〜つれづれに ー原監督の休養
 巨人の原監督がインフルエンザで休んでから、俄然、巨人が負けなくなった。
これを知ったとき、「少し休ませろ!」と球団から命令があったと直感したが・・
監督本人に挫折経験が少ないため、中途半端な負け方で、開き直りが出来ない、
そのことが選手の動揺を抑えることができない事態。 捩れの要素として、
・安部を一塁専任し、キャッチに戻すことはないと断言したことが、彼にとって
 負担になったこと。その動揺が、他の選手にも大きく影響をしてしまった。
 またキューバの有名選手の不振も、これに呼応した。
・問題は原監督の耐用年数を超えてしまったこと。 元に戻って、監督を
 続けることになるが、これで今期で退くことになるのが決定的? 
・さらに毎年、各球団の良い選手を次々と入団してくるため、既存の選手が萎縮、
 監督、コーチに対し異常なほど神経質になるのは自然の理。特に負けが込むと、
 「二軍に落とされるのでは?」と、萎縮の連鎖が全体を覆うパターン。
 村田、片岡、井畑、今年は金城、相川という名だたる選手が、次々と入団
 すれば、既存選手の出場機会が、それだけ減っていく。大田、矢野、中井など
 他球団に行けば間違いなく、即、レギュラーになれる選手が燻る病である。
とはいえ、この現象は、巨人の例年のパターン。 交流戦を終えた頃には、
何事もなかったように、その地力が表立ってくる。 病も時には必要である。
 さて、悠久山の花見でもいってきますか!
・・・・・・
4783,葬式は、要らない ー1
2014年04月19日(土)
          「葬式は、要らない」島田裕己著  
 葬式の希望を書きおく時期になってきた。現時点での希望の大枠は、
《 会場が3百メートル先のセレモニーホールで、直葬に近い家族葬
 ごく身近な人たちだけにし、遺骨は実家の墓に。戒名は自作のものを
 仏壇の引き出しに。その後は、「墓参り仏教」に従うことなく、命日に
 それぞれが仏壇に手を合わせてくれれば充分。》 これだけ!
  内容(アマゾンより)
{ 日本人の葬儀費用は平均231万円。これはイギリスの12万円、韓国の37万円
 と比較して格段に高い。浪費の国アメリカでさえ44万円だ。実際、欧米の映画
等で見る葬式はシンプルで、金をかけているように見えない。対して我が国と
いえば巨大な祭壇、生花、高額の戒名だが、いつからかくも豪華になったのか。
どんな意味があるのか。古代から現代に至る葬儀様式を鑑みて日本人の死生観の
変遷をたどりつつ、いま激しく変わる最新事情から、葬式無用の効用までを考察。
葬式に金をかけられない時代の画期的な1冊。
  ーアマゾン読者のレビューよりー
・日本の法律で葬式が義務となっているわけではない。医師に死亡診断書を
 書いてもらい、役所に行って死亡届を提出、埋葬許可をもらう。決まって
 いるのはそこまで。遺体の処理については墓埋法で、
1.死亡後、24時間経たなければ、埋葬も火葬も行ってはならない、
2.火葬は火葬場以外で行ってはならない、
3.埋葬は墓地以外で行ってはならない、とされるのみだ。
 焼いた遺骨をどこかに撒くのなら、葬式もいらなければ、墓もいらない。
 宇宙葬の費用ですら100万円である。もっとも現実には葬式を行わない
 ケースは少ない。人は誰かかかわりあった人が亡くなれば、その死を確認して
 けじめをつけたい。葬式への参列ほど明確なけじめの機会はない。ただし
 葬式を出すことと、葬式に多額の費用をかけることとは直結しない。
家族葬は近親者だけで行う規模の小さい葬式全般を指す。以前は密葬と
 呼ばれていた。通常なら通夜と葬儀・告別式で二日かかるところを、一日に
 まとめたワンデーセレモニーという形式も生まれている。もともと通夜は
 近親者だけで営むものという感覚があり、一般の会葬者が参列するのは葬儀・
 告別式のほうだった。結婚同様に、葬式も組織の儀式から個人儀式へと変化
 してきた。昔は商家も農家も家は生産や経済活動の単位であり継続が不可欠
