* チャレンジ5! 二回目の最終日に
・週に3〜4回だったSJでのヨガ・エアロ、試みに二週前から週に5回に挑戦、
SJに行く日は欠かさず参加、昨日で二週間連続10回目になる予定だった。
 「昼間の割引コース」の枠内5日間で、月、火、木、土曜日が一回、水曜日
は12時半と15時の二回のプログラムが組まれている。週5回は少々キツイが、
SJの5年半の運動効果と、ヨガの4年半の鍛錬効果で、足腰の重さが半減から
三分の一に減っている。他にも、4ヶ月前から飲みはじめたサプリ効果もある。 
先週、5日続けた効果で足腰がより軽くなった為、今週も、「チャレンジ5!」
の標語を内語で呟き、続けてきたが、一昨日のシネマをみた後、腰が変に痛く
なってきた。で、昨日は迷ったが、とにかく、10日目、あと一日続けることに
した。 その土曜日は、平日コースと、土日・祭日コースが重なるため、人気
のヨガは、午前中に予約チップを取っておかないと満席になる。経験則で、
11時過ぎに、取りにいったところ、既に満席である。顔見知りが、その場に
いて、「11時前にきたが既になかった。二時間半前にきて満席とは、ちょっと
ね〜」と愚痴。で、「チャレンジ5」の二週連続は最終日で未達成になった。
   * 5千万の預金への嫉妬
・仕方なく、イージーラインを二回続けて参加した後、ベルト・マッサージを
していると、二人の中年女性の会話が聞こえてきた。興奮しているので自然と
声が高鳴っていた。それが面白い。 誰かが帰った直後らしく、
『5千万の預金、どうしたら出来るというの。今の私たちには絶対に無理。
話を合わせるしかないので、聞いていたのに。何を言っているのよ。』と。
 話の途中で、早々、帰ってきたが、どこにもありそうな話。
・以前も、書いてことがあるが、長岡駅裏の居酒屋で一人ランチを食べていた時、
近くのSJ<コナミ>の会員らしき中年女性らしき人たちの会話。
『大都会のサラリーマンは、二千万の預金が残るらしいけど、内には無いわ。
貴女の旦那はお医者さん。その位はあるわよね。』に、
『ローンで自宅を買って、まだ残債があるわ。とんでもないわ。』で、他の人
に話を向けると、『それって、夫婦で、一人で?』と自然な答え。
当然、その場が、白けていた。前に取り上げた『5千万の預金』の、続きと酷似
しているが、全く違う人。 家庭間の格差の問題が、こういう場で、知らずに
出てしまうのは仕方がないこと。これも、家内に言わせると、『恵まれた世界の
人たちの範疇の話。そこに行けるだけ有難いと思わないと』だと。
* 白馬のリゾートホテル社長の話
・去年末の東京の学生時代の同級会で、長野で中型のリゾートホテルの社長を
しているAという男が、酒を注ぎに来たときの会話。
A:会社整理をしたと聞いていましたが、大変でしたね。私のところも大変
 ですが、オーストラリアとか、台湾、中国の観光客で何とか凌いでいます。
私:何とか、夜逃げをしないで、そのまま、家内名義の自宅に住んでいます。
 それでも、家内も40年間の厚生年金で、家内名義の給与を別にしていたので、
 生活は何とか出来ています。 ところで、二人とも、厚生年金ですか?
その辺りから、相手の様子が変と気づいたが、とき既に遅し。
A:家内は長年、病気に伏して給与を与える訳にいかず、年金も国民保険だけ。
 そんな、余裕など、全く無いのが現状。
――
 考えてみれば地方のリゾートは、厳しいはず。
本人が謙遜で言ったかどうかは不明だが。 無神経だったことは違いない。
私にとって、現状の自分を肯定するのに必死で、ここの言い訳でも、多くの人
を傷つけているはず。いくら自分の心の軌跡として書き続け、公開していると
しても、困ったもの。「その返り矢が多いことも気づかぬ愚かしさ」
「自分の血で、他人の傷口に塗り付けている己の愚かしさ」 
傍からは、それが面白いのだろうが。 で、以下に丁度よく続く。

