ーその時、言葉は私の「神」となるー  中村うさぎ
           〜心肺停止になって考えたこと!(新潮45/6月号)
   * 二種類の私と、純粋な自我
 死に際を経験すると、傍目に縛られすぎてきた自分に気づかされる。
そして、裸の己を直視し、それを言語化し、それに従うことが、自分の真実を
生きることと、著者は悟る。 死線を漂うと、虚無の彼方から、宇宙の向こう
側から、小さな世界に縛られている自分を客体化する視線を持つ。
 その実体験から得た、重層の心の構造を、醒めたタッチで解体する。
≪ 心肺停止の数日前に私は別人格になっていたらしい、という話を以前に
 書いたと思う。 ・・誇大妄想的な発言を真顔でしてみたり、「魂が抜けて
言葉だけ残った空っぽの中村」になっていた。あの時の私はいったい何者だった
のだろう、と今でも時々考える。あの頃の私は別人になっていたわけではなく、
自意識とかいうものを一切失い、純粋な「自我」のみになっていたのでは。
私が「私」と言う時、そこには二種類の「私」が混在しているように思う。
・ひとつは「他者から視られている私」という「客体としての私」で、
・もうひとつはデカルト言うところの「我思う、ゆえに我あり」的な
「主体としての私」である。
「客体としての私」は「自意識」に支配されており、
「主体としての私」は「自我」そのものだ。たとえぼ「世界を救う」などと
いった壮大にして荒唐無稽な使命感を私が意識の底に抱えていたとしても、
それが他者の目にどんなに愚しく狂気じみて映るかを知っている「自意識の私」
は決して人前でそのような発言をしないし、何とか己の意識下に無理やり、
その人格を封印してしまうだろう。だが当時の私は、そのような他者の視点で
己を視るというスキルが崩壊していて、頭に浮かんだことを自意識の検閲なしに
ぺらぺらと喋っていたのだった。まさに「我思う、ゆえに我あり」だ。
私が思考し、私が語るから、私は「私」の存在を実感する、という感覚。
そこに他者は介在しない。他者を通して自己確認することもない。
私という主体を中心に世界は存在し、自分の存在価値など問う必要もない。
「価値」などという相対的な概念が最初からないのだ。なんと単純明快な
世界だろう。アダムとイヴが他者の目を気にして己を恥じたり隠し立てしたり
することもなく、素っ裸で歩いていた「エデンの園」そのものではないか。
「自我の私」のみで生きるということは「エデンの園」に戻るということである。
他者の評価に怯えることもなく、己の存在価値だのに悩まされることもなく、
獣のように天衣無縫に生きられる楽園の生活。が、その代わり、社会性は著しく
失われる。自意識が高度に発達した現代社会で、このような人間は生ていけない。
生きていくことを許されない。 ≫
▼ 先日、一番上の義兄の葬式に参列した。地元の名士?の中で、精一杯、
 背伸びをして生きた人だった。表面的な人付き合いに生きるのも、それは
それで、一つの生き方である。それぞれにとって、中味は別として、それが
全世界である。ただ、自意識に支配されている、「客体として私」を、
「主体としての私」が、見つめ、「自意識過剰」を「自我」がコントロール
する基盤が必要となる。それが教養である。「独り」を「独り」で楽しめる
素養は、家系を含めた長年の蓄積が必要となる。城下町は、それは有り余って
いる筈だが、変化を嫌う体質が、「独り」の世界を小さく変質させてしまう。
・・・・・・
4915,閑話小題  ー宝塚歌劇団「ブスの25か条」
2014年08月29日(金)
  宝塚歌劇団には「ブスの25か条」なる教訓が舞台裏に貼ってあるという。
 右側の⇒は、私が真逆にした「美人の25か条」。
  これはスターの内的要素の骨格である。
 「ブスの25か条」           「美人の25か条」
1.笑顔がない            ⇒ 常に笑顔で
2.お礼を言わない          ⇒ 前回のお礼の挨拶から
3.美味しいと言わない   ⇒ 美味しい、嬉しい、楽しい、幸せを口癖に
4.精気がない            ⇒ 精気を満たす
5.自信がない            ⇒ 自信を持てる何かを持つ
6.愚痴をこぼす           ⇒ 愚痴は言わない
7.希望や信念がない         ⇒ 希望と信念を持つ
8.いつも周囲が悪いと思っている   ⇒ 周囲のお陰様に気づく
9.自分がブスであることを知らない  ⇒ 自分の程度をわきまえる
10.声が小さくイジケている     ⇒ 声が大きく溌剌としている
11.なんでもないことに傷つく    ⇒ 何ごともケセラセラ楽天
12.他人に嫉妬する         ⇒ 他人の美点を凝視する
13.目が輝いていない        ⇒ 何ごとにも興味をもつ
14.いつも口がへの字の形をしている ⇒ 笑顔を心がけて、口元を上げる