 だったが、サラリーマン化が進むことで、養子をとったり婚外子を作って
 まで家を存続させる必要がなくなった。 自営業の場合なら家の存続が重要で、
 伝統的な祖先崇拝の信仰を取り入れる傾向が強く、喪主になるのは後継者
 であり、葬式は後継者を披露する場ともなる。 が、サラリーマン家庭の場合
 は家は生活の場でしかない。永代供養墓は跡継ぎのない家が増えたことで
 生まれた供養形態。墓を求める際に永代供養料として一定金額を払うことで、
 墓守となる跡継ぎがいなくても、寺が命日に読経するなど供養を続けてくれる。
直葬は密葬、家族葬の一番簡略化された形態だ。現在、東京では20%が直葬
 直葬では、故人の遺体を寝台車に乗せ、自宅や葬儀社が用意する一時的な安置
 場所に搬送し、とりあえずそこに安置。そこで納棺し近親者だけで通夜をする。
 会葬者は呼ばない。翌日、霊柩車で火葬場へ出棺する。そして、やはり近親者
 だけで故人に別れを告げ、遺体は荼毘に付す。最後に、収骨、骨あげをして
 葬式は終わる。直葬の費用は多くとも30万円ほどで、僧侶に読経を頼んでも
 50万円以内でできる。もっとも簡素な形式を選んで近親者だけが集い、
 会食もしなければ10万円程度で済む。
▼ ますます直葬家族葬が増えることになるが、長く続いてきた家族中心から
 個人中心主義になる御時世では当然の流れ。これが不景気になるほど、簡易な
葬式が増えてくる。直葬、密葬を宣言してしまえば、残された者は楽。
私の墓は、このブログ。閲覧は墓参りのようなもの。 
時どきの墓参り、本当に有難うございます。
・・・・・・
4416, ふしぎなお金
2013年04月19日(金)
                 「ふしぎなお金」 赤瀬川原平
 子供用の絵本だが、人は当たり前のように使っているお金について、あまり
考えない。お金は自由の、エネルギーの、塊。日本人は金を不浄なものと考え
がちだが、お金は血液のようなもので、人間にとって非常に大事である。 
人を生かし、また殺してしまう力を持っている。 子供に諭しながら、実は
大人に語りかけている。 ーまずは、印象的な部分を抜粋ー
≪ *「冬のバーやレストランで、席につく前に、「コートお預かりします」 と
 いわれて、なんなドッキリとしないだろうか。だってコートの内ポケットには
 拳銃が入っている。それをそのまま預けて大丈夫なのか。というほど錯覚を持つ
 ほど財布は拳銃に似ている。だから「貴重品はよろしいですか」といわれると、
 何だかもっていかれるかと思って、その護身用の拳銃みたいな財布を、身近な
 ポケットに移し替える。でも移し替えながら、どことなく後ろめたい、とうより、
 どことなく情けない気になる。「お前はそんなに相手が信用できないのか。
 そんなに拳銃なしで丸腰に、なるのが怖いのか、という`声が追いかけてくる。 
 そういえぱ、昔の西部劇映画には、ガンペルトそのものを外す場面があった。
 宿について、あるいは自分の家に戻って、外敵なし、大丈夫、という状態で
 はじめてガンペルトを外して椅子の背に掛ける。ガンマンがくつろぐ一瞬。
 ところであのガンペルトとは、実はむき出しの現金を装着したベルトなのだと、
 そんな感じがしないだろうか。ガンマンはその現金でいつも勝負している。
*「日本の場合は刀の大小だ。明治以前、武士はみんな刀を差していた。
 男子、一歩外に出れば七人の敵、といわれるくらいで、刀の大小を肌身離さず
 持ち歩いていた。刀は護身用であり、権威でもあるところは、やはりいまの
 お金に似ている。武士の世界の文化の一つに茶の湯があった。招かれて行く
 お茶室には、小さな躍り口が設けてある。あそこを入るには腰の大小を外して、
 外の刀がけに欠けねばならない。武士はみな一瞬、躊躇したのではないか。
 財布は刀やピストルと違って、人を殺める道具ではないのではあるが、人は
 金のために人を殺したり、金のために自分の首を吊ったりして、金はやはり