・・・・・・
5286,閑話小題 〜老人漂流社会「親子共倒れを防げ」
2015年09月04日(金)
   * NHKスペシャル 老人漂流社会「親子共倒れを防げ」
 ーNHKスペシャル 老人漂流社会「親子共倒れを防げ」ーを、
この日曜日のゴールデンタイムに放送していた。 以前にー老人漂流
「老後破産の現実」ーを取上げ、話題になったが、団塊の世代が老後を
むかえた現在、大部分の老人にとって深刻な問題だ。 想定外の9・11テロ、
リーマンショック、3・11震災で、あっけなく事業整理に終わってから4年、
何とか、今までの生活を維持はしているが、目先には大恐慌が待っている。
老人世帯の9割は、他人事ではない。 〜NHKの内容紹介のブログより〜
≪ 中高年の子どもがリストラや親の介護をきっかけに、高齢の親を頼って
 同居するケースが急増している。こうした親子は、子の失業や親の病気などを
きっかけに「親子共倒れ」に追いつめられていくケースが少なくない。
密着取材とアンケート調査で「親子共倒れ」が広がっている実態を明らかにし、
どうすれば未然に防ぐことができるのか、専門家を交えて考えていく。≫
▼ 放送の翌日、見ていた家内が青くなって、録画をみるよう勧められた。
 蓄えがなく、癌と分かっていても、病院にいくことも出来ないケース。
親の窮状を、みるに見かねて退職し、面倒をみているため、二人の生活を維持
できる収入もなく窮地に陥るケース。息子と同居するようになって、年金が
打切られて生活が成り立たなくなったケースなどが痛ましい。退職時に、
ある程度の蓄えがあっても、癌などで高額の治療費を払い続けるうちに、
蓄えが底をつくケースもあり、その可能性は、誰にも起こりうること。
 国民の3割の預金が300万以下で、全世帯の収入額の中間点の人が600万。
全体平均は1000万円。上位2割の平均が3000万という。
とすると、貯蓄が1千万以下の人が三分の二となると、誰もが老人漂流社会
の当事者になる可能性を大きく持つことになる。近未来を考えると末恐ろしい。
 世界は、何とか大恐慌の一歩手前で平成を保っているが、いつ何時、火の手
があがる可能性を膨らんでいる。やはり心せねばならないが、一歩先に、
事業清算をした我が身、毎日、賑わせている「東京オリンピック」バカ騒ぎが、
何とも面白く、哀しく、痛ましく思える日々。少し考えろ、何がアベノミクス! 
 成るほど、尻尾だけでなく、頭も、やられている!
・・・・・・
4921,一度、死んでみましたが −3
2014年09月04日(木)
     * 死の淵からのルポの凄み 〜②
 ー淡々とした文章だが、内容が内容だけに凄みがあるー
  ● 細やかな喜び ーp48
 いま寝ているベッドは、"オリ"のようだ。 気を緩めて、身体を狭めると、
柵の範囲がすかさず小さくなってくる。 一度、詰められると、迫ってきた柵は、
もう動かない。身体全体が、不自由な位置で止まる。あらゆる方向へ、もう一回、
自分の手足を伸ばす必要がある。右手で左の柵を持って、右半身を持ち上げる。
または、その逆。目の前に、柵が迫る。 柵のなかで、のたうちまわる。 
トドみたいだなあ、といつも思う。思うようになかなか動けないのだが、
ベッドの柵を持って、バタンバタン、ドタンドタン。ほんの少し、右に寄れた。
それでも、‘身体’を感じて、ボクは嬉しいのだ、自分で、自分の身体を、
動かせたことを。 だけど、いつもできるわけでもない。≫
  ● 書くことが、生きること ーp222
 自動体位交換機能付きのエア蓄ベッド。それに助けられて、ボクは寝ている。
1時間おきにガーガーと音をさせて、エアーが入る。そして、ボクの身体は右に
傾いた緊左に傾いたりする家族が1〜2時間おきに椅子に座らぜてくれたりもする。
自分では動けないからだ。 こんなに身体が変わってしまったのが、いまでも
信じられない。つらかった。けれど、どうだろう? そうなってしまった身体を
嘆いていても、しかたがないじゃないか!
 このつたない文章が、いまのボクにできることなのだ。
どうしても書かなくてはならなかった。ボクには唯一、書くという機能を神さま
が残してくれていた。書くことが生きていてよいと唯一、言ってくれている気が
するから、ボクは書き続ける。脳のほうはさっぱりだけど、書くことができる。
その機会を与えてくれた友人や仕事仲間に、感謝しても感謝しても、足りない