15.責任転嫁がうまい        ⇒ 元は此方、そのまま結構の心がけ
16.他人をうらやむ         ⇒ 人を賛美する
17.悲観的に物事を考える      ⇒ 楽観的に、そのためには教養を
18.問題意識を持っていない     ⇒ 常に問題意識を持つことを心掛ける
19.他人に尽くさない        ⇒ 人の役にたつ生き方を
20.他人を信じない         ⇒ 信じられるだけの知識を持つ
21.人生においても仕事においても意欲がない ⇒ 積極一貫の心かけ
22.謙虚さがなく傲慢である         ⇒ 謙虚に、注意を常にもつ
23.アドバイスや忠告を受け入れない⇒アドバイス、忠告を聞き、受け入れる
24.自分が最も正しいと信じ込んでいる   ⇒ 唯我独尊の人から学ぶこと
25.存在自体が周囲を暗くする  ⇒ 光り輝くよう、自分を磨き続けること
▼ 老いるとは、人間としてブスになっていくプロセス? 無知で我ままなら、
 誰もがブスの要素が多くなる。とすると、これは戒老録にもなる。タカラ
ジェンヌが光り輝いて見えるのは、内側からの輝きを心掛けるため。物理的
貧困と精神的貧困は「貧すれば鈍す」で、『ブス』になりがちになる。 
それと無知!これを常に自覚していないと、左側の要素が増えていく。
タカラジェンヌのミニスターを、まず彼女たちは演じることから始まる。
そして大スターの道をめざし、日々、努力をする。 
幸せへの道しるべ!である。
・・・・・・
4548, 2050年の世界 ー1
2013年08月29日(木)
「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」 
               英『エコノミスト』編集部 (著) 
  * 2050年までを見通すことで現在を理解できる
 何気なく図書館の返却コーナーで手にとった本だが、英『エコノミスト
誌の各ジャーナリストが20の分野で予測。これが面白いが限界も見て取れる。
この激動の時代に、40年先の予測など所詮は無理な分野もあるが、人口趨勢
など予測可能な分野もある。だから面白い。
5〜10年先を予測したければ、40年先を考えてみればよい。
 ーアマゾンの内容説明ー 〈 2050年日本のGNPは韓国の半分になる。
グローバルな一流誌英エコノミスト誌が、総力をあげ、科学、政治、人口、
経済、女性、などの20の分野で2050年までの世界を予想 〉
まずは‘はじめにー「2050年までを見通すことで現在を理解できる」’の冒頭
≪ 世界人口が10億人になったのは、18OO年ごろのことだが、それまでに
 人類は20数万年の歳月を費やしている。ところが、 60億人から2011年の
70億人に違するまで要した時間はわずか10数年。このような変化に驚くほどの
速さで展開する大規模な変化は―メガチェンジーと呼ぷにふさわしいもの。
実際、わたしたちはメガチェンジに囲まれている。技術は信じられないほどの
スピードで拡散しており、ネットや携帯電話の進歩は言うに及ばず、現在では
コンピューターから大量の情報を入手したり、フェイスプックやツイッター
などのソーシャル・ネットワークを通じて、大量情報を受信したり、発信する
ことが可能である。また、世界経済は私たちの目の前で着々とアジアへ重心を
移している。このような変化はどれも、人々の生活と、企業の戦略と、
国家の政策と、地球の将来展望に深遠な影響を与える。 
ー本書は2の重要な目的を持っているー
 ☆ 第一の目的は、人々の健康から財産まで、あらゆる側面から世界を変革
するトレンドを特定し探求することだ。本書では、身の周りの話題をひとつ
ひとつ論じてみたい。この手法を採用すれば、わたしたちは、ヘリコプター
から地上を見下ろすように、俯瞰図を掌握することができるだろう。
 ☆ 第二の目的は、第一の目的で確認したトレンドにより、2050年の世界が
どのように形作られるかを予測することだ。一見すると、これは非常識なほど
大きな野望かもしれない。 ダン・ガードナーが自著「専門家の予測はサル
にも劣る」で論じた、人類の歴史には百パーセントデタラメな予言が
のらべられている。1914年、英国人ジャーナリストのブレールスフォードは、
「近代国家間の国境の線引きが最終決定されたことは、政治的にはこれ以上
ないというほど確実である。私見を述べると、今後、既存の六大国間で戦争は
勃発しないだろう」と記した。第一次世界大戦が始まったのはその直後。
米国経済学者のフィッシヤーが「わたしの予想では、これから数カ月の間に株式
市場は大幅に上昇する」と予言したのも、1929年の株価大暴落が起きる1週間前。
果たして人間が未来を知ることは可能なのか? あすの天気を予想するのさえ
難かしいのに40年後の世界をどうして描き出せるのか? おそらくこの四十年の
あいだに、わたしたちはブラック・スワンの詳れを絶えず目撃させられるはず
