* 貧乏の性分  〜『貧乏の神様』柳美里
 芥川賞の売れっ子作家の柳美里の本を、図書館や書店でみかけていた
ため、その印税たるや常識的にみて数千万は軽く超えていると思っていた。
ところが、預金ゼロ、電気光熱代の支払いも窮しているという内容である。
 私を鑑みると、幼児の頃から商売で苦労していた両親をみていたことと、
その両親から子守唄のように「金の重要性」について、聞かされていた。
特に節約と、万一の備えとしての長期積立預金の必要性を、人生の基本と
インプットされてきた。その割りに、最後は、この様だが、総額の15%前後
を家内名義の給与として40年近く積立をしていた。(反面、残りの85%は、
使うようにしてきた)。 それが、5年前の節目時の命綱になったいた。
「貧乏の性分」の逆を考えると、「節約、長期積立預金、小銭を大事に扱う」
になる。金を敵のように扱えば、返り討は至極当然。 〜その辺りから〜
≪ 2012年3月16日からは南相馬市役所内にある臨時災害放送局南相馬
 ひばりエフエム」で、毎週金曜日「ふたりとひとり」という番組の
パーソナリティを務めています。3月6日現在で第143回まで放送されました。
 この仕事は、無報酬です。これからは、交通費も宿泊費も食費も支給
されません。その経費が年間いくらに上るのかを計算したことはありません。
自宅に1万円だけ置いて、5万円を持って南相馬に1週間滞在する、という
ような生活を続けているのです。 非常識だと思います。 けれども、
書くことを仕事に選んだ18歳の時から金銭的や時間的には無理はしても、
自分の性分や生き方には無理ない仕事をしようと決めたのです。・・(略)
 この15年間、貯金をしたことはありませんでした。
お金の使い方、金銭感覚は、両親から受け継ぐものの一つかもしれません。
 わたしの父と母は、ほぼ年子で4人の子どもを拵えましたが、ただの一度も
貯金をしませんでした。父はパチンコ屋の釘師で高給取りでしたが、競馬や
ポーカーや将棋などの博打で給料を摩って、家にはお金を入れませんでした。
生活費を稼ぐために母はキャバレーのホステスとして夜の勤めを始めた
のですが、給料日前には困窮を極め、白飯に緑茶や麦茶をぶっかけただけの
お茶漬けやパン屋からタダでもらってきたパンの耳などで食い繋ぎました。
 わたしの父母の両親も貧乏人でした。それこそ親の敵のように父と母が
散財を繰り返していたのは、収入が支出を上回ることに罪悪感のような
ものを抱いているのではないかと思わざるを得ないのです。
 倹約や貯金は、お金持ちの習慣なのではないかという気すらします。
つまり、そういう家庭内の習慣を子孫や社員に文化として伝授したから、
お金持ちになったのではないか、とー。
 父親に刺身の小皿に醤油が残っているのを見餐められて、「自分の使う分を
見越して醤油を出せないような奴はまともな経営者になれん!」と殴られた、
というある大会社の社長の幼少時のエピソードを思い出したりもします・・≫
▼ ネット検索によると、柳美里は「無頼派の系譜の作家」と評されていて、
 小説ネタには、この性分があればこそ。としても、これは、つらい性分。
在日朝鮮人の大陸的気質もあるのか? 三代続いた家族の金銭感覚は、
一般人とは少し違うようだ。病気、事故とか、寝たきりになった時に、
如何するのだろう。他人事ではないか? 事業を立ち上げる度に、
「もし、失敗したら、如何する?」の内語も一緒に立ち上がる。30年、40年
かけてきた万一の備えも、この不安、恐怖から出てきた知恵。一般的にいえば、
「消費社会は、収入の2割増しの欲望を掻き立てる。しかし、日本人は、
2割を預金か、投資にまわす性向がある」。 固定社会の島国の知恵だろう。
・・・・・・
5045,生と死をめぐる断想  ー2
2015年01月06日(火)
             『生と死をめぐる断想 』岸本 葉子(著)
   * 頼藤和寛 〜にもかかわらず、生きる
 『人みな骨になるならば』頼藤和寛著 の書評を数年前、ここで取上げた。
底しれないニヒリズムと、「にもかかわらず、真摯に生きる」頼藤の姿に
心が動かされた。ここで岸本は、「だから」「しかるがゆえに」の換わりに、
「にもかかわらず」の頼藤の生き様、言葉に励まされる。ーその辺りよりー
≪ 願望に基づく世界観の構築を、彼は拒む。自らの避けられない死際にしても
その立場を徹底する。その姿は、認識の鬼とでも形容したくなるような、ある種
の凄みを持っている。医師を続けてきた頼藤は患者から「何も悪いことをして
いないのにどうしてこんな病になったのか」という抗議を幾度も聞いてきた。
 彼は述べる。科学的に研究をすれば、善人と悪人とで罹患率や平均余命などに
有劣の差はないと、証明されてしまう。心理学は善悪に関して死後の因果応報を
信じがちな人ほど願望充足的な推論や希望的観測を多用するという実験結果を
つきつけてくるかもしれないと。「自然現象に人間的な道理は通用せず、
来世で辻褄を合わせようとする世界観は心理的な自慰にすぎないことを強く
示唆している」。(頼藤和寛『人みな骨になるならば』)
・おそらく世界の実相は、人間の都合とは無関係にある。
 「このことを、実は、何千年もおんちょうのあいだ人類は怖れてきた。
 われわれは幸福がなにかの恩寵によるもので、耐え難い災厄ですら
