藤原正彦・レポート〜「読書と教養」が国民の大局観を育てる〜
  * 読書と教養が大局観を育てる
 読書をしない人は、直ぐに分かる。これだけは、隠しようがない。
今でも遅くない、学歴、血筋とは関係なく本だけは読まないと! 
 ここで、その読書と教養の必要性を、鋭く簡潔にまとめている。 
≪ 教養を、積極的に身につけていくにはどうすればいいか。
 もちろん、実体験を重ねることは非常に大切です。様々な人間と会い、
話をして、恋をしたり、裏切られたり、騙されたり、喧嘩をしたり、悲しい
別れにあったり、そういった体験すべてが教養になる。それが、後々の選択や
判断にあたって効いてくる。ただ、やはり実体験で得られるものは限られます。
1人の人が一生の間に関わることができる人間の数は限界があります。
ましてや、深く意思疎通をすることができるのは、その中でも一握りだけ。
そうすると、実体験による教養というのは、非常に重要だけれども、
限られたものにならざるを得ない。
 その点、読書を通してなら、古今東西の賢人の言葉に耳を傾ることができます。
あるいは、庶民の哀歓に涙すること、もできる。金持ちの驕り、貧しい人々の
苦しみに触れることもできる。美しいものに感動することもできる。
ありとあらゆる経験をなぞることができるのです。しかも、本には、誰かが
考えた「思考の形」が、まるごと詰まっています。普通の人がふだん喋る話は、
たいてい筋も順序もめちゃくちゃです。でも、本は、どんな本であれ、著者が
読者を説得するために必死になって書いていて、ちゃんと構造というものを
持っている。それを読むと、なるほどへ脳ミソの回転、論理の展開、とは、
こういうふうにするのだということを会得できる。物事をきちんと体系化する
能力、構造を分析する能力が身につくのです。 ・・(略)
 うちの女房の祖父は、今の愛知教育大学の前身の岡崎師範の教頭や時習館
高校の校長をつとめた教育者ですが、彼はいつもこう言っていたそうです。
「1日1ぺージでもいいから、必ず本を読んで寝なさい。1ページも読まないで
寝るのは、けだものと同じだ。けだものと人間との違いは、1ページでも
いいから、本を読むことだ」と。
 だから彼の子どもたちは、寝る前に2〜3へージでも本を読んで、寝ていた
そうです。この教育の効果は絶大で、そうやって育った子どもたちは、皆、
一角の人物になっています。'本を読まない人間というのは、けだものと同じ。
だからこそ、これからの子どもたちにどうやって本を読ませるようにするか、
真剣に考えなければなりません。
 例えば、齋藤孝氏の言うように、小中学校の通信簿の国語に、「読書」
という欄をつけ加えるのもいいでしょう。そうすれは、多くの親が率先
して本を読ませるようになる。子どもの頃に本の面白さに触れれば、
本が好きになる。独創的で素晴らしいアイデアです。
 私が考え売のは、東大の入試で読書を課すという方法です。
例えば定員の1・2倍までは学力一本で判断し、そのあと、定員の1倍まで
しぼる過程では、読書を中心に面接する。入試の3年以上前に課題図書を
100冊くらい挙げて、それについていろいろ聞くのです。そうすれば
きっと、学生は目の色を変えて読むようになるでしょう。東大がやれば、
ほかの国立大学や私立大学も真似をする。そうすると、子どもの時から本
を読むようになるし、読む習悩さえつけば、面白さが段々とわかってくる。
もちろん、「朝の読書」運動が成功したように、他にも方法はいろいろ
あると思います。若い頃に読んだ本というのは、とりわけ感激するものです。
そうした読書体験が失われることのないように、今こそ大局観をもって
この国の出版文化を守っていかなければなりません。≫
▼ 読書の積み重ねのないのは、年を重ねると表立ってくる。
 特に 青年期に読書習慣を身に着けておかないと。しかし、実際は10歳。
とすると、受験に追われ、大学から本気になって読書を始めた私は20年近く
遅かったことになる。その弊害が、今でも続いている。子供の頃から、母親が
常日頃から読書の必要性を説いていたが、その割りに読書をしてこなかった
のは私の素養の低さである。しかし、現在でも、吸い取り紙のように、知識が
入ってくるのは、長年の読書習慣の効果もある。いや、知的余白が有余って
いるためか。 余白という言葉自体が間違っている! 色即是空是空か。
・・・・・・
2050年の世界 ー13   
2014年10月04日(土)
「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」
            〜英『エコノミスト』編集部 (著)
   * 第十二章 グローバリゼーションとアジアの世紀 ーのまとめ
・『エコノミスト』誌グループのシンクタンクであるエコノミスト・インテリ
 ジェンス。ユニットは、今後の世界経済をおおまかにいって三つのシナリオ
に分けており、そのうちのひとつ、コントロールされたグローバリゼーション