くらいだ。本当に、ありがとう。これからもボクはつまらなくても、忘れても、
書き続けると思う。これからもずいぶん、面白い人生を送ることができそうだ。
迷惑をかけてしまうかもしれないが、これからが楽しみだ。書くことが、生きる
ことなのだ。 書いて、書いて、書きまくるぞ。  ー2013年12月 神足裕司
▼ 著者は、家族が身近に世話をしてくれているが、介護重度5の老人は
 生きていること自体が拷問。これは、病院の利益、家族の無知のため、拷問の
ため生かしておくのと同じようなもの。安楽死も最近になって正面から取り
上げられるようになったが、まだまだである。 現在の私は、「知ること、
書くこと、何気ない日常を味わい楽しむこと」が、生きることになっている。
そうこう考えると、まだまだ日常生活を色濃く、その間の「ぼんやり」時間を
大事にすべきだが・・
――――
4554, 横尾忠則の老人論
2013年09月04日(水)
               「猫背の目線」横尾 忠則 (著)
 横尾の戒老録だからこそ、風がわりで面白い。「猫背の目線」とは
「老人のものの見方」という意味である。私より10歳年上で3年前の初版で、
古希越えの経験が書いてある。 再来年に古希越えの私に丁度良い老人論。   
   ーアマゾン内容紹介ーより
 ☆ 体の声を無視した結果がストレスを起こす。老年を迎えた猫好きの
アーティストは、嫌なことはせず、好きなことだけをして生きる。少し日常の
目線をずらしてみれば、あなたも今日からできること。最新エッセイ集!
 ☆ 古稀を迎えた猫好きの芸術家は考えた。
「忙しいのは他人の時間に振り回されるから」「病気自慢が体を浄化する」
「努力は運命の付録のようなもの」―老年が人生を仕上げる時期ならば、
ひとつ人生を遊んでやろう、遅ればせながら隠居を実行しよう。自然に、
創造的に生きたい老若男女必読。
 ー アマゾンのレビューの内容がよい! 
出版社か、筆者自身?の書き込みと疑いたくなるほど、である。
《「今まで芸術と生活を二つに分けて、芸術に集中さえしていれば生活を
疎かにしたってどうってことないと考え、全てを芸術論でかためてしまう
人生観を送ってしまったところがあった。芸術は芸術の中でのみ完結する
という錯覚は、完全に幻想だったことが理解できた気がする」
 この言葉が核心といっていいだろう。 若い頃から、ナルシシスト
自意識過剰の横尾は、75歳になる今年も、そこから抜けるために未だ苦労して
いる。自意識過剰から抜けるための試みの一つが、全国あちこちでやっている
公開制作である。 公開制作について横尾は「(公開制作を行っていると)
無私になる。不思議なことに雑念が去来しなくなる。『私』の意識が薄れる」
と語る。この公開制作時のテーマは「T字路」である。なぜT字路なのか?
それは62〜63歳の頃に10年ぶりに帰った故郷の西脇で、子供の頃に良く通った、
T字路に建つ模型屋が奥の壁を残して、あとは見る影もなくなっている姿に、
膝が崩れ落ちるような衝撃を感じ、そのT字路を描くことでノスタルジー
もった「個人」から自由になり「普遍的な個」と感じるからだ。
横尾は幼児の頃に叔父の家に養子に入り、溺愛され育った。彼にとって
過去の記憶はすべてよきものと言っていいだろう。決して忘れたい過去に苦しむ
人間ではないのである。芸術と生活は別、と考えて60代にまで至ったこと
自体にに驚くが、同じくナルシシストで、「芸術と日常生活は別」と同じこと
を言っていた三島由紀夫に傾倒し多大な感化を受けていたことを考えると、
不思議ではないのかも知れない。》
▼ 横尾は「隠居は、嫌なことをしない、好きなことだけをする生き方らしい」
 と、述べている。それからすれば、昔から隠居ということになる。目先、
不自由でない位の金と、有り余る時間が人生を通してあった。
足らなかったのは、それを使うほどの能力。 事業人生の結果は、自己精算に
近い事業整理で終わったが、充実感が残った。それは、有り余る自由な時間に
恵まれていて、事業も生活も趣味も楽しんだ手応えが残っているから。
そう思うしかないが・・
・・・・・・
4179, プライドと自尊心と虚栄心
2012年09月04日(火)
 * 「プライドが高い」「誇り高い」「自尊心が高い」の違いは?
言葉のイメージとしては良い順に・自尊心がある・誇り高い・プライドが高い
 ー 哲学者の池田昌子は、このへんのことを解りやすく説いている。 