 なんらかの意味をもつと信じたがった」。
・「世界には、ニヒリズムを突き崩せるような物証は何もない。なぜなら
 われわれは、自分が信じたいように世界を観たのではなく、人間に可能な
 かぎり禁欲的に宇宙のありのままを見据えてきたからである」 
しかし、前向きに生きれば治癒につながる、「だから」前向きに生きるとする
なら、その基盤は脆弱だ。「前向き」でいたのに亡くなっていった人は、周囲を
見渡しただけでもどれほどいることか。治癒を期待し前向きに自分を保つなら、
それでも再発進行した場合、「ならばどう生きても同じだ」と投げ出すことに
なりかねない。「だから」「ならば」「しかるがゆえに」の論理の危うさを
感じていた私に、「にもかかわらず」の哲学は頼もしく思えた。世界には
説明のつかないことがたくさんある。説明不可能性に耐えよ。そう著者に
言われている気がした。「何千年ものあいだ人類は怖れてきた」と彼が言う
世界の実相。人間が受け入れやすいようその上をおおっていたべールを、
近代科学がはぎとって暴いてみせたところでなお、人々が怖れているならば、
世界の実相がやはり「怖れるに足る」ものだからだろう。何千年も怖れられ
続けてきたものに、たまたま近代以降に生れたからといって、人間がひとり
丸腰で対峙することが、果たしてできるものだろうか。自分がニヒリズム
どこまで貫けるだろうかという疑問もある。・・≫
▼ 死の淵から生還した人にとって、「にもかかわらず、生きる」より、
 「にもかかわらず、生きている」ことになる。死は、特に己の死は、
 直視できない永遠の課題。だから、宗教が必要になる。神の御国に
帰っていくイメージである。生くさい恐ろしい死のイメージを、長年かけ、
優しい神様がいる天国のイメージへの転換が必要になる。死んでしまえば、
それまでよ。にも関わらず、彼岸には、あの世が待っているイメージ。
 で、以下の三年前の内容に繋がっていく! 丁度、あの修羅場?の最中
ーー。
2011/03/18
3279, 人みな骨になるならば −1
「人みな骨になるならば」 頼藤和寛 著
 なかなか面白い人生論である。 副題がー虚無から始める人生論ーである。
初めから終わりまで、「人はみな骨になるならば」の虚無の思想が、どの言葉の
後ろにピッタリと付いている。といって、読んでいて気分が悪くならないのは、
本人の持っている温もりのためか。この本を書き終わった数年でガンが発見され
亡くなった。そのプロセスを書きのこした本『わたし、ガンです ある精神科医
の耐病記』も出されている。「斯う居るも 皆骸骨ぞ 夕涼み」(一茶)の句が、
この本のテーマである。そして次から次へと繰り返される虚無思想。
・「誰しも認めたがらないことではあるが、おそらくわれわれ一人一人の
 人生が一種の無駄である。」とか。
・「我々には何十年という時間が与えられてしまっている。・・どうあがいて
 みたっって、逃れられない人生という檻のなかに?我々は産み落とされて
 しまったからには、檻の仕組みや外側がいかようであれ、にもかかわらず、
 その檻の中で 一舞いしてみせる?しかないではないか」
・「人生に、意味なんて無い。けど、何かに意味を見出さないと、人は生きて
 いけない。だから、自ら意味を作る。それはまるで、無神論者が祈る神の
 ようなものだ」とか。宇宙人?の視線である。
   ーここで「エゴ・トリップ」という幻想を紹介している。
【「わたしが生きようが死のうが大したことは、といった現実は非常に
 不愉快な現実である。たぶん、宇宙から見れば、一匹のゴキブリや一本の
松が生きたり死んだりするのと大して変わりない。この現実から逃れるために
人間は実にさまざまのことをしてきた。われわれの自我は、そのような酷薄な
現実に堪えられないようだ。それに堪えるため人間は自分の意味を膨らませる
ため、自分を誇大視するか、あるいは自分が属する何かを大層なものにするか、
に心をくだいた。・・自分の存在を「なにものでもない。」という実態から、
「なにものか」であるような幻想へと昇格させようという営みの全てを
エゴ・トリップという。自分を膨張させようとする、あえない試みである。
これは子供の背伸びから、青年の客気、男女の虚栄や見栄、年寄りのあがきに
至るまで、およそ人間の煩悩や業の全てに浸透している動機のひとつである。
宗教的な修行や脱俗ですら、それによって自分を特別なものに昇格させたい
という目論見が透けて見える。 】
 ー考えてみれば、われわれの生活の中で何らかの努力をもった営み全てが、
このエゴ・トリップと考えると、人生そのものがエゴ・トリップゲームになる。 
しかし、秘境ツアーで大自然の美しさや広大な姿に触れ、感動した経験を多く
持つ身にとって、それはエゴ・トリップとは違う、と思うが、どうだろうか。
 特別に昇格したいのでなく、対象に自分が溶け込んでしまう経験そのものが
良いからである。すべて夢の中 か〜 そして、すべてがエゴ・トリップ
でしかないのか? そう思うと気が楽になるが!
・・・・・・
4680, 偶然からチャンスを見つけだす能力
2014年01月06日(月)
  ー偶然からモノを見つけだす能力―「セレンディピティ」の活かし方
                          ー沢泉 重一(著)  
  * 人生は偶然を織りこむ絨毯づくり!  