 隠然たる凶器の光を忍ばせている。拳銃も財布も、緊張の物件である。
 いざとなると拳銃をぶっ放すように、札びらを切る。でも「いざ」とならない
 ときは、それはそっとボケットに仕舞われている。昔よりも落ち着いた現代
 社会では、さらに奥深くの内ポケットに移行している。」
*「足元にお札が落ちている。それを見たとたんにハッとする。千円札の四つ
 折りにしたわずかな面が見えているだけでも、何か異様にハッとするのは何故
 だろうか。足元に血が垂れている。それを見たとたんにハッとする。ちょっと
 した赤い液体なのに、何か異様にハッとする。見てはいけないような、
 一歩踏み込んだ秘密を見てしまったような、緊張感が走る。」
*「人間の血はだいたいみんなと同じで、成分にほとんど違いはないが、
 自分の血は自分のもので、自分の体内に密閉されている。でも場合によっては
 人助けで献血をする。場合によっては寄付したり、プレゼントしたり、投資で
 失くしたりする。」 
*「お金も血も、命にかかわるエネルギーの源である。流体である。
 生臭いものである。でも、輝いている。いきなり見せられるとドキリとする。
 プライベートでありながら、共有のものでもあるところが不思議な関係。」 
▼ 財布を拳銃に、そして刀に喩える切り口がよい。撃たれ、切られたとき、
 血が吹き出る。それからみて金はエネルギーと同じ。一万は一万の、一千万は
 一千万、一億は一億のエネルギーがある。無駄を廃し、使うべきときは使う、
 それが金の効用。
・・・・・・
4042, 世界の旅行記101 ー3
2012年04月19日(木)
   * 旅行記は、旅人により再構築された言説
≪ 旅行という行為や、そこでえられた環境や状況についての情報は、言説
 として再構成されている。おもいもかけない発見や探索、あるいはそれに
出会った旅人の心象や思考は、旅行記という形態に定着させられるときに、
一定の文スタイルやデザインを採用する。 文章のかたちをとるという点から
みれば、「文体」といいかえてもよい。見聞され体験された隔遠の地における
非日常の事実は、旅人の言語に変換され、日常の世界に発話される。著者と
読者とが共有する表現と読解のルールにもとづいて旅行記は書きおろされる
「言説」といったのはそうした意味においてである。 旅行記は、旅の事件記録
性を検証するよりもまえに、言説そのものの解読作業がほどこされねばならない。
旅程のすべてを記載できるわけではない。見聞された事象すべてが、偏りなく
叙述説うるわけでもない。しかも、だれにとってもひとしく共有される述法の
ルールにしたがって。 そうではなくて、旅行記は、旅人が旅先について投射
した特定の視線が、対象のうちに読みとった文脈にかんする言説である。 
使用される語彙もシンタックスも、そしていますこしふみこんでいうならば
価値感覚も、言説として独自の完結を実現している。別のいいかたをすれば、
中世ヨーロッパ人と近代アメリカ人、古代中国人と現代日本人は、それぞれに
採用する言説の方式はことなっている。いや、著作者の身分、出自、性別、教養
のちがいによって、同一物にいての言説は別個のものになりうる。 ≫
▼ 旅先の情報を言説として再構築したのを旅行記とすると、書き手の特定の
 視点こそ注目すべきである。それが旅行記の特性であり、面白さになる。
だから、この101の旅行記は、101人の特異体験を記した事件簿として垣間
見ると分かりやすい。それぞれのクロス・エンカウンター(因縁)が現れ出る
から面白い。人生の記録も、それぞれの特異点旅行記に酷似している。
 ・・・・・・・
3676, 自己を見つめる −3
2011年04月19日(火)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 「時間」は簡単のようで、難しい。心の中は、時空をこえた多くの思いで
満ちている。特に多くを経験した熟年期に差し掛かると、思いは過去に向かう。  