                    (ー14歳からの哲学ーより)
≪「自尊心がある」はプラスを含んだ言葉で、「プライドが高い」は自分の
弱さをカバーするための防御する気持ち。自分がしていることを自覚できるのは、
それについて考えられる精神を所有している人間だけ。精神は自分を自覚する。
精神としての自分を自覚する。そこで精神にとって精神よりも大事なものは
ないと知る。なぜなら、精神としての自分にとって何が大事かを考えることを
知ることができるのが、まさに精神だからだ。自分を大事にするとは、
つまり精神を大事にすることである。「自尊心」とは、自分を尊ぶ、自分を
愛するということの、本当の意味がこれだ。自尊心を持つことと、プライドが
あるということは、間違いやすい。誰も自分が大事で、プライドがあると思って
いれば、他人に侮辱されても腹が立たないはずだ。なぜなら自分で自分の価値を
知っているなら、他人の評価は気にならないはず。もし腹が立つなら、
自分の価値より他人評価を価値としているからだ。それは自尊心でなく、
虚栄心ということになる。≫
▼ 自尊心は『本当に自分を尊く思える心』。プライドとは全く違う。
人から否定的な事を言われたり、弱い自分がさらけ出されても自尊心が高ければ、
心は揺らがない。自尊心が低いと、他人の評価を気にしてプライドと言う虚勢で
弱い自分をカバーする。プライドの高さは虚勢の高さに他ならない。
自分を尊び、価値ある存在と信じる自尊心とは違う。そのため自尊心の低い人
ほどプライドが高くなる。年齢をかさねるにつれ、それが小さくはなるが、
女子と小人は、その壁がますます高くなっていく。誇り高いというのは
プライドと意味は似ているが、虚勢の高さはプライドほど高くはない。
自尊心とは自分に自信があって生まれる。プライドは、自信がないための防御
の柵をいう。無知蒙昧のカラ元気。 居るよ、こういう人!地頭が悪いというか、
底がない? 何か、自分のこと?と思い知る。プライドも自尊心もズタズタ?
が現在の私だが、ことの本質(世界恐慌)をみれば極当然のこと??
と、プライドの心が囁き出す。そして、そのプライドの壁の上から、
そこに来ている恐慌の大津波を眺めている日々。 
 ・・・・・・
3814, リタイヤの生活は退屈か?
2011年09月04日(日)
 良かったのか悪かったのか、10代半ばから常に受験、就職、事業などで、
常に追い立てられて生きてきた。しかし思いもよらずに?ここで追い立てられて
きた人生から50数年ぶりに解放された! のが、現在である。その前のイメージ
は、本音でいえば味も素っ気もないのでは? と思っていた。しかし、
その立場になって分かったことは、「それはそれなりに充実している」こと。
10年かけてネットに重心を移動していたこともあって、気持ちに余裕が
なければ、こうはいかないのだろう。事業の結果がこうとしても、これだけ世界
規模の経済震災や自然災害が次々と生じれば、諦めもつくもの。現在の状態を
抵抗なく受け入れている自分に驚いている。逆に何だったのか、この10年は?
と、疑問も生じる。止めようもない右下がりの落ち込みに、対処療法しか
手の打ちようがない日々も辛いもの。6年前に銀行からの会社売却の話が
あったが、これは「生きたまま銀行系列のホテルに、ただ同然に持っていかれる
レベル」の案件。あれから6年間も持続した分、実質な回収とも解釈ができる。 
反面、倒産は避けられたかもしれない。それに関しても後悔は全くない。 
目先の資金繰りの綱渡りは、事業人生で一度も経験したことはなかった。 
半年後には給料、退職金の大部分も、取引先の支払いも、(資金繰表から
逆算して)不能になるのが明確であった。そのため目先資金の余裕のあるうち
にと、会計事務所、弁護士、私と役員で相談の上に、少し早目の整理に入った。
それが打撃を最小限で終わらせたことになる。 そうはいっても会社の死は、
そう生易しくはない。 当分はiPadに集中。 最適なアプリを画面上に
配置することと、新しい何かにチャレンジすることである。10数年前に
亡くなった母親の老後の様々なチャレンジを身近にみていた。その辺にヒント
が隠されているようだ。「良い人生、悪い人生ではなく、充実している人生」
がキーワードになる。
 ・・・・・・・・
3449 秘・異郷の旅、よもやま話 -6
2010年09月04日(土)
  *初めて経験した大自然の懐