の状態で進むと考えている。リーマンショックや欧州危機などによって、
市場主義に対する警戒から政府は一定の規制をグローバル化に対して課して
くるが、市場は開かれている状態だ。
・"後戻りするグローバリゼーション"というシナリオでは、不穏な空気の
中で保護主義の気運が高まると見ている。先進世界の大半で、経済の弱体化と
高失業率が不安を生み、保護主義をあおる。これにより、"コントロールされた
グローバリゼーション"という基本予想と比べると、2010年から2030年の世界
の年間成長率は数パーセント削られ、この期間全体では世界の生産高が大きく
落ち込むことになる。
・シナリオの三つ目、"凋落したグローバリゼーション"は、1914年から1945年
の縮小の時代に似ている(グローバリゼーションに背を向ける)。もしこれが
ふたたび起こると、成長に悲惨な結果をもたらすだろう。世界の成長率は年率
約1%にまで低下し、ひいては世界全体のひとりあたりの所得も減少する。
 最も大きな打撃を被るのは新興市場、なかでも最貧国だろう。
・一番蓋然性の高い最初のシナリオで考えると、最も重要な地位を世界経済で
占めでくるのはアジアの経済で、2050年には、半分がアジア経済となる。
・しかし、その中で日本は相対的に、急速にプレゼンスを失っていく。
2010年には、世界経済の5・8パーセントを占めていた日本のGDPは、2030年には、
3・4パーセントになり、2050年には、1・9パーセントになる。経済成長の
スピードも西ヨーロッパを下回り、今後40年を通して、1・1〜1・2パーセント
で推移する。その結果、2010年には、アメリカの七割あった日本のGDPは、
2050年には相対的に58・3パーセントまで低下する。
・今後40年間にひとりあたり実質GDPが最も大きく成長するのはアジアの
発展途上国(4・7パーセント)で、サハラ以南のアフリカ諸国(4・4パーセント)、
中東と北アフリカ(3・9パーセント)がこれに続く。ラテンアメリカ(3・3パー)と
東ヨーロッパ(3・2パーセント)は、新興市場地域の中で最も速く成長する国々
に後れをとる。
▼ 「アジアの人口は現在6割を占めているので、平均に近づくだけ」
 ということができる。それにしても、日本の見通しは悪い。2010年には、
世界経済の5・8パーセントの日本のGDPは、2030年、3・4パーセント、2050年
には、1・9パーセントというから、惨憺たるもの。若者が将来に夢がもてない
のも理解できる。今までが良すぎたと割り切れない問題である。アジア開発銀行
のアジア経済を展望する報告では、中国やインドが順調に成長を続けた場合、
 GDPに占めるアジアの割合は現在の27%から52%へ。中国は20%、インドは
16%。日本は現在の約9%から3%程度に低下するが、アジアの需要を取り込み、
1人あたりGDPは3万ドルから8万ドルに増えると予測している。それも
これも、あくまで予測。3万ドルの半分と思ってしまうのは、悲観的すぎるか!
・・・・・・
4209, アラン 幸福論
2012年10月04日(木)
           『アラン 幸福論』 合田正人
 アランといえば幸福論で、まず思いつく人。幸福論と言えば、スイスの
ヒルティ、イギリスのラッセル、アランの幸福論など「世界三大幸福論」。
アランのそれは93の断章からなっていて、かみくだいた、「幸福小咄」
「幸福のコラム」といった軽いもの。とはいえ、ちゃん哲学に関するもの。
かれの幸福論は、観念論というより、あくまで日常生活に立脚して
幸福への指標を導き出した文学的にも優れたものとして読まれてきた。
アランは、「人は誰にでも幸福になれる」そして「人生の主役になれ」、
そのために「ダンスのように人と付き合え」、
最後に「幸福になることは義務である」と断言している。 
  ーここで紹介されている断章の一部よりー  〔 解)は、私の主観 〕
・よい天気をつくり出すのも、悪い天気をつくり出すのも私自身なのだ。
という言葉のとおり、「哲学は、生についての省察である」という立場から、
幸福は誰かに与えられるものではなく、「自らの意志と行動によって
つくりだすもの」であると説いた。
・不幸になったり不満を覚えたりするのはたやすい。ただじっと座っていれば
いいのだ。人が自分を楽しませてくれるのを待っている王子のように。」 
      解)王子のようにただ待っているだけの人が何と多いことか。
  待つだけでなく、不平不満を言い、人のせいにする大多数のように。
・自分で自分を不幸にし、その不幸を伝染、増大させていく人々こそが
本物の不幸をもっと不幸にしていく」 解)正反対もいえる。
・よい天気をつくり出すのも、悪い天気をつくり出すのも私自身なのだ。
                 解)だから人生は意思の格闘技である。
・快楽を抑制したから人間は幸福になるのではなくて、幸福であるから
快楽を抑制することができる。 解)金持ち、喧嘩せず。
・喜びは行動とともにやってくる。 解)行動の行は決心、判断の意味がある。