そこには現在の知覚と直感で彩られた抽象画としてたち現れてくる。
豊かな経験なら豊かに、逆なら逆として! 生きてきたとおり、人生は自分に、
その姿を突きつけてくる。  ー 第二章 時間 ーより
【(p45) 私たちの心は、アウグスティヌスが言ったように、たえず
 なんらかの出来事を記憶し、知覚し、期待するという働きを、本質的に
具有している。記憶は、過去の出来事に関わり、知覚は、現在の出来事に関係し、
期待は将来の出来事に向けられ、しかも、それら三つが別々にあるのではなく、
むしろ、私たちの心のなかに、それら三つのものがすべて取り集められる。
 したがって、「過去のものの現在が、記憶であり、現在のものの現在が、
直観であり、将来のものの現在が、期待である」とアウグスティヌスは言った。 
いわば心という大きな現在のなかに、過去の追憶と、現在の印象と、将来の
予期とが、すべて取り集められているわけである。たえず現存し続ける
その大きな心が、うしろを振り返って追憶に浸るときに、過去が浮かび上がり、
いま周囲を注意深く見回すときに、現在が印象深く迫ってき、行く末を思って
期待や予期に心を震わせるとき、将来が思い描かれるのである。 時間とは、
このように、振り返ったり、見回したり、行く末を思ったりする心の働き、
 すなわち記憶や追憶、知覚や直観、期待や予期といった心の作用に由来する
わけである。逆に言えば、大きく静かで揺らぐことない「立ち止まる今」と
いう現在の心の場、いわばそうした明鏡止水の心眼という現在の鏡のなかに、
さまざまな過去と現在と将来の出来事が映し出されてきて、それらが追憶され、
知覚され、予期されるとき、そこに、それらの出来事が、過ぎ去り、現れ、
到来する時間の諸相において意識されてくると言えるであろう。】
▼ 現在置かれている、この節目どきに、これまでの記憶と追憶と、現在立た
 たれている分岐点、そして、これから予期されること、その三つが、心の中で
濁流のように渦巻いている。この自分の中に、多くの節目があって、それが
現在という幅のある時間の中で自分という確かな存在が見えてくる。これは
晩年期に差し掛かった人間に共通しているが、心が、これほど激しいものと。
人は生きてきた、そのままに老いるとは、その意味である。 現在は、
その「立ち止まる今」である。 それでも時間は止まらない。
・・・・・・・
3311, 笑われ力  −3
2010年04月19日(月)
「 笑われ力 」 太田 敏正 (著) 石原 壮一郎 (監修)
  ー次に、なるほどと合点した箇所を抜粋し考えてみる!ー
*「笑われ上手」に「背伸び」禁物
 ・まずは「私は凡人」とみとめる。
 ・「みんなをリスペクト(敬う)する。
  そう思えば、自分の中の良い部分も見えてくる。
 ・笑ってもらえたら「笑ってくれてありがとう」という気持ちを
  持つこと。この一歩下がった気持ちが必要となる。
*「笑われ上手」の下ごしらえ、をつくっておく
 ・「ダメな自分物語」を多くつくっておく。出来るだけ短くまとめておく。
  失敗したその場でつくる。
 ・もったいぶらないで、いきなりクライマックスの話を話題に出す。
 ・キーワードを決めておく
 ・一度、物語を用意したら、あとは白紙の状態にしておく
▼ 20年前から10年前にかけて、かなり遊び人の不動産屋の社長と古町を、
 飲み歩いたことがあった。小料理屋や、スナックなどで、話術の巧さに驚き、
花柳の世界を垣間見た。芸者を相手の粋な遊びは今では夢のようである。
あれから10年も経ってしまった。彼には、ここに書いてあることは、ほぼ
身につけていた。決して他人の悪口や話題をしないのは、当たり前。
自分の昔話も成功談が一割、失敗談が九割。芸者に三味線を弾かせて
都都逸など一ひねりなど、粋な遊び方等など。話術も自分を嫌味なく下座に
おき笑わせておいて、実は笑わせている妙は場数のなせる技(業)こういう
時代になればこそ、「やれる時にやれる事をやっておいて、良かった」と実感!