だとはいえ、未来を予測してみる価値はある。奇妙だが、2050年を予測する
ことは、来週や来年を予想することよりも簡単。実際、ナシム・タレブも
一世代以上先の予測を好んでいる。 長い年月で「今日において脆弱な
ものが壊れて消える」からだ。》
▼ 次回から、めぼしい部分を抜粋しながら考えてみる。40年前といえば、
 文化大革命が終盤を迎えていた頃。そこで、現在の中国を予測できたか? 
その十数年後にソ連の崩壊、東欧の共産圏の消滅。日本のバブルと崩壊。
その10年後の9・11テロ、7年後のリーマンショック、その3年後の東北大震災。
それより、世界中の人々が形態パソコンを持ち、ネットで繋がるとは誰が予測
できただろう。40年後に存在しなくとも、どんな時代か考えるだけで面白い!
・・・・・・
4173, 木を見る西洋人 森を見る東洋人 ー2
2012年08月29日(水)
 * 二つの違った未来観 !        
          「木を見る西洋人 森を見る東洋人」 ニスベッド著
  ー西洋と東洋の認知の違いはなくなるかー
 フクヤマハンチントンの二人の政治学者の未来観こそ、西洋と東洋の違い。
20世紀に入ってから、哲学が、決して西洋が文明的に優れているのではない
という構造主義の考え方が主流になってきている。しかし時代は木も森も、
そして、地球環境も同時に見ていかなければならない時代になってきている。
3・11震災がもたらした原発事故が、それを我々に突きつけた。この対立は、
避けることは出来ないが、何とか、それを抱えて未来に向うしかない。  
  ー まずは、その部分から
≪ 今、二つの非常に異なった未来観が、多くの領域の社会科学者たちの間で
 戦わされている。ひとつは政治学者のフランシス・フクヤマが唱えた未来観で、
世界の政治経済システムが一極に収束し、それに伴って価値も一極化していく
ことを予測するもの。もうひとつは今後とも多極化が続くことを予測するもの。
フクヤマは著書『歴史の終わり』で、資本主義と民主主義が勝利をおさめた今、
面白い出来事を生み出すような切迫した力はもはや存在しないと述べている。
片や政治学者のサミュエル・ハンチントンは、世の中が今度とも多極化を
続けると予測している。社会が収束に向かうというフクヤマの視点とは大きく
異なり、ハンチントンは世界が『文明の衝突』を迎えようとしていると断言。
東アジア、イスラム、西洋といった主要な文化集団における価値観や世界観の
違いは調整不可能であり、したがって対立は避けられない。
「民族の対立と文明の衝突が生じつつある中にあって、西洋文化の普遍性を
信じる西洋人たちの信念には、3つの問題点がある。その信念が誤りだという
こと、道徳に反するということ、そして危険だということである」
 言うまでもなく、経済や政府のかたちがどこでもみな同じならば、
人の心の中はどこへ行っても同じだろう。逆に、文明の衝突が避けられない
ならば、思考の習慣は多極化を続けるだろう。 ・・
 フクヤマの未来観は、多くの西洋人、特にアメリカ人の視点を代弁している。
アメリカ人は、誰もが根はアメリカ人か、そうでなければ、これからアメリカ人
になると思っている。・・今やどの国の人たちも、ジーンズとTシャツを着て、
ナイキの靴を履き、コーラを飲み、アメリカ音楽を聴いて、アメリカ映画と
TVを見ている。 逆にハンチントンによれば、世界の文化が西洋の文化に同化し
つつあるという考えは、近視眼的かつ自民族中心主義な発想にもとずく幻想。
社会は互いに違っており、今後の国際紛争は、過去に見られた経済的あるいは
政治的な対立よりむしろ、文化的対立を発端にしていると考えられる。・・・≫
▼「東洋と西洋の混血が現時点の日本」と仮説を立てると、日本の混乱が見える。
 和魂洋才という言葉が、それをあらわしている。情報化の進展で世界がグローバル
化された現在、決して否定出来ないこと。要は和魂を常に意識すべき。これは日本
だけでない。トルコがイスラム教国に関わらず欧州よりの国家体制を作っている。矛
盾があっても乗り越えてである。いずれにしても、あらゆる人種をかかた世界が
ネットで情報が共有された現実がある。それゆえの混乱は激しくなるのは当然。
・・・・・・
3808, 哲学人 ー⑧
2011年08月29日(月)
  ● 社会主義〜 妄想的理想社会への逃避       ー「哲学人」ブライアン・マギー著より
 残念ながら、学生時代から社会主義共産主義に対して本能的に、その虚偽を見抜いていたつもりだった。
経済も社会も、国家単位の計画で成立するはずがない。「経済は個々の競争原理の弱肉強食の戦いの中から優勝劣敗で
進化する。その歪を国家がコントロールすべきで、役人がたてた計画経済で、ことが上手く進むなどありえない」という
単純な考えから抜け出れなかったのが本当だったが。 ここで、マギーは、学生時代に「資本論」に大きな影響を