 自分の勘を信じて行動をし続けよ、ということ。
・幸福は自分の手作りである。解)時間をかけ、ライフワークを続けることか。
・幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ。 解)自嘲も笑いか?
・未来に幸福が見えているなら、すでに幸福である。 
        解)おもしろそう!楽しそう!と思うことから何事も始まる。
悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する。 
      解)意志が濁ると意地になる。楽観6の悲観4の割合が丁度よい?
▼ アレンではないが、「幸福になる五ヶ条」が目前のパソコンに貼ってある。
「一、今日一日、親切にしようと思う」
「一、今日一日、明るく朗らかにいようと思う」
「一、今日一日、謙虚にしようと思う」
「一、今日一日、素直になろうと思う」
「一、今日一日、感謝をしよと思う」である。
                  これがいざ実行となると難しい。
・・・・・・
3844, 正常性バイアスと同調バイアス
2011年10月04日(火)
 日曜日のNHKスペシャルで「巨大津波 その時ひとはどう動いたか」
が凄い!と家内から聞き、録画を見ることにした。 その内容は、
≪「津波が来るかもしれない」という時、人は何を考えどう行動し、
 何が生死を分けるのか。≫ が テーマ。
ここで正常性バイアスと同調バイアスが、多くの犠牲者を出してしまった
ケースを炙り出していた。そこでネット辞書で調べると
【 正常バイアスとは、外界の強烈すぎる刺激に対して、理知的動物がそれを
 心理で抑制して、慌てないようにしてしまうこと。当然、日常性を保護する
ために必要な措置だが、度が過ぎると「本当の危険」に対しても、「煙はやがて
収まるだろう」とか「今の地震が全てで予震などではなく、もっと大きな地震
などやってこない」とか、暴風雨被害や津波、テロ等々あらゆる事態に対して、
緩い判断をしてしまいかねない。現代は謎を駆逐した明るい社会である。が、
そのために殆ど無感覚者と化し、まさにこれが原因で被害が甚大化している。】
とある。また同調バイアスは、
【大災害のとき、人は大多数の人と同じ行動をとる(ことで判断を誤る)】
▼ ここで、「いざとなった時の人間の判断は、鈍い」ことを浮き彫りにする。 
 そこで気づいたことは、この千年に一度の大地震津波を察知して直ぐに
逃げる判断は、一般的に難しいという事実である。この大津波から連想される
のが、リーマンショック。これは数百年に一度の経済大震災であり、その本格的
津波大恐慌が今年から数年かけて、世界中を大混乱に陥れる大惨事の震災。
その影響は、まずG8の中で一番弱体化している日本の地方にやってきている。 
それが、次に欧米の株式の大暴落がくるのは必定。 日本の大多数の中小企業
と鈍い大衆には、それが他山の石としてしか見えてない。 地球規模の大津波
ハイパーインフレ)が目先に来ているのが現実とし受けとめることが出来ない。 
何故か? 正常性バイアスと同調バイアスが働いているからだ。
その先取りしてしまったこともあり、それがよく見える。 思わず耳を疑う言動
に唖然とすることしばしば。「御前のところは低地だが、自分のところは上
(業績の見通しは悪くない)、偉そうなことを言っているが、その様は!」と。 
私から見れば「 それは数年の時差でしかない、数キロ先に過ってなかった
津波が来ているのに、当方の崩壊の立ち話をしているだけ」という単純な
視線が冴えてくる。 色いろなシェルターや近くに裏山があるから、大丈夫の
ようだが・・人は人の智慧がある? 轟音をたてて、そこに来ている事実を、
「正常バイアス」と、鈍い連中間の「同調バイアス」が、動物的直感を狂わす。
 ドルとユーロの暴落は2年ほど前から始っていて、まだ下落の道半ば。 
株式の暴落も始まっている。 リーマンショックの上に半年前の東北大震災。 
この費用は増税で賄うしかない。 その各家庭の預金は、回りまわって、
アメリカ国債と日本国債にいっている。それも暴落することになる。 
ギリシャ国民の、あの鈍感さは察知しても、自国になると!  
偶然だが、以下に、日本の近い将来を暗示する内容が取り上げてある。
韓国ドラマが受けるのも分かる。 以下の状態を経験する以前に、
隣はカルト国家がある。
  ・・・・・・・・
3479, 15年前の韓国・国家破綻のすざましさ! −2
2010年10月04日(月)
 昨日の「韓国・国家破綻のすざましさ」の実態のレポートの続きである。
日本も「失われた20年」と言われているが、その間に韓国では「国家財政破綻
の中で 国家リストラが断行されていた。日本も小泉・竹中コンビが金融再編成
で大鉈を振るい、また自民党を破壊。しかし政権与党の民主党には政策理念が
見えてこない。  ―まずは、昨日の続きの要点であるー
IMFの改革を通してそれまでの古い柵が消え、経済が自由化されアメリ