 広大な大自然に初めて唖然としたのが、カナダのロッキーの懐に入って時。
トロントと、ナイアガラの滝をみた後にロッキーを巡るコースのため、その途上
のバスの中で寝入ってしまった。そして目を開けると、何かこれまで見たことの
ない山々と渓谷が続いている。「これは、まだ夢の中。それにしても、リアルな
夢じゃないか」と思っていた。しばらくし、これが夢ではない現実に気づいた。
これは何処かの星の異次元の世界としか考えられなった。(その後、これと
同じような異次元の世界を数多く見ることになった) そして、次から次へと
想像を遥かに超えた光景が、これでもか、というほど現われてきたのである。 
「これまでの人生と、これからの人生という境になるほど、この感動は大きい」
という言葉が、溢れ出てきた。これをキッカケに大自然に魅せられ、世界の秘境・
異郷の大自然の世界に引き寄せられるようになった。 大自然には、
・「山脈」「湖」「滝」「川」「氷河」「密林」といった山脈系
・「海・海岸線・島」「クルージング」という海系
・そして「平原・草原」「サファリ」「砂漠」の平原系がある。
 目的別に分けると、リゾート、探検、遺跡探索などの知識収集、
そして祭りなど、分かれる。どれが一番というのは一概にはいえない。
どれもこれも、素晴らしいとしかいえない。
 ・・・・・・・
3074,立花隆の緊急寄稿ー「自民党の破滅」
2009年09月04日(金)
 週刊誌は図書館か昼飯時の喫茶店以外は読まないが、週刊文春の新聞広告が
面白そうなので買って読んでみた。特に立花隆の緊急寄稿「自民党の破滅」
に興味があった。副題が「小選挙区制度の罠」で、民主308議席自民党
119議席の結果について書いている。  ーその概要といえばー
「日本はいつから「政権交代」を叫ぶだけのドブ板選挙で大勝できる、貧しい
政治文化の国になったのか。ぶっ壊されつつあるのは自民党だけでない。
日本国そのものなのだ。」というのが主旨である。小選挙区制度にしたことと、
派閥を無くしたことが大きい。そのために都(県)議会並みの小さな選挙区では
ドブ板選挙活動を基礎にするかどうかで勝負が決まる。その結果、そこで育つ
政治家のスケールが小さくなってしまう。小選挙区制度になってから出てくる
国会議員の人間的スケールが都議会議員並み。 国会議員レベルで、国政を
安心して任せる人格識見の持ち主が殆ど見られない。これまでの中選挙区制
では、派閥があり、そこで政治家を大きく育てるパドックの役割があった。 
そこで政策力、リーダーシップ、そして政治家としての日常のふるまい方を
学んだ。自民党の中で、派閥の領袖は自派には総理総裁候補が多い自慢できた。
それが自民だけでなく民主党も、人材が払拭してしまった。
 自民党が「責任力」をスローガンにしたのは呆れるしかない。 せっかく
総理大臣になったのに、その職責を充分に果たせずに任期途中で政権を放り
出すことを二度三度も続けた政党は、無責任の極地にあるというべきだ。
こういう中で、GDPの170パーセントの長期債務をいったいどうするのか。 
両党とも、これをどうするか、一回も真剣な議論が聞こえてこない。 
小泉は「自民党をぶっこわす」と宣言して、伝統的な集票システムなど様々な
システムを壊したが、それが遠因で自民党の大敗につながった。
選挙の当座だけ尤もらしいことを並べ立てて、あとはTVを通じてプロパガンス
を並び立ててしまえば、大勝を博すことが可能というのを05年の小泉郵政選挙
が示した。今回の選挙も大して変わらないのではないか。最大の心配なことは、
自民党の「ぶっこわれる過程」に巻き込まれる形で、「日本のぶっこわれ過程」
がはじまってしまったのではないか、ということだ。民主党を含む日本の野党は、
口先だけの尤もらしいことの経験があっても、責任政党として国政を担った
ことはない。その経験が無いことを自覚して、一歩一歩を薄氷を踏む思いで
いかないと、日本を本当に破滅させてしまう可能性がある。
−−
以上だが、自民党も一度政権を離れてしまえば「何で、こんな党に政権を
預けていた愚かさ」に国民は心底から気づくことになった。そうこう考えると、
政界再編成は近い将来必ず起こる。もちろん自民党は解党をしてだが。
民主が政権を取ったところで、800兆の借金が消えるわけでない。ますます、
借金が増えるのではなかろうか!
(字数制限のためカット 2013年9月4日)