うけたと述べている。人生で夢中になった一ダースに満たない本の一冊に「資本論」を上げている。 
しかし、社会主義国家が本当に成立するかどうか、疑問を持ったとも、述べている。
【 * ー 資本論を、二週間ひたすら読む ー
 二学年めの復活祭の休暇中、私はオックスフォードに見つけた下宿屋にこもり、二週間は朝も昼も晩もひたすら
資本論』を読みつづけた。じっくりと読み進め、書いてある内容について考えたくなったら、いつでも本を置いて
好きなだけ黙想し、散歩をしながら重要な一節について思索したり、夜にはべッドのなかでもこの書物について思いを
めぐらせたりする。そんなふうに夢中になった本はそれが初めてだったし、生涯を通じてもその数は一ダースに満たない。
プラトンの『対話編』、『新約聖書』、ヒュームの『人性論』、カントの『純粋理性批判』、ショーペンハウワーの
『意志と表象としての世界』、『ウパニシャッド』、力ール・ポパーの『開かれた社会とその敵』、アインシュタイン
一般相対性理論』ぐらいだろう。こういった本が私を変えてくれた。これはつまり、こうした書物に感化された
考え方をするほど夢中になったということであり、もし読んでいなかったとしたら、いまのような人間になっていた
とは思えないということである。誰であれ、そんなふうに言える本はめったにあるものではない。 私の場合、戯曲家、
で同じことがあてはまるのは、少なめに見積もるとシェイクスピアひとり、作曲家は七、八人といったところだろう。
もちろん、読書や観劇や音楽鑑賞の蓄積が、その人の考え方や人格にじわじわと影響を及ぽし、自覚できる変化を自我に
生じさせた張本人と特定できる作家は、少数である。ここに挙げた書物の半分はドイツ語圏の作家によるものだが、
この事実(作曲家の大半もその地域の出身であり、時代も同じであるという事実を加えてもいいのは、私の精神生活が
どんなものであるかを示唆している。『資本論』の大半を占めているのは、英国の産業革命の歴史である。
にもかかわらず、私の考え方はマルクスに多大な影響を受けている。その影響は、彼の著作を吟味するにつれて薄れて
いったけれども、けっして消えはしない。私はそうなることを望まないし、マルクスの提示する洞察には不変の価値が
あると思っている。彼は偉大な作家であり、大人物でもある。その怒りと裁断は厳しすぎ、エホバめいたところが
あるとしても、である。『資本論』は退屈でわかりにくい大冊だなどという考えがどうして出てくるのか。
私には、その厚さにうんざりした人たちがこしらえた、読まないための口実としか思えない。『資本論』は名著である。
 世界史上、指折りの影響力をもつ書物であるのは確かである。 】
▼ ソ連の崩壊と、中国の実質、社会主義的計画経済の放棄は、それは理想であって、現実にはそぐわないことを
 立証した結果になった。そこに起こったのは、役人の特権化と汚職の氾濫であり、狂った独裁者の誕生であり、
国家経済の疲弊である。熾烈な競争経済の中でしか経済は発展しないことが、数千万の餓死などの犠牲者を出し
証明された。まだ残存は残っているが。
  ・・・・・・・
 3443, 最近の昼飯事情
2010年08月29日(日)
  * まさか昼飯がパン食になるとは!
 最近の昼飯は外食から事務所内で駅のベーカリーで買ってくるパン食に切かえた。 時どき弁当もあるが、どうも
冷えた弁当は部屋で食べるにはそぐわない。レンジでもあれば別なのだろうが。それもインドのナンのようなもので
パセリと海老か、唐揚げを包んだものがラップに巻かれている。若い女性が好みそうなやつで、それだけのコーナーがある。 
以前は、他にカレーパンなど二個だったが現在では一個にバナナ。この歳になると、味は美味しく、サッパリして、
腹に持たないものを求める。とすると女性向きにつくられたものが丁度良い。30年近くのランチャーも卒業で、
お部屋でヒッソリとパン食。 なれると外食が馬鹿馬鹿しくなる。 駅内にあるスーパーの弁当コーナーを見ると、
300円弱から400円辺りが中心プライス。月に3〜4回は買うが、何かイマイチ。駅のベーカリーにイートインの
コーナーがあり、コーヒー付きで400円位である。近くのマクドナルドなどと競合しているが、殆どが女性客。
早い時間から客席は半数以上は埋まっている。最近、長岡駅内にも出展したが山崎パンの直営店という。 
最近、ほぼ同じものが地元のスーパーに見かけられるようになった。スーパー原信が、地元のベーカリーチェーンを
買収して、自社店舗内に出店している。土日のどちらか一日の早朝7時に毎週行って、焼き上がりのパンとコーヒーを
飲むのが楽しみの一つ。昼にパン食に切り替えてから体重が1〜2キロほど痩せたが、これで20歳半ばの体重に戻った。
歳相応になったということか。 それより、ランチを食べに行くのが面倒になったということ。
(字数制限のためカット 2015年8月29日)