ナイズされたことで、韓国は大きく変わった。それまであった終身雇用が崩壊し、
年齢よりも能力が重視されるようになリ、社長でも経営がうまくいかないと
株主にクビにされる。現在、韓国では四十五歳定年が定着しているが、これも
経済破綻が起点となっている。ベンチャーも盛んになり、三十代、四十代の社長
が数多く出てきている。 国全体が破壊から再生に立ち上がろうとしている。
・国が経済破綻すると、庶民の資産はどうなるのだろうか。 破綻と同時に
起きたのが、金利の急上昇。破綻前は13%だった住宅ローン金利が、いきなり
二倍以上の27パーセントまで上がった。このため、マイホーム購入の契約が
次々と破棄され、新築社宅の売れ行きが急激に落ち、同時に価格も下がった。
すでにローンを組んでマイホームを購入していた人は、支払い額が急激に増えた。
当時、韓国ではほとんどの人が住宅ローンを変動金利で借りていたので、
金利が二倍になった途端に払えなくなり、延滞者も急増。この延滞利息が、
なんと六〇%。とても払えず家を手放し、親元などに身を寄せる人が激増した。
・株価は四分の一。預金金利が暴騰し31パーセントになった。
ちなみに物価は経済破綻をしても、それほど上がらなかった。
▼ 以上だが、日本の失われた20年も異常だったが、国家破綻の韓国の惨状
 には驚きである。現在はアメリカナイズされた国に変身しているが、その間、
日本は長期不況でただ、立ちすくんでいるだけ。 今後10年、韓国に近い惨状
は覚悟すべきである。日本の地方は既に恐慌の様相を示している。
残る関東と東海地区も、リーマンショックで、それぞれ原爆が落とされた状態。
 今のところエコ・ポイント制度などのカンフル剤で持たせているが、これも
今年の暮あたりで終了。既に暗雲が漂い始めてきた。 金利が暴騰したら
日本経済は即死になる。とはいえ、ハイパーインフレとは、そういうもの。
 ・・・・・・・・
3104, 返済猶予法案の成立から見えてくること! −3
2009年10月04日(日)
 昨日の朝のモーニングショーに亀井静香が出演、TV側の評論家と
「返済猶予法案」の是非について議論をしていた。亀井節で、この評論家を
根こそぎ否定していたが、コメンテーターの無知が露出した漫画的な内容。
都会のマスコミの世界の中から一歩も出たことのない連中の浅はかさが、
あまりに酷い。亀井節でバカ・チョンと罵倒されていたが、されて当然。
 何を言っても議論にならないレベル。最後は、「この程度のしか
コメンテーターはいないのか、この局は」と適切な御言葉で切り捨てていた。
まあまあ?の肩書きを持っていながら、論理形成ができないとは。 
生の現実に接してないからである。参考のために、そのコメンテーターは、
岩井奉信(日本大学法学部教授) 奥野史子(スポーツコメンテーター)
高橋進日本総合研究所 副理事長) 森本敏(海外事情研究所所長)。
 (字数制限のためカット10年10月4日)
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2739, 何故、こんなに多くのバブルを経験するのか?
2008年10月04日(土)
「資本主義は嫌いですか ―それでもマネーは世界を動かす 」−1  
                     竹森 俊平 (著)
この本は私の知人からメールで「面白い本がある」と紹介され早速買って
読んだが、成るほど面白い!世界恐慌の様相を示してきている米国発の
金融システム崩壊の原因は住宅バブルの崩壊によるもの。 
そのバブルが何故起きるかを解りやすく書いてあった。
  ーまずは、その部分からー
なぜ、われわれは、こんなに数多くのバブルを経験するのだろうか。
その結論を要約すれば、「バブルの頻発」は世界経済全体の高い成長率を
維持するために、経済システムの「自動制御装置」が働いた結果であった。
高成長の維持が難しくなる局面に来ると、民間(とくに金融機関)や政府が、
さまざまな手段を動員して高成長の維持を図る。 そのことが繰り返され、
結果としてバブルが生まれた。あまりにも単純なルールに従って動く「
自動制御装置」は、システムの安定をもたらさないこともある。特定の要因
だけを重視して制御する結果、制御されない他の要因によって、かえって
システムの安定が乱される可能性があるからだ。今回のサブプライム危機も、
「自動制御装置」が「高い経済成長率」という一つの要因にあまりに重点を
置いてきた結果といえるかもしれない。 「サブブライム危機」を契機に、
今後は「自動制御装置」も根本的に調整し直されるだろう。バブルの発生
に歯止めをかけるということに重点を置いた調整がなされるのである。
その結果、バブルの頻発もさすがにストップする。その代わり、世界経済
の成長率は低下する。これが結論。
 −−−−
解)これが現在の金融恐慌の原因のバブル発生のあら筋である。 
バブルの収縮を繰り返しをしながら、経済は動いていく。
 (字数制限のためカット09年10月4日)

