の落ち込みが回復しないまま
続いている。またスナック・クラブは、ますます酷い事態になっている。 何処の業界でも当て
はまるが、値段に対して顧客は敏感になっていて、値上げができないが、コスト圧力は強く
なっており悲鳴も上がらないのが現状。
・スナックでは客が来ないので大事な固定客にボッテしまい、自分の首を自分で絞めてしまう
事態が常態化してきている。市場が縮小しているから店は固定客の客単価を上るしかない。 
お客は収入が先細っているので飲む回数を減らすか、一次会で帰るようになる、という悪循環が
起きている。私自身の実感からすると、去年の夏あたりから長岡の行きつけの店が2割ほど
客単価を上げた。それに対し他の安い新規開拓を算段をし始めた。それと、3~4軒飲みまわる
のが、2~3軒に減らし始めた。それより年齢のせいもあるが・・その商社の専務の言う現状は、
 私自身が客として痛切に実感している。 不景気なると、一番初めに敏感に影響するのが
 飲食とホテルである。元々公共事業の削減で、瀕死状態の上に、更に大きなウネリが来てい
 るようだ。話は少し変わるが、その専務の話だと50歳以上が人口の半分を超えたという。
 まさかと裏をとったら、実際は42?だったが、高齢化はドンドン進んでいる。
 私が29歳の時に、丁度人口のど真ん中の年齢だったことを知り、動揺した記憶がある。
 私の直ぐ後の世代が団塊の世代で人口が爆発的に増加した為だが。今年から、世界的の大不況
 が間違いなく襲ってくるというが、これ以上、どうすればよいのか? 
 開き直るしかないと思ったが、開き直りは、とっくの昔からしていたので、己の姿を
 含めて、高みの見物を決め込むしかないか? こういうのをニヒリズム?というのかい。 
  現在、薄型の大型TVが売れ出したのは、冬篭りのためだというが! 
             ヾ(´∀`o)+。ホナ~マタ
ーーーーーーーー
2007年01月10日(水)
108, ゾンビの群れ
          オッ(*^○^*)ハ~ヨウサン!
 ー団塊世代の大量退職とゾンビ化について
一昨日、NHKスペシャルで「団塊の世代」の大量定年を向かえるにあたり、意識調査を
していた。途中からパソコンを打ち込みながら見ていたが、何かイマイチの番組であった。
一年早く還暦をむかえたのでいえる。第二次大戦後の時代の象徴が彼らだったが、第二の
人生は厳しいだろう。右倣えのマニュアル人間で、孤独、孤立の訓練の経験があまりに
少なかったからだ。「自由の恐ろしさ」と、「自由の不自由」を経験することになる。 
これだけは訓練と経験を重ねるしかない。彼らの一時収容所のようなサークルをTV
などで見かけたが、「ゾンビ化した集団」でしかなりえないのは、少し理屈をこねれば
解ること。 孤独にきらないで、徒党を組むからゾンビの集団になってしまう。
ゾンビは今さら他に当てがないから、そこに集まるしかないが・・・
【*ゾンビとは「夢も魂も愛もなくした人間の抜け殻」】 団塊の世代の中の生存競争
で戦い、生きてきた人にとって一人で行動する訓練が必要になる。そこで、まず独り遊び
の訓練が入り口になる。独りでパソコン教室に行き、独りで飲みに行き、独りで図書館に
行き、独りで目星をつけた趣味ー茶道・絵画・作文教室などーの教室に行き、そこで
自分の道を求めることが、まず第一歩。説教にになってきたが・・準備をしてこなかった
ので、今さら無理?。TV番組の中で電話インタビューを聞いていて、何か哀しくなってきた。
仕方がないといえば仕方がないのだろうが・・ 渥美清が、『何故、人は徒党を組んだり
政治的になるのだろう? 孤立(孤独より具体的だが)しないと、人間は物ごとが見えて
こない』と言っていたが。それが以前にも書いたが、ゼロを基点とした孤独である。
そこで非人称の自分と出会うところである。
 一人称ー>私、 二人称ー>貴方、 三人称ー>彼ら・・・ 非人称ー> 
それ以前の共通している意識ー能作 いちど、二人称、三人称を切り捨て、一人称と、
さらに非人称のゼロ基点の自分に向きあわないで、何で群れようとするのか?
その群れには虚しさしか有りえないのに。 その虚しさが哀れということ。
ゾンビ化した群れ、魂の無い集団の群れ! ゾンビは群れないと息ができないのか。
直ぐに哲学的になってしまうが!