 人生を振返ると、出会った人、出会った出来事が果たして偶然だったか、
必然だったのか、考えさせられる。偶然に機会を見出すためには、目指す夢と
目的が必要になる。そこに機会を見出すには素養と準備が前提だから。
その偶然からチャンスを見出す能力「セレンディピティ」は、イスラムの寓話
セレンディップの三人の王子」が語源。ドラゴンを退治する巻物を探すため、
自慢の王子が送り出される旅の途中で、多くの危険と苦労を味わうが、
そのつど判断力を働かせ、それぞれ理想的な姫と知りあい、幸せに暮らした
という神話の原型が、そこにみてとれる。英和辞典には「当てにしなかった
ものを偶然うまく発見する才能」とある。 ー内容紹介とレビューからー
【 偶然のチャンスをいかに生かすか、見出す秘訣がここにある。
 世界的発見の多くは、"偶然の所産"であった。 古い寓話に由来する言葉
 <セレンディピティ>は、偶然のチャンスを生かす力を指すキーワードとして、
 科学者や先端的ビジネスマンの間で高い関心をよびつつある。】
  ー読者プレビュー 
●【「セレンディピティ」は、狭い意味では「探していたものを、他を探して
 いるときに偶然に見つける能力」。この本ではより広く「偶然を見逃さずに
成功につなげる能力」という意味で使っている。 著者が編み出した
「偶察力(偶然を察知する能力)」という言葉は、しっくりくる。
面白いのは、セレンディピティを高める方法論。世界的革命をもたらした
発見の共通点をあげたり、トマス・クーンの唱えるパラダイムシフトの関係や、
シンクロニシティとのちがいなどを述べている。さすがセレンディピティ研究
の先駆者が書いたものだけあり、これは発想に役立つと思うところが多かった。
とくに「7 セレンディピティの向上」の章では、意図的にセレンディピティ
高めるための一連のシステムを紹介している。偶然という現象について述べた本
アーサー・ケストラーなどがあるが、この『偶然からものを見つけだす能力』
はその偶然を人間の力によってうまく引き出して利用しようというもの。
「自分にできるかも」という期待感をもたせてくれる。また、偶然がともなう
ブレークスルーは、ともなわないよりも大きな成果をもたらしうるというから、
セレンディピティを高めたい気持ちは高まる。】
●【「偶察力」という言葉に置き換えて、これを一種の「能力」とし、仕事に、
日常生活に、趣味に言葉遊びに、知的仕掛けとして使っていこう、という話。
驚嘆すべきは、著者の博覧強記ぶり。セレンディピティを巡って、起源、歴史、
 古典、映画、科学論、科学史、書籍、新聞、雑誌、ネットなど、おおよそ
あらゆる情報ソースを駆使し、ちょっとした日常の場面で、どんな場合にどう
適用していくのがおもしろいのか、を、わかりやすく書いた文章です。】
▼ 必死に捨身で何かを目指していると、その何かより、プロセスでプラス・
マイナスの機会に出くわす。そこが、分かれ目で信念が試される。人生の節目
には思いもよらない機会が隠されている。 そこで、運命を恨むか、他者の
中傷に汚れるか、自分の信念を見つめ直し、新しい一歩にするか、その人次第。
その意味で、この言葉は人生を振り返るに、考える糸口になる。 節目は、
順境のアップスケール(脱皮)より、逆境の破壊の状態の方が多い。その時、
思いもよらない学び、チャンスが現れる。私にとって、現在の節目はベスト?
それが「セレンディビティ」の一言に凝縮。遇察力が飛躍的に向上、御陰で
様々な見えてなかったことが鮮明に見えてきた。
 人生は短し!より濃厚に日々を生きろ!ということ。 
・・・・・・
4313, 幸せはいつうもちょっと先にある −3
2013年01月06日(日)
   「幸せはいつもちょっと先にあるー期待と妄想の心理学」
                    ーダニエル・ギルバード著
 人間の脳は、過去の失敗に対して無意識に自動的免疫をするように出来て
いるようだ。私の事業が、大津波(金融恐慌)で儚く流されても、後悔も、
未練も少ない。万一の手立てをしていたことがあるが、経済的震災に遭遇した
事に、後悔も愚痴も無駄、を知っているからだ。しかし、そこには、心理的
免疫システムが働いていたようだ。 ーその辺りを抜粋してみる
  * 前向きに過去をみる ー心理的免疫システム
≪ 我々は、過去に手痛い大失敗や、失恋を、「これまでの人生で最良の
 出来事か」か、「人生最悪の出来事か」と表現するかと尋ねたら、最悪より
最良を支持する人のほうが多いだろう。逆に、その経験をしてない人に、この
質問をしたら誰一人として失敗や失恋を上げない。失敗や、失恋は過去の出来事
として見るとき、実際よりバラ色にみえる。人間の脳は、それほど酷くない
理由を探し始めるように出来ている。これを心理的免疫システムという。 
我々は自分の脳の変化の過程を自覚しないため、見方が変わるなど考えない。
そのため未来の感情の予測が難しくなる。これを知らなかったために将来にも
同じことを繰り返す。ところで人は、行為より不行為を強く後悔するのだろう。
それは心理的免疫システムは、行動しなかったことには働きようがないからだ。
プロポーズして振られても、そこから多くを学ぶことが出来たとしても、何も
しないと、学んだり出来ない。心理システムにとって行き過ぎた勇気の方が、
行き過ぎた臆病さより正当化しやすいからだ。それを我々は分かってない。
その時、つまずきながら前に進むべきときに、両面作戦に出てしまう。 ≫
▼ 天風の積極一貫の信念で何事にも前向きに立ち向かうべきということ。
 手痛い失敗も、しない失敗より良い。事業についても同じ。
‘ああ、面白かった!’ただ、それだけ。 その辺りが、傍で不幸と
決めつけている人との違い。ところで、日本人は幸せなど正面だって使って
なかった。明治以降に、ハピネスあたりの当て語として使われた。
  それらしき言葉で、「良いめぐりあわせ」といった程度のもの。 
幸福とは個人的な心情だが、儒教的考えでは、そういう考え方とあわない。
それに対し欧米人は、個人主義が強いこともあり、臆面なく「幸福」を論じる。
  幸せも、妄想でしかないという視点でみると、分かりやすい。
幸せだったと思えば幸せ、不幸だったと思えば不幸である。それなら幸せ
だったと思えばよい。所詮、全てが妄想。それでも、幸せと思えない? 