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 今日のYoutube

 ワールドカップラグビー、当然、負けると思っていた
サモア相手に大勝をした。やはり力があったということか。
後は、アメリカに勝てば、ベスト8に入らなくとも充分である。
勝てなくても二勝でも充分だが。

 


・・・・・・
2375, コシヒカリが売れない!
2007年10月04日(木)
                  (* ̄0 ̄)ノ[才八∃一]

先日のニュースで{最近になって「コシヒカリ」が売れない}と、
ミニ特集をしていた。去年だけでも、県内で3万トンの余剰米が出たという。
事態はかなり深刻のようである。先週の土曜日、東京の息子に魚沼産コシヒカリ
を送ったばかりだったので、注目をしてみた。ところが、その時買った自宅の米
といえば、聞いたことのないブランドの安い米。
金には困ってないのに、これは家内の貧乏性?から、これには他に理由はない!
しかし、ここは新潟、不味い米はまずはない前提がある。
私自身、米の味に対して、よほど不味い外国産でない限り、美味しい米に対する
こだわりはない。それでも以前は秋口の新米は一度は買っていたが、
最近はそれすら食べなくなってしまった。 酒はすぐに判るので少し拘るが・・・
ただし、県外で御飯を食べると、あまりの不味さに辟易とすることがある。
地元での外食では一度も、そういう経験はない。

ニュースで採り上げていた売れない理由とは
コシヒカリのベタベタしすぎた口触りが嫌がられた。
・他のブランドより割高感が強い。
・他に多くのブランド米ができ、それらの美味しさを知った。
・品種改良などで、米の味そのものに、あまり差がなくなった。
・不景気で、ブランドより、とにかく値段の安いものを選ぶ傾向になっている。
等々あげていたが、風評による影響とは言ってなかった。

中越沖地震のとき、ある全国区の銀行の担当者が、
「他の県の原発事故のときに、その地区の酒、米、魚、野菜まで数年間は
大きく影響した」と言っていた。それもあるのだろうが、不安心理を煽るので
理由の一つにあげなかったのかもしれない。
ところで、南魚沼郡コシヒカリが生産量の90倍も販売されているという
話は、今でもよく聞くことである。真実かどうかは別として、そういう風評も
コシヒカリのブランドに対して不信になっていることもある。
それより手取り収入の減少と、中産階級の減少と、不景気が最大の原因である。
                    
                    サラバ(o´c_`o)―☆              
ーーーーーーー
2006年10月04日(水)
2010, 「私」のための現代思想 -7
     おはよ~!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・ ねむ・・さむ

ここのー「私」とは何かーという文は非常に難解であるが、一番の触りでもある。
独我論」-唯我独尊の独りよがりの論法ーで生きている人は何処の世界にもいる。
究極的には全ての人にいえるだろうが(<特に私は強い!>・・と、思ったほうがよい)
しかし、それ(独我論)では、長い時間の中で自然と淘汰されていく。
言葉は「言語という制度」に従わなければならないが、その「言語という制度」に従って
使用することが思考である。 そして思考する主体が「私」である。

    言葉の意味とは、その使用であり、「言語制度に従って言葉を使用すること」が
    「言葉に命を与えている原因」であるならば、思考の「主体」は「言語制度」
    ということになる。つまり私たちは「自我」「私個人」で思考しているのではなく、
    言語制度に従って言葉を使用している状態を「私の思考」と呼んでいるだけ、
    ということになってしまいます。しかし、それだけでないと誰でも考えます。
    それでは・・・それが以下に述べられている。
    
話すにしても、文章を書くにしても、まず「私」がある。
その私とは何かが明確になっていない。ここで、その私の正体が解剖されている。
随想日記を2,000書いてきたが、それは独我論の「私」に気づくプロセスだった。

《私》という「私」の芯は、歪んだ過去の残物でしかなかったということ??・・
過去の感動・感激・感謝の倉庫? 夢で溢れた夢倉庫? その総体ということ??