           (^o^)dバイー♪
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2006年01月10日(火)
1743, 全国高校サッカー選手権
     (σ・Д・)σ   ohayo~
 ー全国高校サッカー選手権勝戦・TV観戦記ー
昨日の高校サッカーの決勝戦が面白かった!サッカーの試合でこれだけ興奮してみた
のは初めてといってよい。〔もともとサッカーは地元のチームか、大試合の決勝戦
しかみないが〕延長戦でのギリギリの攻防は見ていても手に汗を握る魂と魂のぶつかり
あいの試合であった。はじめは初優勝を目指している滋賀県野州を応援していたが、
途中から鹿実を含めて両者を応援してみるようになった。最後には九州の鹿児島実業
勝つのだろうと思っていたが、野州が1―1の延長後半7分、中川からの右折り返しに
途中出場の滝川が決勝ゴールを決めた。鹿児島実は史上9校目の2連覇を惜しくも逃した。
土俵際でウッチャリと小手投げでクルクル入れ替わる劇画のような試合内容であった。         
高校生というより、プロの試合のようであった。これだけの技術をフルにつかっての
攻防が高校生でも可能なのだ。これはお互いの優勝への執念の結果であろう。        
七日の準決勝の野洲と、閉校瀬戸際?の多々良学園(山口)も見たが、これも大接戦であった。
シュート計33本を打ち合う攻め合いとなり、野洲が後半5分に楠神の右クロスを滝川が
頭で決めて先制。この1点を守り切った内容であった。この決勝でも技術を前面に押し
出した野州のサッカーが、連覇を狙う鹿児島実のチームプレーとの対決に勝って滋賀県
勢初優勝を成し遂げた。「タイムアップの笛は、次の試合への新しい夢への笛である」
というが、高校のサッカーを見ているかぎり、この伝統が次々とつづくだろう。 
甲子園の高校野球も含めて、純粋な少年達の心が迫ってくるからよい!                  
             ☆~~ヾ・ェ・)o尸~  ジャ~ マタネ~♪
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2005年01月10日(月)
 1378, 全日本大学ラグビー選手権
ハイ!(/o^)ノ○ノ(^o\)   ○⌒ ヽ(ω・´ ) ホレッ!
 毎年、この連休は全日本高校サッカー選手権の決勝と、全日本大学ラグビー選手権
の決勝が行なわれる。 毎年楽しみの一つになっている。(年末は全日本相撲選手権と
剣道選手権だが)この連休は大相撲の初場所と柔道の嘉納杯も重なりTV漬けになる。
 ラグビーは、団体戦では一番面白いと言われている。昨日は、早稲田と昨年の覇
者の関東学院大学の決勝。早稲田が逆転で勝ったが、関東学院が優勝してもおかしく
ない内容であった。早稲田の監督が「今日は泣きますよ!」というほどの熱戦であった。
ここまで勝ち抜いてくれば決勝に勝ってこそ、その価値が出てくるだろう。
見ていても、彼らの勝ちたい気持ちが伝わってくる。あとは社会人との決勝リーグが
あリ日本一が決まるが毎年、学生が大差で負けている。学生ラグビーといえば早稲田
の頭脳に対して明治大学の、真正面からの力による攻めのラグビーが印象深い。
 10年前に、96歳で亡くなった北島忠治監督の姿が今でも焼きついている。
 一途に真正面からの攻撃が彼の哲学で、明治ラグビー部の伝統になっている。
その後、OBの内紛で多くの問題が噴出した。最近は関東学院を中心に優勝が争われて
いたが、今年は早稲田が優勝だ。ラグビーは学生も社会人も、全日本選手権の決勝か
準決勝ぐらいしか見ない。しかし、決勝戦は緊迫感があって面白い。
 今日は、全日本高校サッカーの決勝戦だ。準決勝は、非常に面白かったが。
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2004年01月10日(土)
 1011, 2時35分
 深夜の底は2時35分と聞いたことがる。それを聞いた時にハッとした。過去に
大きな決断を迫られた時に目が覚める時間が、決まって深夜の2時35分であったこと。 
 丁度深夜と翌朝の切り替え時間の底なのだ。そこで決断した内容が果たして正解で
あったかというと別問題だが。ギリギリ突き詰めると、そのあたりに一番に頭が冴える。
 現在はなるべくベッドの中では考えないようにしている。しかし決断を迫られたときは
別である。むしろベッドの中の方が陰陽バラエテエーに考えることができる。
 最近は夜半の2時半や3時半に目が覚めることが多くなってきた。この時代の変わり目、
判断に迷いが出るからだ。結果として「真に自分と向き合う時間」になる。
最後は「自分独り!」という実感を、裂け目の時間で経験することになる。 
考える上で一番大事なことだ。 話は少しそれるが、木が大地の水を吸い上げ始める