それこそが貴方のバイアスである。
・・・・・・
3938, 閑話小題
2012年01月06日(金)
  * 車修理
 去年の暮れ車庫のブロック塀に車の後部をぶつけてしまった。 
経験からみて最悪の場合10万円以上、少なくとも7〜8万はするはず?だが、
あくまで業者が判断すること。そこで三ヶ所の見積もりをとったが、5万4千、
8万5千、20万円と出た。よくぞ、これだけの差が出たものと驚いた。
20万円のところは、「修理不能で、その部分のパネル全体を取り替えないと
無理」というが、他はそんなことを言ってない。当然、5万4千円のところに
決めたが、20万とは、いい加減なもの。そこで思い出したのが以前も
見積もってもらったこと。 高いので他にしたことを思い出した。
 高くなる算段で修理を考えるのと、安くなるように算段して何とか注文を
取ろうというでは4倍近くも違うということ。そこはバイパス近くにある
車社会では一等地。高くなるように見積もっても、客は絶えないのだろう。 
今回決めたところは川崎のカーコンビニ、高いところは?ネット上では書けない。 
家電でも何でも最低、三軒の見積もりは必要である。ところで、年末年始で修理
工場が忙しいということもあり、三週間も、そのままの状態で車を走らせていた
ことあり、他の車の傷が気になり見ていたが、本当に少ない。そういえば、
街で車が凹んんだまま走っているのを殆どみかけない。 これまでも、たまに
見かけると振り返る程だった。無傷が当たり前と思っていたが、外国では平均的に
見ても多く見かけられる。考えてみると、その国の豊かさに比例している。 
服装と同じ感覚である。 まだ修理待ちでヘコンダ車に乗っているが、
あまり気にならないのは? いや、やはり気になる?
  * 男はつらいよ
 以前も、ここで何度か「男はつらいよ」について書いたことがあった。 
年末年始は必ずといってよいほど、48シリーズの幾つかを再放送するが、
今年は全シリーズの放送をしていた。その何本かを見たが、家内が大嫌いで、
私が見るのも嫌がる。しかし何度見ても、その都度、考えさせられる。 
少し頭の軽い気の良い流しのテキ屋。 全国各地の祭りを追い旅をしている。
美人に惚れっぽくて、その見返りで、やたら女性にモテる。見境なく惚れるから、
女も悪い気がしない。そこで、ヤクザ者のペースに嵌っていくが、実は他に
目星の男がいて振られるか、上手くいきかけても本人が自分の立場に気づき
身を引く、という物語。テキ屋の世界は、甘い世界ではない。 社会からは
一歩食み出でた悲劇と喜劇の屏の上の際どさに味わいがある。人間社会の悲哀を、
主役の寅さんを通して表現している。その素朴な女性への憬れが、仏の温かさと
二重写しをしている。それと時々帰る親戚の家族の温もりが、今は無くなりつつ
ある家族生活を疑似体験させてくれる。私が社会人になった年に映画化が始まった。 
四日市、神戸、東京、金沢、千葉と転々としていた頃、擬似家族の温もりを、
あの映画の中に求めていたようだ。家族の絶対のベースがあればこそ、
人間は正常でいられるのである。ネットの擬似家族もあるか?
・・・・・・・
3573, デジタル進化論
2011年01月06日(木)
 日経新聞がデジタル進化論の連載を始めた。ークラウドが迫る転換ー
がサブタイトルである。iPodの登場から10年、これがiPhone、そしてiPadと、
直感操作型情報機器へ広がりを始めてきた。パソコン登場から30年が経ち、
次の展開として、スマートフォンとか、タブレット式パソコンなどに軸足を
移し始めてきた。iPhoneの登場から僅か4年で、パソコンの売上げ台数の
3億8千万台を、今年中に直感式情報機器が上回るというから、尋常ではない。
特にタブレット式無線パソコンが、この数年で爆発的な普及が予測される。
シャープもキーボード付パソコンから撤退を表明、タブレット端末に集約、
電子書籍サービスで稼ぐ事業モデルに転換する。「アプリ」もパソコンソフト
と同じぐらい揃っており、数十万本もあるというから、成功すると見てよい。
ソニーも、ドコモも、auも、それぞれの特性を生かした戦略で進出を
始めているので、数年で、市場は激変する。 昨年だけでアップルは。
iPhoneを3300万台、iPadを1800万台を売ったという。今後、世界中の
大手が直感式情報機器の販売に入るため情報化は更に進むことになる。そのため
情報の量と質が格段にアップする。それと比例して世界に情報が行き渡り変化
を加速させることになる。それが、更なるグローバル化、平準化、一極化が進む。
そうこう考えると、時代は激変を止めることは不可能といえよう。デジタルと
いえば、数ヶ月前に入れたテレビである。値段は、一般の二倍以上したが、
テレビの画質、音質、機能等は、明らかに数倍のもの。で、何が変わったか?