つれづれなるままに

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他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
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   今日のYoutube

長岡祭り、お盆、オリンピック、高校野球のあった
非日常の感が強い8月も過ぎて、日常の感が強い初秋の
9月に入った。 来週の日曜からは大相撲秋場所である。

 これまで、思い出すことの無かった、過去がいやに、
フラッシュバックしてくる。特に、20歳代が中心である。
一年一年が、小説のように大きく変化をしていった時節。
恵まれて時代であった。 しかし、ソ連が絶頂期で、日本は
その中にあって、決して安定してはなかった。
 ただ、右上がりは、何もかもを解決をしてくれた。
良い時代に生きていた。





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3074,立花隆の緊急寄稿ー「自民党の破滅」
2009年09月04日(金)
 週刊誌は図書館か昼飯時の喫茶店以外は読まないが、週刊文春の新聞広告が
面白そうなので買って読んでみた。特に立花隆の緊急寄稿「自民党の破滅」
に興味があった。副題が「小選挙区制度の罠」で、民主308議席自民党
119議席の結果について書いている。  ーその概要といえばー
「日本はいつから「政権交代」を叫ぶだけのドブ板選挙で大勝できる、貧しい
政治文化の国になったのか。ぶっ壊されつつあるのは自民党だけでない。
日本国そのものなのだ。」というのが主旨である。小選挙区制度にしたことと、
派閥を無くしたことが大きい。そのために都(県)議会並みの小さな選挙区では
ドブ板選挙活動を基礎にするかどうかで勝負が決まる。その結果、そこで育つ
政治家のスケールが小さくなってしまう。小選挙区制度になってから出てくる
国会議員の人間的スケールが都議会議員並み。 国会議員レベルで、国政を
安心して任せる人格識見の持ち主が殆ど見られない。これまでの中選挙区制
では、派閥があり、そこで政治家を大きく育てるパドックの役割があった。 
そこで政策力、リーダーシップ、そして政治家としての日常のふるまい方を
学んだ。自民党の中で、派閥の領袖は自派には総理総裁候補が多い自慢できた。
それが自民だけでなく民主党も、人材が払拭してしまった。
 自民党が「責任力」をスローガンにしたのは呆れるしかない。 せっかく
総理大臣になったのに、その職責を充分に果たせずに任期途中で政権を放り
出すことを二度三度も続けた政党は、無責任の極地にあるというべきだ。
こういう中で、GDPの170パーセントの長期債務をいったいどうするのか。 
両党とも、これをどうするか、一回も真剣な議論が聞こえてこない。 
小泉は「自民党をぶっこわす」と宣言して、伝統的な集票システムなど様々な
システムを壊したが、それが遠因で自民党の大敗につながった。
選挙の当座だけ尤もらしいことを並べ立てて、あとはTVを通じてプロパガンス
を並び立ててしまえば、大勝を博すことが可能というのを05年の小泉郵政選挙
が示した。今回の選挙も大して変わらないのではないか。最大の心配なことは、
自民党の「ぶっこわれる過程」に巻き込まれる形で、「日本のぶっこわれ過程」
がはじまってしまったのではないか、ということだ。民主党を含む日本の野党は、
口先だけの尤もらしいことの経験があっても、責任政党として国政を担った
ことはない。その経験が無いことを自覚して、一歩一歩を薄氷を踏む思いで
いかないと、日本を本当に破滅させてしまう可能性がある。
--
以上だが、自民党も一度政権を離れてしまえば「何で、こんな党に政権を
預けていた愚かさ」に国民は心底から気づくことになった。そうこう考えると、
政界再編成は近い将来必ず起こる。もちろん自民党は解党をしてだが。
民主が政権を取ったところで、800兆の借金が消えるわけでない。ますます、
借金が増えるのではなかろうか!
(字数制限のためカット 2013年9月4日)


・・・・・・
2709, アメリカのコーヒー戦争
2008年09月04日(木)

不景気が外食産業を直撃している。
アメリカではスターバックスが苦戦している一方、マクドナルドが好調という。
数年前までは、マクドナルドのコーヒーは不味くて飲めたものではなかったが、
最近は格段と美味しくなった。スターバックスのコーヒーが4杯ドルに対して、
マクドナルドが1ドルと4倍も違う。そのため不景気とガソリンの高騰で、
コーヒー好きのアメリカ人は低価格のMcにながれているようだ。
二年前の株価を見ると両者とも35ドルと拮抗していたが、現在ではスターバックスは、
その半値、Mcは2倍になり、4倍の開きが出来てしまった。皮肉なことに、売価が逆の
倍率になってしまった。4倍といえば、味が大して変わらなければ、Mcに流れる
のは当然のこと。そこでMcは低プライスのコーヒー専門店チェーンにも乗り出した。