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  今日のYoutube

 6年前の同月同日の内容から、政治世界をみると、その変化の激しさに驚く。
自民党が崩壊して、民主党に政権が移動する選挙の話だ。 そして、民主党
政権が移行したが、所詮は、批判政党の枠から一歩も出ることが出来ないで、
再び、自民党へ。 そして、また利権体質の自民党に後戻り。 悪さ比べという
事態が現在である。 どの道、今まで先送りのツケが、露呈して、惨憺たる
経済と政治破綻になって、それが弱者に襲い掛かる。 何とか2020年の
東京オリンピックまで持たせることが出来るかどうかだ。




・・・・・・
3068,衆院選後のマスコミ社説を先取りすると!
2009年08月29日(土)

 衆院選挙の自民党の壊滅は、ほぼ決定的である。
バナナを使って捕獲されたサルと自民党の姿そのものが重なって見える。
サルを捕獲するに、箱にバナナを入れておき、サルの手が入る穴から
バナナを掴むと手が抜けない。そこを捕獲するという逸話がある
(本当かどうかは確かではない)。
それと、自民党の300議席からくる権力の執着に似ている。 
誰かがこの喩えを使うかどうか。翌日のマスコミの解説の内容は以下の通りだろう。
  * 民主党の大勝に意味すること 
《 民主党が歴史的大勝をしたが、これは自民党の4年間の政策に対する
国民の失意の結果。ところが自民党の領袖たちは最期まで、その自覚が
全く無かったようである。一年おきに、実力の無い首相を血統書のブランドだけで
三人もたて続きに送り出し、その醜態を見せつけられれば、国民は愛想を尽かす
のは当然である。 自民党は、国民を小泉劇場という猿芝居で騙し取った議席
4年間も居直り官僚に利する政策を続けた結果が、これである。 
日本の歴史に残る最悪の事態に導いた4人の宰相と、元首相や元領袖などは、
汚点として評価されて然るべきである。 この7~8年間に新自由主義の波に乗り、
堀江モン、村上某、オリックスの宮内某とかの、怪しげな乗っ取り屋がマスコミ
で寵児のように扱われた。 その結果、日本的企業風土は粉々に壊されてしまっていた。
 小泉の行った郵政民営化は旧態依然とした体質に風穴を開けたことは確かである。 
民主党が、それを全面否定してはならないが、大きな修正の必要性はある。
 ところで日本の国体をこれほど落し込んだ元凶の田中角栄の娘が、風の流れに
便乗して民主党に入り込んで閣僚を狙っている?と報じられているが、外務大臣
のときの醜態を二度と国民の前に出してはならない。 落選した自民党の大量の
元代議士が今度は参院で再起を目指して、水面下で選挙を目指して起死回生を
かけるだろう。その結果として、参院が自民・公明党過半数を取ることになれば、
これまでと全く逆転する皮肉な事態になる。 そのプロセスで政界再編成になる
だろうが、この政治的に幼稚な日本という国にとって、この5年間は大転換期。
可能な限り安定した政局の必要である。民主党の待ったなしの強力な戦略が
求められる。》
 大方、こんな風な内容だろう。「自民に不満、民社は不安」
とは良く言ったものだ。変化は不安だが、必要である。

 ・・・・・・・・
2703, 「レンタルの思想」-7
2008年08月29日(金)

地球は太陽の周りの隕石が何度も何度も衝突を繰り返しながら拡大し、
生成されたもの。聖地が石で出来ているというのも、その辺に秘密があるのだろう。 
趣味の究極は石になるというが、それもまた同じ理由なのかもしれない。
いま気が付いたが、植嶋啓司の本を取り上げたことがあった。
全く忘れていたが、聖地の共通点を取り上げた内容だった。
~~
「宗教の隕石学」への挑戦   松井孝典×植島啓司
 *聖地の岩石学

松井: 植島さんの本を読んで、なるほどと思ったのが「聖地というのは、
みんな石切り場だ」ということです。
植島: 石を切り出したところ、あるいは特殊の石組みですね。
松井: 自然が宇宙の歴史を記した古文書なら、石切り場も古文書です。
植島: 20年間、世界中の40数箇所の宗教の聖地をおとずれたが、共通して
出会ったものは「石」であった。エルサレムの黄金のドームは
岩のドーム」と言われているとおり巨大な一枚岩が置いてあるだけ。
    聖墳墓教会のあるゴルゴダの丘もかっては巨大な石切り場だった。 
ストーンサークル(環状列石)、岩石刻文の宝庫であり、 
パルテノン神殿が建てられたアテネの小高い丘は巨大な石の塊、
エジプトのピラミッドは元々は石灰岩の山で、崩して平らにして
組みなおしたもの。これらは偶然だけではないだろう。
植島: 聖地の条件として、ある樹木があるとか、洞窟があるとかではなく、
なぜ石なのか、石には何か特殊の力があったのか。・・ 
古文書として石を読む上で、分析は非常に大事だと思います。
    ただ石の成分を読むのではなく、石が置かれた文化的環境を読む。
    石ということでは、隕石や地球のマグマとの関係も重要です。・・・
松井: 実は1980年以前はそういう認識はなかった。というのも地質学では、
巨大隕石の衝突と地球史・生命史を結びつける考え方は、科学では
退けられていた。しかし天から降る石があって、それが人間の存在や
    考え方に影響を及ぼすという認識は、自然科学の登場前からあった
かもしれない。
松井: 今こそ地球上に多くの人が住むようになって、絶えず隕石の落下が
報告されているが、これが人間が少ない時に大空から大音響とともに
火の玉が降ってくるというのは、すごいインパクトがありますよね。
  ~~
解) 聖地は、どれもこれも、石切り場の跡にあるという。私も多くの聖地を
見てきたが、全てが石組みであった。古代は大創造物は石しかないのだから、
何も不思議ではないじゃないか、 という見方も出来るが。
   隕石に不思議な成分が含んでいたのかもしれないし、宇宙の暗号があった
のかもしれない。現代の人類が、その暗号に気づかないだけなのかもしれない。
隕石に不思議な波長を、特殊能力のある人は、感じ取っていたのだろう。
空から轟音とともに石が降ってくれば、神からの贈物と思うのも不思議
ではないが。「聖地の隕石学」も面白いだろう。親父が晩年、石に興味を
持ち、うちの庭には大きな石と石灯篭がゴロゴロある。
   一昨日も、兄の庭にあった石灯籠を一つ引き取った。 
   一年ほど前から、庭の花を写真に撮りだしてから、ここの庭に興味を
惹かれるようになった。石と木と花と緑のバランスが良いが、
実は特徴は背景の石だったということだ。