というと、映像対象の内容が違って見えるようになったこと。これら
デジタル化は、人間のあり方まで変えていく、良いにつけ、悪いにつけ。
 経済も含めて今後10年で世界は、日本は、どのように変化していくのだろう?
10年前からみて現在は想像を遥かに超えている。 問題先送りになってしまう
大きなマイナスもある。「心配ごとは、明日に!明日はこないのだから」で、
手遅れに?か。
 ・・・・・・・
3198, 句読点とは妖精のようなもの! ー2
2010年01月06日(水)
 * 検索で「句読点の打ち方」と入れたら、次のようなものが出てきた。
・文の息の切れ目に読点を打つ  ・対等に語句を並べる場合に打つ  
・難読、誤読を避けるため使う ・文の構造を分かりやすくするために打つ  
・節と節の間に打つ(彼も喜び、私も喜んだ)
・前置きの節や語句を区切る(その夜、あなたはいなかった)
・挿入された節や語句を区切る
   (私はそんなこと、前にも言ったように、していない)
・主語を明確にするために打つ(私は、彼はそんなことはしていないと思う)
・修飾する語とされる語の関係を明確にするために打つ  
・読点と他の符号との連続はなるべく避ける
・会話の場合は「 」の外側に句点を打たない 
・会話以外の場合で、「 」や( )などで文が終わる
 

つれづれに

イメージ 1

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  今日のYoutube

 食事も、酒も美味いし、夜は熟睡できる。
運動も週に5日間通い、体調は悪くない。
ただ、腰痛が、寒さに比例して、顔を出すが、
それは仲を良くするしかない。

年頭早々、また中国の株式市場が、ブラックマンデーの様相
になってきた。半年前の、暴落で、取引中止の半数の銘柄が、
明後日に、取引解禁になるが、今回の暴落で、その半分?が
取引が出来ないとすると、その結果は、いかに?
 解禁の銘柄が、そこで7%ダウンで再びとなると・・・ 
官製の株式相場の株など誰が買うものかになる。 
こうなると、笑うに笑えない!


・・・・・・
3198, 句読点とは妖精のようなもの! ー2
2010年01月06日(水)

* 検索で「句読点の打ち方」と入れたら、次のようなものが出てきた。

・文の息の切れ目に読点を打つ
・対等に語句を並べる場合に打つ
・難読、誤読を避けるため使う
・文の構造を分かりやすくするために打つ
・節と節の間に打つ(彼も喜び、私も喜んだ)
・前置きの節や語句を区切る(その夜、あなたはいなかった)
・挿入された節や語句を区切る(私はそんなことは、前にも言ったように、していない)
・主語を明確にするために打つ(私は、彼はそんなことはしていないと思う)
・修飾する語とされる語の関係を明確にするために打つ
・読点と他の符号との連続はなるべく避ける
・会話の場合は「 」の外側に句点を打たない
・会話以外の場合で、「 」や( )などで文が終わるときは句点を打つ
・「 」や( )などのなかに入る最後の文については句点を打たない
・「――」や「……」で終わる文には句点を打つ
・箇条書きには句点を打たない
 ー以上だが、本を読み込み、自分の文章を書き続れば自然と身につくものだが、
 上記は、ほぼ実行している。(会話の場合は、どうだったか?)
 上記の句読点の打ち方を見る限り「妖精のようなもの」には、疑問だが。
 チャンとしたルールがあり、別に神秘的ではないし、神のシモベには思えない。
 文の息使いは、それぞれあるから、上記のことを守っていれば、
あまり意識をすることはない。文章の(、)と(。)は、書くほうも読むほうも、
相互の呼吸あわせになる。  だから校正で一番、気を使うことになる。 
と同時に、書きなれてない人は、このうち方が最も難しくなる。

 ・・・・・・・・
2833, 年始のTV 討論で印象的だった世界経済の論評
2009年01月06日(火)
 年末年始のワイドショーで経済学者等の金融危機に対する論評を可能な
限り聞いた。一年以上かけて十数冊の関連の本や新聞の解説や論評を読んで
いたこともあり、目新しい内容は少なかったが、それでも、「おや!」と思う
部分を紹介してみる。
 ーー
・岡崎元大使がアメリカで驚いたという次の内容が面白い。
 「アメリカで感じたのが、日本で感じるほどアメリカ全体として暗くない。
一部の勝ち組と称す連中がサブプライム入り債権を買って大損をしていてのを、
大多数が傍目でみて喜んでいる雰囲気がある」という。日本のバブルがハジケて
北海道拓銀が倒産したときに、札幌に講演に行った将棋の米長邦雄がタクシーの
 運転手から意外な話を聞いたという。「北海道の道民は、本当は心の底で喜んで
いるんですよ。あいつ等、特権意識を持って威張り散らしていたのが、あの様で
しょう。確かに辛いけど、あいつ等の姿を見るのが嬉しいのが道民の実際の感情です」。 
この直後に彼の講演で聞いたので、社会とは、こういうものかと驚いた。
 それと同じことがアメリカの多数の感情とみれば理解できる。ビッグスリー
首脳がジェット機で議会に乗りつけ政府に資金援助を要請するなどは、国民感情
逆撫でることを彼等は気づいていなかったのである。アメリカではサブプライム
ローンを払えなくとも物件を手放せば、それ以上の追求を逃れることが出来る。
 借りている被害者は、日本の立場とは全く違う。 元々ほとんど資産がない連中。
 本当の被害者は、その毒入り債権を買ってしまった中産階級以上の国民と銀行である。 
 それが恵まれた連中と金融機関とくれば、マイナーの大多数?の心中は拍手喝采
人間の心情である。これはマスコミには載らないニュースである。 
少しは日本にも、その感情があるのだろう。数ヶ月前までは、日本はバングラデシュ
並みのマイナーの国として金融立国とかで謳歌していた
 連中に蔑視されていた。しかし、これで全てが日本以下になる。
但し5年後は、その下に陥るのは間違いないが。
アメリカ国家の借金は国民一人当たり1600万、総額4600兆円という。
 ちなみに日本は莫大と言われても一人640万円で、800兆円。これでは
国家経済は破綻状態である。アメリカ国民3億人のうち、飢餓?状態の200万円
以下の人たちが12%にあたる3700万人もいる。1929年の世界恐慌
収まった原因はニューデール政策といわれいるが、実は第二次世界大戦で、一度世界
のマイナスが清算されたためという。1929年の時のアメリカの失業者は労働人口
の25%であった。それより、今回の恐慌は遥かに大きいというから、最低でも
十数年は大混乱が続くとみてよい。
・日本はバブル崩壊後に「輸出立国」のモデルをつくりあげ、何とか経済を維持してきた。
 それが根こそぎ破壊されたのだから、日本はアメリカと同じように破綻の道を歩む運命?