時間が深夜の3時半という。木に耳を当てると聞こえてくるそうだ。学生時代ことであるが、
酔いを強くする為にわざわざ深夜の一時過ぎから飲み始めたことがあった。4時過ぎ
あたりになると茫洋とした気分になってくる。∪ヽ(●-`Д´-)ノ彡☆ 酒持ッテコイヤ~
真夜中から朝を跨いだ感じがよい。 若いからできたのだろう。
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2003年01月10日(金)
 642,DVDのレンタルショップ
DVDのレンタルショップが昨年末にオープンした。新潟駅近くにある石丸電気
倉庫を改装して出店したが、お客は入っている。売り出し期間ということで入会費は無料。
レンタル料がベラボウに安い。7泊8日で100円と200円の二種類ある。新作は
3泊4日で200円である。結構見ていて雑音が入ったりして見にくい部分があるが、
値段の安さは魅力である。蔦やに行ったが、270円か450円の間である。
会社の至近距離にあるため非常に便利である。先日も4枚借りて500円だった。
奥をみるとカーテンがあってピンクのDVDのコーナーがあった。ある会で石丸電気
勤めていた人がいた。販売でもピンク物がよく売れるといっていた。そのコーナーには
結構お客が入っている。間違っても入ってみることはできない。
感じたのは商品の絶対量が足りない。今の5倍の量になったらもっと入るだろう。
先日借りたのは「スターゲイト・SG-1]「AI]「ウォーゲーム」
「ザ インターネット」である。昨夜は「AI]を見たがなかなか見ごたえがあった。
これで100円は安い。採算は合うのだろうか。
韓国産であればDVDのハードは1万円で買える。時代は変わっている。
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2002年01月10日(木)
 296,壁
5~6年前か、息子の大学入試の作文の課題が「仏教について」であった。
そこで自分ではどう書くか考えてみた。チャンスがあったらに書いてみようと思うが。
その前年が「壁」であったと聞いて、すぐ自分のそれを考えた。それを思い出して書いてみる。
「壁」というと、まず考えられるのが仕切りの壁で、区分の役割である。そして心の壁である。
それも自分の思考習慣の壁である。仕切りの壁も人工のものと、自然の壁がある。
人工のものとして一番大きいものとして万里の長城がある。日本だったら海というところか。
これは外国から国を守る為のものだ。屋敷の壁、これは家屋敷を外から遮断するものである。
部屋の壁はそれぞれの機能の区分である。こんな内容であった。何故はっきり憶えているか
というと、日記に書いていた為である。これに対し、今新たな考えを加えると「言葉の壁」
と「習慣の壁」である。言葉の壁の「取りあえず」「でも」「まいっか」・・そして外国語
の壁がある。習慣の壁、そうそう行動の壁、感情の壁、いくらでも出てくる。
  言葉の壁を次回書ててみよう。
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1月10日  1969年

 10時起床。 朝食後、12時過ぎに学校に向かう。13時にゼミに行くが、4年で出て
きているのが私だけだ。武澤先生が急用で欠席であった。半分遊びで、助手の横浜さんと3
0分ほど議論をした。その後、3年全員と喫茶店へ行く。皆で子供のように騒いだ。
タバコを1分で吸えるかどうかの賭けをする。結局誰も吸えなかった。
 全員でゲームセンターへ行き一時間ほどして、横浜さんと三年生の3人と寿司屋にいく。
「理念」とは何かが話題になる。横浜さんがいう「理想像を追い求めるプロセスでの、
その人の方法が理念ではないか」というのが何か変った言葉として印象に残った。
私の考えていたのは「理想像を追い求め一体化を図ること」とは少し違ったようだ。
 また疎外感についても議論をした。「疎外から立ち直った時、一つの成長過程の変革を
向かえるのでは」という意見に対して、横浜さんは「その反省過程で、他の手段方法を考え、
そのことから自己を第三者として捉えることが前進になる」と言われたことも印象的であった。
しかし反対にそれに捉われることは、自分の壁をつくってしまう為に何もできない状況に
なる独創性が失われてしまうとも考えられる。「私も考え方が凝固まりだした」という
言葉に対して、「それも現時点では必要ではないか」「一つの枠を創っていないと吸収
する力を持ち得ないのでは」という言葉も説得力があった。合気道の師範の黒岩先生も同じ
ことを言っておられた。「その枠を弾力的かつ吸収力のあるものにすることこそ大事」だと。
その枠を大きくしたり縮めてみたりすることが大事だと。そこから外に散歩に出たり、
旅行をすることが重要ということだ。 夜、市川さんがお茶を飲みに来る。
彼とも2時間以上議論をする。