・・・・・・・・
2007年08月29日(水)
2339, 意志について  ・ω・)ノはよー
 「狂人三歩手前」 ー中島義道
  -哲学などしないようにー

哲学は、全て根こそぎ疑い、そして疑いの中から真実を見つけようとする。
哲学は曖昧な言葉をミキサーのように砕いてしまう。 意志についても
哲学者は、その言葉に含まれている前提を見逃さない。
殺人者は、殺そうという意志があって成り立つ。(衝動もあるが)
一般的に意志は初めから「善いもの」という前提がある。
その前提を見逃さないのが哲学である。だから、嫌われるのである。 
といって、曖昧な考えは、判断を狂わしてしまう。
真理をさけて通ることは、さけて通ったという事実が残る。

ーー                  P-174
世の中で信じて疑わないことのほとんどが眉唾ものである。
とは、10歳の頃から直感していたが、ーそれを一つ一つ「やっぱり」と
納得していく過程が私の人生であった「ある」とは何か、「いま」とは何か、
「私」とは何か、「善い」とは何か、人生経験を積めば積むほど夜中に
森の中をさまようようにわからなくなっていく。とりわけ、このごろ「意志」
と呼ばれているものは、ただの社会的取り決めにすぎないのだ、という思いが
強くなってきている。 私はすべてにおいて優柔不断であり、何かを選んだ
瞬間に後悔することはざらにある。「タンメン」と注文した瞬間に
「味噌ラーメン」にすればよかったと後悔。だが、取り消すのは恥ずかしいし、
もう作り始めているかもしれないし、とあれこれ考えて、ぐっとこらえるのだ。
  (字数の関係でカット08年8月29日)
 ーーーー
そういうこと! 哲学など徹底的に割り切って鳥瞰していないと、
社会を混乱させるに過ぎないだけである。 ☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ
・・・・・・・・
2006年08月29日(火)
1974, 東京駅の一瞬の出来事!
  Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning (~O~)ふぁ・時差ぼけ!

ケニア旅行の帰路、最終の新幹線に間に合わないので日暮里に泊まった。
翌朝、東京駅の新幹線改札口の近くに行ったところ、突如顔色を変えた
黒服の背広の10人位が走ってきて通行をストップした。
一瞬、テロ爆弾の予告電話が入り閉鎖を始めたのかと思った。
しかし、その直後冷静にみると何か違う。黒服の男達は改札口の両側に
ロープを張って、その中に人を入れないようにしている。
「はは~、超ビップの新幹線の乗り込みのための警戒のための何か?」と直感。
逃げかけた家内を呼び止め「超ビッグのための警戒。面白そう見てみよう!」
次の瞬間に、カメラを出してと、家内がいう。近くにいた人がやはり携帯電話の
カメラを出した。私も一瞬迷ったがバックにデジタルカメラを有ることを思い出した。
そのときは、皇室??を忘れて写真を撮っていた。近くのSPが嫌な顔をしたのが
一瞬わかった。 それをさせないのが、SPの技術のなのだろう。そして、
一枚撮って、その後ビデオに切り替えた。しかし、それは写って無かった。
東京駅では日常だろうが・・ 天皇・皇后様が新幹線に乗るときの状況を直に
見るのも面白い。新幹線に乗るときに数分間の一瞬しか交通止めしかできない。
もし閉鎖で乗り遅れたら、国民の反感を間違いなく受ける。
我われの目線は天皇であろうが、何であろうが同じである。
                     \(^▽^*)バイ!
・・・・・・・
2005年08月29日(月)
1609, 愛とは何か -1