(逆に遊び過ぎ?もあったか)「ダメな自分は、嫌な自分ではない」、これが
笑われ上手のポイントと著者がいう。 笑われ力は、自分の中のダメな部分や
矛盾を笑ってもらう力であり、相手のタイミングで「笑われネタを」提供する。
それが受けたからと言って、もっと笑わせてやろうとか背伸びするのは厳禁。 
あくまで相手と場のタイミングに合わせるのだ。
  その「笑われ力」のきほんステップとは
1、「ダメな自分」を見つける 2、「笑える部分」を特定する 
3、自分で笑い飛ばしてみる 4、笑顔で他人に話す     
5、その結果「心地良い笑い」が生まれる 
 落語の「まくら」では、名人の域に達した人ほど、上手い。
「駄目な私」のネタなら膨大な蓄積がある! ったく。カミサンに耳にたこが
出来るほど指摘されている。 大きな経営者大会で講演者が「女房は亭主をバカ
にする動物である」と言った時、会場が異常な爆笑があった。大きな会社の立場
の人ほど家ではバカにされているのだろう!良いように出来ている。
・・・・・・
2936,「NHKの世界同時不況の双方向解説」を見て
2009年04月19日(日)
 昨日の土曜日の午前10時に、NHKの「そこが知りたいー世界同時不況・危機
への対応は十分か?」は、9人の解説委員による、伯仲した議論と、その合間に
視聴者の意見や、世界の識者の論説を挟んだ、見ごたえのある内容だった。
 ーまずは、NHKのHPの紹介文から
 (以下、字数制限のためカット、2012年4月19日)
▼ 解説委員ということで、同質の意見が多かったという感は免れなかったが。
・100年に一度の経済危機なら、100年に一度の対策をたてるべきだが、
 それが感じ取れない。
・非常に深刻な事態である。大量に輸血しないと患者が死んでしまう
 という共通認識はある。
アメリカと中国のG2が、今後大きな役割を持つ。
 ロシアと中国をプラスしたG9も必要。
・視聴者からの質問で、「100年に一度の経済危機というが、世界恐慌
 いわない何故か?」に対して、「GDPの落ち込みは、1929年の世界恐慌
 同じだが、失業率は25パーセントに対し、10パーセントで収まりそう。 
 今回は世界の経済政策の協調があるところが前回とは違う。
 従がって、まだ世界恐慌に入ったと認識されてない」
 の答えであった。 実際は、10年〜20年後に振り返れば、
 今回の方が遥かに大きいはず。
アメリカを中心に世界経済を引っ張ってきたが、今後は、新興国に中心が
 移動するターニングポイントではないか。今後はアジア中心の経済モデルを
 作るべきである。
・ドルに替わる基軸通貨は10年20年単位では出てこない。
ー以上、印象に残った部分のメモをまとめてみたが、それほど大したことを
 言ってはいない。今回の恐慌の概要を知らしめ続けるには、良い内容だが、
 NHKの立場もあって、過激な現実を報道ができないこともあろう。
・・・・・・
2572, ドル覇権の崩壊 ー5
2008年04月19日(土)
「金や銀、プラチナを買って、手元に保有すれば良い」と、そこまで言わしめる
だけ、この危機は異常なのだろうか?実際のところ国家単位で自国民を騙すのだ
から、それも道理。 税務署を暴力団とは言いえて妙である。
税務調査を経験してから、そう信じていた。 調査の対象は、のっけから被疑者
扱いである。そこまで疑うなら、脱税をしない方がおかしいのではと実感した。 
何でしてないの?するのが当然で、その当然のことを我々は取り締まりに来たん
じゃないの?という態度である。サブプライム問題もバブルの典型で、これを
キッカケで世界恐慌の可能性をはらんでいる。実態は火の車で、いつ何が起きて
も不思議ではない状況。ドル安、アメリカ国債安、アメリカ株平均値安になると