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第三章 「私」とは何か -�
ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」-

私たちの脳裏に発生している思考は、言語によって表現されます。
言語以外の方法で表現された自分の思考を、認識することはできません。
原稿を書いている私は、キーボードの打ちすぎで右手が少ししびれてきたが、
それもしびれてきた」と言葉にしてみるまでは気づかなかったことです。
「眠いかも知れない」と感じたことも、言葉にするまで気づかなかったことです。
脳裏で言葉になった瞬間に「感じた」であり、それまでは「思っても見なかった」
ことだと言えます。

    そういう私は、本当に主体者なのだろうか?
    「私」の営みは、純粋な意味ですべて「私」に帰属しているといえるだろうか。
    この問題を詳細に検討したのが、ウィトゲンシュタインである。
    彼は、「もし主体者が私であるならば、私だけの世界というものを考える
    ことができなければならない」と考えました。
    極端に言えば、それは、「私の意識の内部の世界のみが<世界>そのものであり、
    それ以外<私の意識の外側>は考える必要は無い」ということであり、
    それを「独我論」と呼びます。

そしてさらに、もしも「私の意識の外部を考える必要がない」のであれば、
「私だけが理解できる言語」というものが存在するはずだと考えを進め、
それを「私的言語」とした。言葉の持っている基本な機能に「命名」があります。
私的言語が可能であれば、当然「私的命名」が可能である。
しかし、「私的命名」とは結局は「自分だけに通じる何らかの名前を想定する」ことです。

    彼によると、「独我論の証明」は、ここで暗礁に乗り上げます。
    身しらずの子供を見て、勝手に(心の中で)
    「今日からこの子は、私にとってタロウ」と考えたとして、それに何の意味も無い。
    命名とは、制度であり、「命名の権利を有した人間」のみが行うことが
    できる行為である。「制度」とは、「独我論」的な世界には存在し得ない。
    何故なら「制度」とは、「他者」の存在があって初めて存立する概念だからです。
   「私的言語」が存在しないことは「独我論」が成立しないと言う事と同義です。

人は「言語という制度」に従って行動するウィトゲンシュタインは、
「言語の意味は使用である」と考えた。
それは、「言葉に、もしも意味と呼べるような要素があるとすれば、
それは言語制度に従って言葉を使用するということの中にしかない」ということです。
私たちが「理解した」と感じるのは、「その説明を適正に使用できる」と感じたことが
誰にもあるはず。「言葉の意味とは使用である」というのは、
「言語制度に従って言葉を使用すること」こそが、
言葉に命<=意味>を与えている原因であるということです。

    私たちは言葉によって思考し、その思考こそが「自我」、もしくは「私」であると
    感じています。そして、言葉の意味とは使用であり、「言語制度に従って言葉を
    使用すること」が「言葉に命を与えている原因」であるならば、
    思考の「主体」は「言語制度」ということになる。
    つまり私たちは、「自我」「私個人」で思考しているのではなく、
    言語制度に従って言葉を使用している状態を、
    「私の思考」と呼んでいるだけということになってしまいます。

さらに「独我論」はすでに廃棄されてます。
それでも私たちは、「私が考えている」と感じます。
この「実感」が何によって発生しているかを、「超越確実性言明」
という概念を通して、ウィトゲンシュタインはさらに検討を加えます。
たとえば「あなたが今、この本を読んでいる」ということは、
「あなたにとって」まぎれのない事実であるはず。
このように「無根拠」にあなたが信じ、主張することしかできない
言明を「超越確実性言明」とよびます。「超越確実言明」を否定されたり、
疑われたりした場合は、<私>はそれに反論することになるでしょう。

    そのとき私たちは「<私>という言語ゲーム」を行っているのだと言えます。
    なぜ、「超越確実性言明」を否定された<私>は反論するのでしょうか。
    それは、「超越確実言明」の束を引き受ける「受け皿」、もしくは「基盤」が
    <私>だからであり、その基盤のうえに、私たち<言語>や<物語>が構築されて
    いくからです。逆にいえば、この「基盤」があやふやであるとき、
    その上に構築される<言葉>や<物語>は砂上の楼閣のようにもろいものとなってしまう。