この歳になって、いまさら「愛とは何か」でもないが、この年齢でなればこそ、
愛が人間の心の背骨と実感する。ある愛の定義が納得のいくものである。
「愛は、自分自身や他者に対して共感的にあるがままに受け入れることと 
尊重することである」これから考えてみると愛することとは、自分を自分として、
他人を他人として受け入れることになる。まずは自分と他人を尊重することである。
他人を愛するということは、よかれと思い、その道を一緒に探し求めることである。
判断や批判なしに受け入れることが、愛の第一歩である。飯田史彦著「愛の論理」
の「愛」の定義が面白い。 その一部を抜粋してみると、
 ー愛の定義 p.334
愛とは、自分という存在の価値認識と成長意欲から生まれるものであり、
相手がただ存在してくれていることへの感謝ゆえに決断し、永続的な意志と洗練
された能力によって実行しようと努力する、相手の幸福を願い成長を支援する行為。
p.374
私たちは、愛の実行力からみた人間としての成熟度に応じて現在の自分に可能な
範囲で精一杯の愛を実行すればよい。なぜなら、成熟度を大きく超える愛の実行を
試みても、そこには必ず無理が生じて、自分自身を痛めつけたらり、相手をも
巻きぞえにして傷つけてしまう結果になるからである。ただし、私たちは、
自分の成熟度を高めるための努力を、つねに怠ってはならない。
なぜなら、私たちは、愛の実行のみによってゆるされるのではなく、
より高度な愛を実行しようと挑戦することによって、ゆるされるからである。
したがって、私たちは、はるか彼方にそびえる「愛の山頂」にあこがれながらも、
いま目の前で踏みおろすべき「次なる愛の一歩」を、見きわめなければならない。
そして、まだ山のふもとや中腹を歩んでいることを自覚しながらも、
着実に山頂を目指して登ろうと努力する時、その勇気と成長によって、
私たちはゆるされるのである。

ーまた谷川俊太郎の詩がよい
  あい    谷川俊太郎

あい 口で言うのはかんたんだ
 愛  文字で書くのもむずかしくない
あい 気持ちはだれでも知っている
 愛  悲しいくらい好きになること
あい いつでもそばにいたいこと
愛  いつまでも生きてほしいと願うこと
 あい それは愛ということばじゃない
愛  それは気持ちだけでもない
 あい はるかな過去を忘れないこと
愛  見えない未来を信じること
 あい くりかえしくりかえし考えること
愛  いのちをかけて生きること
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 宗教の愛についての教えも深い。 愛について聖書にはこう書かれています。
「愛は寛容で、情け深く、ねたむことをしない。高ぶらず、誇らず、無作法をしない。
自分の利益を求めない。いらだたない。恨まない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
すべてを忍び、信じ、望み、耐える。」また仏教では、「無縁の慈悲」を究極の
愛の姿としています。つまり、私が誰かに何かをしてやるということを
全く意識しないで、他者を幸せにすることです。

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2004年08月29日(日)
1244.お笑いコーナー 今日のお笑い 

いろんな国の男が、象について本を書いていた。
ドイツ人は脚注がたくさん付いた三巻本を書いた。その表題は
「象研究序説」フランス人は薄く軽妙な本を書いた。 その表題は
「象とその性生活」イギリス人は挿絵の豊富な旅行案内を書いた。 
その表題は「アフリカ奥地の象狩り」アメリカ人は広告用小冊子を書いた。 
その表題は「裏庭での趣味と実益をかねた象の飼育法」
ユダヤ人は戦闘的なパンフレットを書いた。その表題は「象と反ユダヤ主義
 ーーー
ブッシュ大統領がイメージアップと人気増進のためにPRキャンペーンを
行うことにした。彼は小学校を訪れて子供達に彼の政策について分かり易く
説明することに決めた。大統領による説明が終わった後、彼は子供達に
向かって「何か質問がありますか?」と尋ねた。
ティーブという生徒が手を挙げて 「大統領、僕は三つ質問があるんです。
 1.どうして大統領選挙では総投票数が少なかったのに、
あなたは大統領になれたのですか?
 2.はっきりした動機もないのに、なぜあなたはイラクを攻撃したのですか?
 3.歴史上最大のテロリスト攻撃は広島への原爆攻撃だと、あなたは思いませんか?」
ちょうど質問が終わった時に休憩のベルが鳴ったので、子供達は校庭に遊びに出た。
休み時間が終わって子供達が教室に戻るとブッシュ大統領は彼等にまだ何か質問があるか、
と尋ねた。 エディが手を挙げて尋ねた。 「大統領、僕は五つ質問があるんです。
 1.どうして大統領選挙では総投票数が少なかったのに、大統領になれたのですか?
 2.はっきりした動機もないのに、なぜあなたはイラクを攻撃したのですか?
 3.歴史上最大のテロリスト攻撃は広島への原爆攻撃だと、あなたは思いませんか?
 4.どうして今日はいつもより20分早く休憩のベルが鳴ったのですか?
 5.僕の友達のスティーブはどこに消えちゃったのですか?」