  ーーー
 毎日毎日、恐慌のニュースである。マスコミは自制しても、ネットで事実が一瞬に流れる。
 そうすると、その差を国民の方が見てしまう。そこまでネット社会がいっているのを、
役人も政治家、もっと言えば、マスコミボケをしているマスコミの連中がネットの
凄みに 気づいていないと思いざるを得ない。

 ・・・・・・・・・
2008年01月06日(日)
2468, サブプライムとは何か -2   (゚Д゚*)ノ⌒【おはよう】
   『サブプライム問題とは何か』春山昇華著    宝島社
サプライム問題はアメリカの覇権主義の正体そのもの!である。その実態は、日本が
この十数年の間に犠牲になったムーディーなどの「格付け機関」という怪しげな格付け
というマジックを使った債権詐欺?だった。まだ、あの格付け機関を日本の一部マスコミ
でも信じているようだが。このマジックで、日本の企業はアメリカに買いたたかれたのである。
日本企業を買い叩くために「格付け機関」を作ったともいわれている。去年の末からサブ
プライム問題が問題になり、週刊誌や月刊誌に大きく取上げられた際に随想日記にも取上げた。
先日、知人からこの本を借りて読んだところ、より深く問題を掘り下げていた。
TVで解説しているほど、実態は甘くないようだ。ここで、そもそもサブプライムとは
どんなローンなのか、その融資を受ける「信用力の低い個人」とはどんな人たちか、
彼らにローンを組ませるためにどんな金融業者が暗躍したかが生々しく書かれている。
その露払いが、さきほどの「格付け機関」である。屑のような債権を、格付けAや
トリプルAを付けて世界中にばら撒いた。プエルトリコや、黒人などの所得が低かったり、
過去に住宅ローンの返済が滞ったことがあるという理由で、一般の住宅ローン
(プライムローン)を借りることができない人向けの融資を金融機関は積極的に債権化をした
のである。一般のローンより金利が高いが、初2年間だけは返済額が小さく抑えるなどの特徴
があり、低所得者に広がっていった。この背景は住宅価格つまり担保価値が上昇し続ける
ことが前提になっている。しかし信用不安などで値下がりが始ると雪崩をうって崩壊を始った
のである。この中では、住宅価格上昇の絶頂期だった2005年ごろに登場した忍者をもじった
「ニンジャローン」を取上げている。ここまで来ると芸術的犯罪に近くなる。NINJAとは
ノー・インカム、ノー・ジョブ・アンド・アセットの略で、所得がなく仕事も資産もなくても
借りられるというものだ。このローンの背景には住宅価格が上昇すれば、担保余力が
生まれるため、自動車ローンや消費ローンなども組みやすくなる。
ローンを借りたい人たちにとって、これほど良いチャンスはない!まず家を持ち、
自動車や家電製品を買いまくっていた。債権の買い手さえが、自分がどこまで被害に
あっているか解からないところが、問題の深刻さを現している。この実態を知れば知るほど
深刻である。もともと、アメリカが国家単位でしていることを、民間レベルに切り替わった
だけと言えるところが皮肉である。これをキッカケにアメリカ国債やドルに対しても
不信感が重なる。その意味で、今年はこの問題は大きな波乱要素になることは必定である。
                        ヾ(●゜ⅴ゜)ノ バイ!               
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2007年01月06日(土)
2104, 勘違い!
  オッ(*^○^*)ハ~ヨウサン!
先日のモーニングショーで、TVで勝ち組?の六本木ヒルのマンションに入居の社長と、
月十万円を稼ぐのに必死の三万円のアパートに入っている漫画本講談師との、二人の
年末の日常を、同じ時間軸を対比しながら映し出していた。共通点は、20歳代後半と、
フリーター出身である。私の目からみれば月十万円の漫画講談師のほうが遥かに良い
一日を過ごしている。それが画面にはっきりと映し出されている。地に足をしっかり
つけて一日を過ごしているのはどちらか歴然としている。しかしディレクターの素材
の問題だろうか、それとも実際は、私の指摘した隠れ真実を?ディレクターは言い
たかったのだろうか。モダン主義と、ポストモダン主義の問題そのものである。
誰もが認めるような大きな成功物語を良しとするか、それとも、自分がしたいことを
傍の目をものともせず生きる物語を良しとするか。コミックなのは、成金の方が
一時代前の価値観で生きていることだ。だから漫画講談師と対比させたのだろうか?