この基盤は<闘う>という意志によって支えられます。
たとえば、「私は、その約束を守る。なぜなら私が約束したからだ」
という場合、その根拠は「単にそれを守る」という<私>の意志にのみ存在します。
<私>は「超越確実言明」という基盤に発生する「機能・現象」ですが、
それが発生した段階で、今度は逆に、「<私>=自己」がその「超越確実言明」
という「基盤」を支えることになります。
 ------
「個人の良質なミッションをつくっておくべし!」
                \(^▽^*)バイ!
・・・・・・・・
2005年10月04日(火)
1645.マグロ屋福助ー亭主・宗親の独り言・・4
 4、超一流の人   宗親

どうしてもこういう商売をしているとね、人間の悪い面だけが見えてしまってね。
でもいいことも多いよ。絶対にこういう仕事でないと会えない人と直接話が
できる事だね。芸術家で日本国宝の人とか、超一流の奴。やはり普通じゃないよ。
一流になる人は違うね。そう信念ね、持っているね。
「酒をの飲むなら男とのみゃれ、10年かけたる読書に勝る」 あれだね。
一生を一つの事にかけている奴は違うよ。ひと言ひと言が、にじみ出てくるんだよな。
教わる事は、「真剣に」ということさ。
その人の周囲はピーンと張り詰め空気が漂ってるんだよな。

あの空気というか雰囲気は、実際会ってみなくては解らないよ。
自分の仕事と何も違うところはないよ。
ただ真剣、純粋そして高貴というか後光が漂っているね。
人間こういう人は、1000人に一人いるんだよ。
まず50人に1人、別格のがいるんだ。
その50人のなかから20分の一選ばるんだよな~。
そのへんの人は、自分で考える能力があるんだ。
物真似を超えて自分の何かを作り上げたやつさ。

50人に1人は物真似レベル。
そのなかで20人に1人自分のものを作れるやつが出てくるんだ。
これ私の客商売で人を見た中で感じたことさ。

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2004年10月04日(月)
1280, 「乾杯!」を考えてみる

 乾杯といえば、忘年会などの酒席や、祝いの席には欠かせない。
家内や知人と飲む時も、グラスをぶつけあって乾杯をしている。
「乾杯」は、そもそもは日本古来のものではなく、
その起源は古代ギリシャ、ローマ時代に遡る。

『世界大百科事典』(平凡社)には、「古代に神または死者のために神酒を飲んだ
宗教的儀式が起源とみられ、ギリシャ、ローマでは食事中に神酒を神にささげ、
公の宴会では列席者ならびに死者のために乾杯した。…それがいつのまにか生きた
人間の健康を祝福する乾杯となった」とある。
 
 古代ギリシャ人の間では、「酒を飲むと、一緒に魔物が入ってくる」と考えられ、
飲む前にグラスをぶつけ合うことで悪魔を払ったといわれている。
悪魔は大きな音や騒がしい音が嫌い!特にグラスの鳴る音を嫌がったらしい。  
 
その一方ではもう少し生々しい説もある。
「紀元前6世紀、ギリシャ人の間には主人が友人の健康を祝って乾杯をする習慣があった。
当時、敵を殺害するため、ワインに毒を入れることがよくあったため、まず、
主人がワインを飲み、客はそれを見て安全を確認してから自分のグラスのワインを飲んだ」
というのだ。互いにグラスを勢いよくぶつけたり(酒が混じる)、一斉に飲みほす……
というのも、毒殺対策がいわれというわけである。

飲みほすことについては、杯に底が平らでない貝殻や獣角が使われており、
飲みほさないと傾いてしまう(こぼれてしまう)ためともいわれる。  
記録によると、毒殺の盛んだった中世ヨーロッパでも、グラスをぶつけ合い、
互いの酒を入れ合うことで、毒が入っているかどうかを確かめていたという。
時の王様は自身の権力をライバル達に知らしめるために、大勢のお客を呼んで夜ごと、
豪華な晩餐パーティを開いていたが、しかしライバル達を暗殺する絶好の場だった。
そこで乾杯をして、毒など入っていない事を証明し合う行為だった。

乾杯は世界中、どこにでもある習慣だ。スペイン南部の結婚式で行われる風習とは、
乾杯で新郎新婦が乾杯酒を飲み干し、そのグラスを地面にたたきつけて割るというもの。
「これには独身時代には色々な事があったけど、全てきれいさっぱり捨てて、
今ここから新たなるスタートとしよう!」という意味が込められている。

大学の卒業式の後、学食で学部の全員が集まり、パーテーがあった後、
乾杯してグラスを割った記憶が生々しい。
これで学生時代とお別れという節目としての粋な計らいであった。

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2003年10月04日(土)
ある時間の断片ー33
11月6日 ー1968年