儲かるファンドもあるという。買ってみたいが。
 *アメリカ住宅バブル崩壊世界恐慌の引き金を引く
  (以下、字数制限のためカット、2010年4月19日)

2015年の桜 -1

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d他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

 今日のYoutube

 今朝は、悠久山の桜を見てきた。今日は8分咲きで、ピークのようだ。
明日、明後日も行くつもりだが・・・ 天候も含めて今日は人出があるだろう。



2572, ドル覇権の崩壊 ー5
2008年04月19日(土)

「金や銀、プラチナを買って手元に保有すれば良い」と、そこまで言わしめるだけ、
この危機は異常なのだろうか? 実際のところ国家単位で自国民を騙すのだから、
それも道理。 税務署を暴力団とは言いえて妙である。税務調査を経験してから、
そう信じていた。 調査の対象は、のっけから被疑者扱いである。そこまで疑うなら、
脱税をしない方がおかしいのではと実感した。 何でしてないの?
するのが当然で、その当然のことを我々は取り締まりに来たんじゃないの?
という態度である。
 サブプライム問題もバブルの典型で、これをキッカケで世界恐慌の可能性を
はらんでいる。実態は火の車で、いつ何が起きても不思議ではない状況。
ドル安、アメリカ国債安、アメリカ株平均値安になると儲かるファンドも
あるという。 買ってみたいが。

 *アメリカ住宅バブル崩壊世界恐慌の引き金を引く  P-18
だから、金や銀、プラチナなどの貴金属を買って手元で保有すればいいのである。
銀行の貸金庫にも預けない方がいい。自分で安全確実な場所に隠すのがいい。
税務署の調査になど、やすやすと応じてはならない。彼らは国家強盗団である。
正義の法の執行者のふりをして、日本の資産家、投資家、経営者たちを痛めつける
国家の暴力団である。金銀プラチナは奇妙なことを言うようだが、鉱物資源である。
金属のかたまりである。鉱物資源でしかない。だから税務署・国税庁はそれをもって
金融資産と見なすことはできない。ここが味噌である。たとえば、自分で檜の材木を
300本買って、倉庫に寝かしておくことと同じことだ。 国税庁・税務署は
「買った売った」で利益(課税所得)が生まれた時にしか課税できない。
ここが味噌である。国家は金地金(ゴールド)を管理できない。ところが、
最近の国税庁、税務署は資産家(金持ち)たちに向かって、納税申告の際に、
「資産負債残高表」などという奇妙な書類を出せという。
日本は恐ろしい金融統制国家(預金封鎖の国)になりつつある。
  P-19
「円キャリートレード」などという恥知らずの取引ができたのは日本の円を
アメリカが"ゼロ金利"で自分たちのオモチャにしたからだ。「円はほぼゼロ
金利だから、超安価で借りて使える」と、このことにいち早く気づいて10年前
から儲かった人がたくさんいる。それはアメリカの金融資本家どもである。
彼らの仲間であるアメリカ政府(米国国務省)とFRBが日本政府と中央銀行(日銀)
を脅しあげて"ゼロ金利政策"などという奇妙きわまりない政策を強制して
10年間、日本を痛めつけてきたからである。ほとんどゼロ金利に等しい
低利の資金を、円市場(日本の銀行や生保)から借りて米国債を買えぱ、
黙っていても年率4~5%つく。例えば南アフリカのランド通貨、
ニュージーランドのドルで運用すれば、自動的に年率7~8%の利益が出る。 
この金融博打を放置してきた責任はG7(各国・中央銀行総裁会議)にある。
彼らが世界の通貨政策をおかしくしたのである。これに投資家筋が襲い