日本国内でも、不況の煽りで、スターバックスドトールも売り上げが前年割れを
しており、それに対しMcは売り上げを伸ばしている。 通勤途中の長岡駅周辺に
スターバックス、Mc、Uccコーヒー、ドトールがあるが、最近、Mcとドトールには
客が多く、コーヒーの値段が400円以上のUccと、スターバックスは客が少ない。 
また新潟駅長岡駅にパンとコーヒーに絞ったカフェテラスがあるが、両者とも好調。
この20年来、個人経営の喫茶店がほぼ消滅した。ところが新潟の事務所の真前に
コーヒー専門店が二年前にできた。それ以来、週に1~2度はランチを食べに行くが、
基本に忠実なコーヒーを出してくれる。

コーヒーは、良い豆を使って、基本に忠実に出し続けることが要求される。
その維持がなかなか難しい。この不景気の中、身近なランチや、コーヒーから節約を
するもの、安いコーヒーに流れるのも仕方ない。自動のコーヒー販売機のコーヒーが
プロ並みに美味しいのに行き当たった。コインを入れてから、コーヒーを炒って出す?
ので、時間が4分ほどかかる。月に一度新潟駅の至近距離にある専門店ビルの地下の
イオン内にある、カフェテラスの自動販売カプチーノが美味い。月に一度は行って
パンとコーヒーを飲んでいるが、目当てはカプチーノである。
Sサイズで150円、Lサイズで200円だが、充分満足できる

昨夜のニュースで、昼飯に弁当持参が復活していると報じていた。
何か、身につまされる思いである。でも、暗い感じでないのが救いであるが・・・

・・・・・・・・
2007年09月04日 
「エーゲ 永遠回帰の海」 -1
          -読書日記
  * 作者: 須田 慎太郎, 立花 隆 情報社

ポルトガルか、秋の紅葉のカナダか迷っていた時に、この本を読んで、今年の旅は
ギリシャエーゲ海の旅を思いたった。(次男が「ギリシャに行って良かった」と
言っていたのもあるが・・)面白いもので、いざ決定すると、写真も文章が違って
みえてくる。 三日間のエーゲ海のグルージングとギリシャ本土の遺跡をまわると、
また違って見えてくるが、それもまた楽しみである。

世界の遺跡の主だったところを見てきたが、遺跡の真只中に立つと何とも不思議な
感覚になる。数千年前に住んでいた人たちの気配を感じるのである。
生活の跡に立っているのだから、当たり前といえば当たり前だが。
初めにハッとしたのはエジプトの遺跡群をまわった時である。行く先々、感動と
驚きの連続であった。遺跡を造った皇帝の意志と、当時の人達の息づかいが伝わる。

生々しいのが2000年前に一瞬のうちに埋没したイタリアのポンペイの遺跡。
火山灰がパッケージになったため、殆ど完全に近い形で街と、店舗と、住宅がその
まま残っていた。また死者の体を包んだ灰の中が空洞で残っていて、そこに石膏を
入れた「人間の型」が気味が悪いほどリアルに並んでいた。そこに立っていると、
タイムマシーンでポイと瞬間移動してきたような気持ちになってしまうのである。

この本は立花隆と写真家の須田慎太郎が、1982年に40日かけて行ったギリシア
トルコ取材をもとに出来た本である。(出版までに20年以上を要した理由に
ついては本書にその経緯が記載されている。)
写真家の須田氏の美しい写真と、立花氏の紀行文がなかなかよい。

ゼウスと人間の女の混血児であるディオニュソスの不完全な不死性と、イエス
復活神話や「一粒の麦もし死なば」という教えとの相似性。アジアの地母神信仰が
ギリシアのアルテミス信仰に変容し、それがさらにキリスト教のマリア信仰に姿を
変えたこと。新約聖書ヨハネ福音書」の「初めに言(ロゴス)があった。
言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべての
ものは、これによってできた。」というくだりが、新プラトン主義哲学のロゴス論
を下敷きに書かれたことなど・・。 ギリシアの神々は、一神教であるキリスト教
の成立や普及過程において、形を変えてしぶとく生き残っていったということが、
この本を読むとよく分かる。

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2006年09月04日(月)
1980, ある首斬り役人の日記 -2  \(^▽^*)おはよう         
                    -読書日記
HPで「首切り」と検索したら、イラクの首切りの生々しい映像が出てきた
には驚いた。さすがに首切りの場面は見なかったが・・ 更に、次の内容があった。 
 ー日本の首切り役人のことを書いた内容であろう。