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2003年08月29日(金)
877, 女の盛り時ー女とオバサンの境い目

十数年前に、第一生命の叩上げの財務の人と飲んだ時期があった。女性を知り
尽くしている人という感じであった。こと女性に関しての一言一言が相通じるものがあった。
私も姉が4人もいたり、女性の職場にいたため、女性の裏表を知っているつもりであった。
しかし体を張って保険をとってくる女性を管理してきた人の言葉は、全く違う響きがあった。
・保険勧誘はギリギリのところの女性を動機付けていなくてはならない。
 部下とは塀の上に一緒に立って(男女の中という意味)いないと仕事にならない。
その危なさが何とも面白い。
・女性の盛りは40歳からの数年である。丁度人生の曲がり角で一番危ない時である。
危なさが微妙に女性の魅力になっている時期である。 オバサンになるか、
今一度最後の花を咲かせるかの境い目が何とも良い。なるほどと思って、その視点で
見つめなおすと全くその通りである。高峰秀子が何かの本で「女性は45歳が境い目で、
急激に坂道を転げ落ちるように変わっていく」と実感で書いていた。
何か第一生命の人の言葉と相通じるものがあった。 女としての最後の輝きが全身
から出てくるのだろう。その時期に、私の姉たちと従姉が葬式で同席した。
その年齢の境い目の前後の姿を、そのまま目の当たりに見てしまった。
 しかし、チャンと身奇麗にしていれば、その年齢の魅力は出てくるものだ。
年齢を重ねれば重ねるほど、自己管理が必要ということだろう。それは男女に
関係なくだが。内面がそのまま表に出るから恐ろしいのが歳の蓄積である。
昨夜も同級会の幹事会で悪臭を撒いていた「おれは中卒だ!」が口癖の漫画に
出てくるような職人がいたが。同級の女性達も、年齢の割りにちゃんとした
魅力を保っていた。長年の品位が魅力になってくるのだろう。

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2002年08月29日(木)
503,「10,4,2,1の法則 」-2

我々は何時の間にかこの逆をやってしまうことがある。
一つことをやって上手くいかないと次のことを始める。
それはそれでよいが、やめてから次のことをすべきである。
やめないで、次から次に始める。上手くいって舞い上がって始める
ケースも多いが。力の分散である。飲食店の場合、見ていると本当に多い。
東京TVの「愛の貧乏大作戦」を見ていると面白い。追い詰められた
商店主の店を建て直す番組。主力の商品がお客に受け入れられなくなり
廃業直前になる。メインの商品の落ち込みを他の商品を広げて逃げてしまう。
更に主力商品の力が落ちる。そのことすらも気づいていない。
上手くいっている店は、商品の絞込みがしっかりしてある。
その店で修行する番組なのだが、その段差が漫画的ですらある。
いろいろな失敗の中でそれに気づいている店主と、全く気がついてない店主
の差が歴然としている。マクドナルドはハンバーグだけであれだけ大きくなった。
ただハンバーグでは大きくなれない、あとはシステムの構築だ。
それも数十年かけた。 街の大衆食堂は、何でもあるが全て中途半端だ。
その道のプロならまだよいが、素人が中途半端で始めると目が当てられない。
近くの飲食店で死にかけている店がやはり同じことをしている。
拡散はメインの商品の質の低下を引き起こす。自分がレンズになり、メイン
商品に焦点を当て続ける事だ。そうすれば、そこにはエネルギーが集まる。
自戒も込めて書いている。私の場合は、客室プライスの価格破壊の徹底と、
それでも利益を出せる仕組みつくりだ。話はそれたが、時代の変化に対して
変化し続けることは難しい。一つの事を止めて、次の商品の開発は大事なことだ。
商品も事業もだが、メインの深耕を本当にしてからだ。

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2001年08月29日(水)
[125] 目には目を歯に歯を

この意味をイスラエルに旅行するまで全く知らなかった。 
実際の意味はその正反対の意味であった。それまでは目をヤラレタラら殺す、
歯をヤラレタラ目をやる。それをヤラレタ範囲で仕返しをやる、
というむしろ優しい掟であった。それだけ激しい条件の世界であった。
旧約聖書でいつの間に当たり前と思っていたことが、そこで始めて規制されていた。
ホモもしかり、それまで当然の世界で何もおかしい世界でなかった。
その倫理をただ旧約聖書が規定したから悪いことでしかないのだ。
そのことをイスラエルではじめて知った。5000年前にアブラハムという
部族長が神の声を聞いてその声に従って、イスラエルに向かった。
そのアラーの神に今も世界が支配されている。キリスト教の神も
そのラージXでしかないのだ。イスラムののアラーの神も然りである。
考えてみればあの裸の王様でしかない。皆解っていながらそう考えておいた
ほうが、良いから信じてしまえと鼻声で X を神にして祈っている。
確かに人間の人知に及ばない何かがあることは当然だが、それを単純に
神に集約するのはおかしい。しかし神の名の元に基準は必要であり、
言葉を待ってしまった人間ー過剰な欲を持ってしまった人間ー