かかって自分たちの旨みをつくりだすのは当然のことだ。
もつと分かりやすくいえぱ,パチンコ屋のパチンコ台のチューリップが
最初から開いている台でパチンコをやるようなものである。
 ~~~
真剣に金でも買うことを考えなければならないのか?悲観を売りにしている
とはいえ、ことごとく当たっているだけでなく、それ以上の事態になってきた。

・・・・・・
2007年04月19日(木)
2207, 犯罪集団の存在を公認している日本
           オッ(*^○^*)ハ~ヨウ!
一昨夜の長崎の山口組による、現職市長へのテロ?には驚いた。
たまたまNHKを見ていたので、現場の生々しい事態が、そのまま
茶の間に入ってきた。これは明らかに国家に対する彼らの挑戦である。
(結果としても) それにしては、安部首相のコメントには驚いたというより、
怒りを感じた。地方統一選挙の最中に現職の市長が、みよがしに射殺された
のに、当たりさわりの無い一辺倒の言葉である。これでは、なめるわけである。
犯罪集団が公然と国家を相手に戦争を仕掛けてきたからには根絶しなければ、
国家は破滅する。闇は闇でしかない。光を当てればそれまででしかないはずだが、
現在の日本は別?。激烈な批判が噴出して当然で、それだけのことをしてしまった。
世界で、暴力団の存在を違法としていない国は日本だけである。
それも堂々と事務所を構えて、夜の繁華街がマフィアに占拠されている異常を
何とも思わない日本という国が果てして治安国家といえるのだろうか。
今回の事件は明らかに広域暴力団による地域公共事業工事からの締め出しへの
‘見せしめ’と捉えてよい。
 地方選挙の真っ只中に、現職市長を公衆の面前で射殺するなど言語道断である。
それも二代続けての長崎市長へのテロ。司法、立法そして立法は何をやってきた
のだろうか。今度の対応次第によっては、裏世界が国家利権のシンジケートを
確立する可能性が出てくる。いや、あったのが崩壊した結果なのか?。
法整備を根底から変える絶好のチャンスである。広域暴力団の存在そのものを
法律で否定しない限り、彼らの地域公共事業での利権、汚職の強要は無くならない。
              ε(´',_c')зβyё☆βyё
・・・・・・・・
2006年04月19日(水)
1842, ローマから日本が見える-3
                おっ \(*^▽^*)/ はぁー

ー第一章 なぜ今、「古代ローマ」なのかー  
 *この章の印象的なところから抜粋してみる・・
  「歴史とは人間である」

私にとって歴史とは、人間がこれまで経験してきた全てが入っている。
キリスト教は千年の間、ヨーロッパ人の精神を支配してきた。
だが、それにもかかわらず、ヨーロッパ人の人間性が向上したとも思われない。
これは結局、人間の存在自体がもともと、宗教によって変えようがないほど
「悪」に対して抵抗力がないのではないか。

そうした人間世界を変えていこうとするなら、こういう人間性の現実を
冷徹に直視する必要がある。なぜなら古代ギリシャやローマの人々は
キリスト教のない時代に生きた人々であった。・・・・

キリスト教は本来は人間をさらに向上させたはずだ。
それが、そうならなかったのは神と信者の間に、聖教者というフィルターが
介在したと考えられる。彼らの存在はかえってキリスト教の教えを損ねている
だけでなく、神と信者のつながりを邪魔をしているとルネサンスのルター
は考えた。{私見ー現在の日本の葬式屋僧侶にもいえる}

「水平思考と垂直思考」    
現在の日本を考える時、改革の遅れに破滅への危機を感じる。
どうすれば良いのか?それには、一つには、日本以外の国はどの様に
しているのか?