罪を犯したある男が首切り役人に首を刎ねられる羽目になった。
この男は最後の最後まで抵抗し、たとえ首を切り落とされても執念でお前を末代
まで恨んで、祟ってやると罵った。 首切り役人は、「そう思うのなら切り落と
された首で自分の草履をくわえてみよ。それが出来たならお前の言葉を信じよう」
と言った。刎ねられた首はコロコロと転がり、男の言ったように草履をパクッと
くわえた。 その形相の凄まじいこと、この世のものとも思えなかったという。 
周囲の人々はこの様を見て怖れおののき、これは祟りがあるに違いないと感じた。

 事実その後、そんな噂が広まった。ところがこの役人はこれをせせら笑って、
「そんなことがあるわけがない」と全く気にしなかった。あまりの自信に何故怖く
ないのかと尋ねると、「あの男は最後の怨念を草履をくわえるということに
使い切った。だからもう私を恨むことは出来ないのだよ」
日本では「首切り浅右衛門」が有名である。 事実は、小説より奇なり!である。
ーー
298の項目からなる書の中から、印象的な項目を抜粋してみる。 

38、1579年8月6日
  ハンス・ビューヒュナー、ーファレンバッハ出身。ゲオルク・ガーブラー、
  ー シェーンフェルト出身。
  ミュッヘル・ディーテリヒ、 ーベルニッツウィン出身、別名・辺境伯
三名とも泥棒。 打ち首の上、車裂きにした。哀れなのは辺境伯の妻。 
哀れな引き回しの罪人を見ようとして、その中に自分の夫を見てとった。
彼女は夫の首っ玉に抱きついて、口付けをした。自分の夫が捕らわれ、
そのような一味であったのを知らなかったのだ。
  
ーこれを読んでいると、数百年前の欧州の片田舎で起こった悲劇が目に浮かぶ。
大悪人の処刑を見ようとしたら、まさか自分の夫とは!
立場が一瞬にして大逆転をしてしまった悲劇は、ドラマのようである。
  
82、1584年7月7日 バイエルシュタインの妻アンナ、ニュルンベルク市出身、
 別名モーザー・アンネラ。彼女は夫ある身なのに、いかけ屋という名の
父親や息子といかがわしい行為に耽った。そのほか同じように妻ある男や若い
職人たち21人といかがわしい関係を持ち、彼女の夫がそれを助けた。
その件で立ったまま打ち首の刑に処した。その夫はムチ打ちの刑を受けた。
彼は聖ペトロ教会の彼女の墓近くの石塀に、白墨で次の文句を書きつけた。

 相手の親父も息子も、女房と同じ目にあわせてくれ。とりもちの男にも
そうしてやれ。あの世に皇帝と王様を呼び出して、いかなる処刑も行われない
よう訴えてやる。私、哀れな夫は罪もないのにここに居合わせた。さらば、お休み。
    
ーこの夫の嘆き、無念の文ーこころを処刑人が書き取っていたのも、何か
ドラマ仕立てである。女房は打ち首、自分はムチ打ちの刑。
それに引き換え、相手の男達は何も罰せられない矛盾を嘆いている。
 
87、11月17日
 フライの妻アンナ、ニュルンベルぐの織物縫い工の妻。彼
女は以前、夫があったが、アムプロジウスと称する刀鍛冶職人との間に子供を
生んだ。この子は二歳の男児であったが、彼女は修道院近くの泉に、この子を
投げ込み、溺死させた。その後、彼女は穴牢獄に入れられたが、当地にて打ち首
の刑に処された。 ー次も、幾つかの日記を書き写してみる。  つづく
                   (。・ω・)ノ☆゜+.バイ!
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2005年09月04日(日)
1615, アメリカインディアンの教え -3

「死ぬことが人生の終わりでないインディアンの生きかた方」ー著者・加藤諦三
加藤諦三とは懐かしい名前である。 20歳代の頃、よく彼の本を読んだ。
心が休まる内容だったことを憶えている。現在は「心の癒し」系の本は多いが、
当時は殆ど見当たらなかった。癒し系の日本の先がけだった。心理学系の先生で、
理づめであったためか、解りやすく納得のいく内容であった。彼の本を手に取る
のは三十数年ぶりだが、履歴をみるとその後も多くの著書を出しつづけていた。
彼はこれまでも、「インディアンの教え」のシリーズも何冊か書いている。
(このHPでも、過去に二回インディアンの教えについて書いている。)
 この本の構成は、アメリカインディアンにとっての
・生きるということ、 ・死ぬということ、 ・自然という存在 
 の3章になっていて、それぞれアメリカインディアンの根底に流れる哲学に
関して記述されている。 冒頭に「死ぬことが人生の終わりでない
インディアンの生きかた7か条の教え」が書かれていたが、心に沁みてくる。

ーword 1
変化は必要