・10時起床。
風邪で頭が痛かったが、少し良くなってきた。
12時、佐藤君のところでお茶を飲む。その後本を読む。
夕方、飯を炊き、刺身を二人前買ってきて食事をする。
風邪を回復するための滋養だ。食べ過ぎのせいか逆に気分が悪くなる。
21時にレポート用紙を買いに出ると、市川氏と高橋君に会う。
近くの行きつけの「サンキスト」へ飲みにいく。
となりの30過ぎの女性と話す。一人で楽しんでいるみたい。
私を田舎の坊ちゃんとか、結婚する典型的タイプとか、気取っているとか、
貶されているのか、褒められているのか解らない。これが自分の姿なのだろう。
市川さんのおごりだ!その後3時間、勉強をして寝ようとすると、佐藤のところで
駒村、ブーちゃんと3人で飲んでいる。私も加わり、どうでもよいような議論が始まる。
どうも攻撃的で、間中のブーちゃんを責める。他人事でないのに、何を言っているのか
後悔する。酔っ払いでしかない。もう少し勉強に集中しなくては、ダメだ。
卒業まで時間がないのに。周囲に動かされすぎだ。
いまの勉強は、自分を納得させるためにしているに過ぎない。

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539,至高体験-2
- 2002年10月04日(金)

「この経験をしただけでも、この世に生まれてきた価値が充分にある。
この瞬間を経験する為に生まれてきたとといって良い」という感覚である。
精神病は精神のマイナスの偏りの病だが、プラスの人(何をしてもうまくいく人)
は、至高体験を異常に多く重ねているという。
私の至高体験具体的に書いてみる(恋愛・下ネタはないのが少し残念だが?)
 ー旅行先でのそれが多い

・初めて海外旅行ーヨーロッパに行った時、生まれて初めて腹の底から笑った、何回も!
確かイギリスのパブで、それとオーストリアのワイン居酒屋で、それとミュンヘン
ビアホールで。感動と歓喜の毎日であった。
その旅行で私の固い頭を(固定観念を)叩き壊されたのが最大の
収穫であった。中学高校時代は腹の底から笑う事は本当に少なかった。
またそれだけ刺激の強い事は、それまで全く無った。

・あとは20数年前、実家の会社にいた時30人近くを引き連れてハワイに行った。
その時も、至高といっていい位ぐらいハワイの総てに感激した。
世界に名だたる観光地、ショーにしても、洗練された内容が次々出てきた。

・カナダのロッキーも感動感動の連続であった。「一回しかチャンスが無いが、
何処に行ったらよいか?」といわれたら、カナダのロッキーだ。
多くの旅行経験者はそう言う!地球でなくどこかの星に行ったような錯覚に陥る。
「ロッキーでの旅行の感激は、「自分の家を売ってでも経験する価値がある」
であった。この日を境にして、この経験をする前と後という感じだった。

・9年前に震えながらいったケニアもそうだ。
アフリカの大地の広大のサバンナを見たときの驚きと感動!
遙か彼方にシマウマとヌーが数十頭走っている姿を始めてみた時の
感動も強烈な思い出だ。

・事業でもそうだ。初めて千葉で千城ビルを立ち上げ仕事も軌道にのり、
ふとそのビルを見上げた時の何ともいえない絶頂感も良かった。
誰もがその瞬間を持っているはずだ。

・会社の忘年会や竣工式の後の宴会でも、それに近い気持ちになる。
成功経験を重ねる人は、至高体験を重ね続けることの出来る人だ。
巨人の長島は至高体験を普通の人の数百倍、いや数千倍経験している。
それがますます至高体験を呼び寄せる。
自分を良くしようとしたら、至高体験を重ねる事だ。

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2001年10月04日(木)
「随想日記について」

新たに考えた事より、殆どが過去に日記帳などに書いた内容が多い。
それをむしろ再度まとめ直しているといってよい。
具体的文章と、抽象的文章と、その中間の文章を意識して分けて書いた。
かなり刺激的な文章もあるが、これも迷ったが思い切って載せた。
この随想日記と事業百訓などの20年の文章は私の潜在意識かもしれない。

潜在意識の顕在化のプロセスを、毎日実施していることになる。
よくテーマが出てくると感心する。一週に一回ぐらいの割りに全く何を書いて、
いいか解らなくなることがあるが、しかしいつの間にかテーマが出てくる。
‘しかかり文章’を先に2~3作っておくことがポイントである。
そうしておかないと、常に不安感が付きまとう。。
仕掛かりとしての文章は余裕を持って気楽に書ける。
土日曜日に、3~4つ仕掛かりの文を書き溜めておく。

どろどろした経験でたまった原始言語の概念化か。