いや違うだろう。何が六本木ヒルか笑ってしまう。あれが何だっていうのだろう。
気の毒な連中の収容所でしかないと思うのも私だけだろうか。満足感の問題だから
敢えていうこともないが、ただ単純に、こちらは良い、あちらは悪い、と決め付ける
ことに問題がある。たまに泊まる分にはよいが何じゃありゃ!でしかない。
これは私の立場。村上某とか、ライブドアの某とかいうパンダが、証明したではないか。
自宅から歩いて数分の所の土手の彼方此方に鴨がいて、セキレイが飛び交っている。
どっちが素晴らしいというのだろうか。そんなこと決まっているじゃないか、
というのは年齢のためか。下の息子も一昨日鉄骨ジャングルに帰っていった。
嬉しそうなところが、痛々しいが・・ 彼の方は、小さな世界に安住している地方の両親!
と位にしか、見えないから、それは年齢と適正の違いもあるが話が逸れたが、漫画本
講談師の男、毎日がスリルとサスペンスだろうが、楽しそうでないのが気になった・・
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2006年01月06日(金)
1739, 人生の自己採点
   ま! (。・・)_且~~ お茶どうぞ
 私の何気なくする質問が時々キツイことをいう。
 その中でも特に顔色を変える質問がある
「これまで生きてきて、自分の点数をつけるとしたら何点?」)))(゚o゚;)/ギク!
 思わない質問に、自己評価をどうしてよいのか一瞬たじろぐ。 おそらく、
その後かなり悩むのではないだろうか。それも次の言葉を加えるから厳しい。
「一応、あなたが考える第三者の評価も含めて勘でよいから感覚的な数字をあげてみて」と、
 一瞬の間を置く。大体、70点以上の人は直ぐに答えるが、それ以下の数字を頭に描いた人は黙る。    
 この答えをはぐらかすには、「合格点が60なら、その辺かな?いや努力をしたので70点あたり。
 しかし他人は50点以下と評価するだろうな!」知、力、愛の三分類をして、それぞれの点数を
自己評価して、その平均値を出してみると解りやすい。「そんなことなど、お前の一番嫌う
世間体の視点でしかないだろう!馬鹿なことを言うな!」という心の奥の声が響いてくるが!
 私の義兄の弟(長岡高校の同期)に数年前に遇ったとき聞いたら「93点!」と答えた。   
 松下電器でかなり出世をしたという。そのとき私の答えは「83点」であった。 
 少し無理をしたか?      
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2005年01月06日(木)
 1374, キュープラ・ロスー2
ロスに関して、もう少し詳しく書いてみる。
ターミナルケア(終末期医療)のテーマにおいて最も愛され、尊敬される第一人者の存在。
若き日の勤務していたニューヨークの病院での瀕死の患者の扱いに彼女は愕然とした。
〈彼らは避けられ、粗末にされ、だれも彼らに正直に接していなかった〉彼女は他の同僚達
とは違い、いつも末期の患者と供にいて、彼らの心の声を聴いていた。そして彼女は
「自らの経験を語る瀕死の患者についての講義」を始めた。1969年の最初の本「死ぬ瞬間」
はキュブラー・ロス博士を世界的に有名にした。〈私の当時の目標は、患者が心の奥深くの
悩みを訴えることを禁じる専門家の拒否の姿勢をうち破ることだった〉と書かれている。
このテーマについて何年間も満席の聴衆に向かって話をし、20冊以上の本を書き、
25カ国語以上に翻訳され、また彼女は20を越える名誉博士号を受けている。
1995年に彼女はひどい発作におそわれた。麻痺が残り彼女自身死と向き合うこととなった。
容態が安定したとはいえ、彼女は発作から完全には回復していない。
〈私はゲートを出たのに離陸できなかった飛行機のようなものです。
ゲートに戻るか、そうでなければ逃げ去ってしまいたい〉と正直に自分に語っている。
「世界中の人に愛を与えた聖女」の実像は家族をおきざりにして、
世界中の人々に愛を与えて歩きあげくの果てに、霊媒師に引っかかり、結局は一番最愛の人
(夫)を失ったともいえる。その晩年は孤独で淋しい老女だったことは間違いない事実。
世界中の死に直面をした人を救った彼女は、自分の愛する人を救えなかった。
皮肉といえば皮肉である。しかし、その矛盾した姿こそ、彼女の偉大の姿でもある。
「死の瞬間」の出版から、世界中の注目を集めた独りの女性は、その晩年の姿は決して
幸福ではなかった。先日のテレビの映像はその姿を生々しく映し出していた。世界的地位や
名声と引き換えに、一番大事な「家族との時間」を失った彼女の姿は聖女といえば聖女。
彼女の晩年に書いた「ライフ・レッスン」という著書も、なかなかの内容だ。
全てが人生におけるレッスンと思って生きていけば、全てを受容することが可能になるからだ。
若いときに鬱々としていた時、ふと「全てが人生の修行と思えばよいのではないか」
と思った経験がある。そして、その視点で全てを思い見直したとき、霧が目の前から
消えていく思いをした経験がある。人生全般からみたとき、死に直面した時こそ最大な
レッスンになるのだろう。両親に後ろ姿を、その時に身近でジックリ見せてもらった。
しかし、自分が直面しないと解らないだろうが、ロスは直面した時何を学んだか? 
一言二言では言い表せないのは当然である。
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2004年01月06日(火)
 1007, 激突!エコノミスト-今年の景気予測
一昨日の田原総一郎司会の「サンデープロジェクト」の新聞見出しが
「激突!エコノミスト」であった。経済予測をエコノミストが議論する
新年恒例の内容である。「小泉構造改革に展望があるか」を中心に議論をしていた。
ー内容をまとめてみると
・今の日本は「粉飾国家」とまで断言をしていたエコノミストがいた。
(以下、字数制限のためカット 2010年1月6日)
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2003年01月06日(月)
633、「不幸論」ー中島義道
 図書館で借りてきたユング派の哲学者の中島義道の不幸論が面白い。幸福論の
自己欺瞞を鋭く指摘したあとに、人間の最終結末の死をとらえて不幸論を書いている。
しかしあくまでも幸福論の批判であって、不幸論そのものを見すえて論じてはなかった。
 不幸を座視にして幸福論を批判するのは、逆に幸福論をより鮮明に浮かび上がらせて
理解するのに良い。幸福の構造は
1、自分の特定の欲望がかなえられていること
2、その欲望が自分の一般的信念にかなっていること
3、その欲望が世間から承認されていること
4、その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れてないこと 
特に1~3までの実現に4が生じてしまう。
 幸福論というと、エピクロスの快楽主義が思い浮ぶ。
「人生において、面白おかしくしたい事をする事が全てに優先されるべき」
バランスが問題になるだろうが。最近の幸福論としてヒルティやアランである。
ヒルティの幸福論はキリスト教の理想的なカタチ
・アランは内省ー解釈の仕方ー気持ちの持ちよう集約するとこんなものだろう。
私の幸福論はやりたい事を見つけどれだけやったかという達成主義である。
それもあくまで自己欺瞞でしかないのだろう。愛・知・力という3点に自分の目標値
は決め、達成のプロセスが=幸福という単純なものだ。しかし死を宣告された時に
その達成感など何の支えになるかと考えると、その前に粟粒でしかない。
この不幸論の一番気にいったところを抜粋した。
ーだいたい、幸福論を書こうという人の動機が気に入らない。
彼(女)は、
・まずだれでも幸福になるという基本態度を押し出す。
・次に、この磁石の上に、自分の体験を重ね合わせて、幸福とは大それたもの
でないことを、それは考え方を変えることで誰の足元にもころがっているという
壮大な建造物ー砂上の楼閣を創りあげる。これは幸福教の布教にすぎないまやかしである。
幸福そのものが虚妄なのではない。幸福そのものが、じつはあまりにも高いところに
位置する。幸福が安直に手に入ると思う事が、虚妄なのである。各人の幸福は自分の
五感で探すしかない。そしてヤコブが砂漠で神と格闘したように、全身全霊でみずから
の人生と格闘した後に、とうてい到達できない事を知って、絶望するほかない。
こういうことを悟った者は幸福でない。しかし、幸福という幻覚に陥っている者より
数段マシである。
ーー
以上がだいたい彼がこの本で貫いている主張の要旨だ。私の今の気持ちー敢えて
気持ちと書くーは以下である。両親や身近な人の死に様や生涯をみて、一生かかって
何かをやり終えた人生そのものの判断を幸・不幸という言葉で論じるべきでない。
それは酔ってる気分の状態を論じているにすぎない。
「酔って気持ちが良いか、悪いかの」まあ幸不幸は考えないのが一番幸福だ??

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2002年01月06日(日)
 292,システム・エンジェニアーSE
ソフトハウスの仕事の柱になるのはSEである。去年、下の息子がアメリカの会計系の
コンサルタント会社に就職した。勤めて初めての帰省で、会社の内容ー特にシステムー
を少しでも聞いてみた。あまり多く聞くチャンスがなかったが、「仕事内容は実際何だ?」
と聞いたところ、意外な返事であった。会計を中心としたシステムの「システムエンジニア
であった。なるほど!と思ったが、当然といえば当然だ。会社の(システム)改革は、
新しい進んだソフトを導入することである。そこでハッとした、事業も考えてみたら
システム・エンジニアでないかと!会社作りもそうだ。時代のニーズに対する、新しい
システム設計とそのカタチ作り(業態)を起業というのでは?間違えていれば即座に破壊される。
GE のウェルチのNO1戦略も事業のシステム設計でなかったか?設計会社も考えてみれば、
システム設計が本来の仕事である。この事は全ての事業に云える事でないか。
少し飛躍した論になってきたが、情報社会において、「システムとして選択と集中の設計」
がもっとも大事な課題であることは確かである。
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ある時間の断片
 1月6日 1969年
10時起床。 食後、11時から16時までジャスコに出す論文の下書きを完成。
それにしても集中力が足りない。構想力や文章力のなさに自分でも情けない。
絶対量の本を読んでなかったツケがこういうカタチになって出ている。
独りになる時間が少なかったのだろう。その為に、独りになると逆に縮んでしまうのだ。
焦りと、動揺がここにきて出てきた。リラックスをして自分をもっとしっかり見つめない
とダメだ。このように家に休暇で長く居れるのも、これが最後。
こうしてみると、やはり学生時代は人生で一番良い時だったのだ。