(水平思考)
他には、垂直方向のリサーチー歴史を振り返ることです。
西欧的な考えが崩壊している現在、ローマ人の生き方は宗教や
イデオロギーとは無関係だっただけに参考になる!と・・・
「試行錯誤がローマを作った」
当初は小さな都市国家でしかなかったローマがイタリア半島に勢力を
伸ばし、ついにはポエニ戦役に勝って大国のカルタゴを下し、地中海を
「我らが海」と呼ぶまでの勢力になる。あたかも幸運の女神に導かれて、
すくすく発展したようだが、実際は正反対であった。
ローマ人の強さは失敗しても、必ず次の成功につなげようとする
メンタリティがある。彼らは敗因が自分たち自身にあったことを直視する。
反省するだけでなく、それを、国論分裂という活力のロスを避ける
ことを目的とした、政治改革という形に結びつけるのです。
こうして完成したのが、帝政に移行するまでのローマの政体
として有名なローマ独特の「共和制」であった。
               まあ茶でも! ~~旦_(。-_-。)
「一級品の男たち」
 「役に立つ」ことだけが歴史のとりえではありません。
ましてや、ローマの全史ときたら、素晴らしい男たちが次々と現れてくる
波乱万丈の物語です。ドイツの歴史家モムンゼンをして「ローマが産んだ
唯一の創造的天才」と言わしめたユリウス・カエサルはもちろん筆頭
ですが、カエサルだけがローマ史ではありません。
・ポエニ戦役の天才のハンニバルを破ったスキピオ・アフリカヌス。
・ポエニ戦役以後の「混迷の時代」の登場したスッラ。
カエサル暗殺後、初代ローマ皇帝になるアウグストゥス。・・・
この他にもユニークな人物、型破りな人間、あるいは仕事はできないが、
愛すべき人間達が無数に登場する。 歴史とは、やはり人間が作るもの。
だから面白い。    - つづく  。.@(-ェ-)@ノ~~~バイ~
・・・・・・・
2005年04月19日(火)  1477, 男はつらいよ

ある保険会社のアンケートによると、
・また生まれてきて再び
 同じ亭主と再婚したいと思っている女性が20?に対して、
 同じ女房と再婚したいと思っている男は75?
(40?と60?の調査結果もあるが)
 女は更に、結婚は嫌だから一人で暮らしたいが5?もいる
・60代夫婦で、夫が妻を看取るのが15?、 妻が夫を看取るのが85?。
 看取ったあとの男の余生は5年、逆に夫を看取った妻の余生は22年。
 
私の親戚を見ていると、この数字に納得がいく。
女は逞しいものであるし、夫につくづく愛想をつかしているのがわかる。
定年をむかえると妻は外に遊びに出て、夫が家にいて妻の管理をする
逆転現象がおこってしまうという。

しかし、もう亡くなった姉から聞いた話。コーラスの先生をしていて、
コンセプトごとにグループ化をしていた。その中に未亡人の会があったが、
「やはり夫に死なれた女性は強がりを言っているが、実際は片羽を失った鳥」
という。しかし、妻に先立たれた夫の方が更に惨めであるが。

60歳過ぎると、甘いものでないことは事実のようだ。
夫婦がいがみ合っても、お互いが生きているうちが花。女性の場合、
横社会に生きている割合が多いので、すぐに群れることができる。
しかし男は、いまさら横社会といっても難しいようだ。

人生は甘いものではないのは老後も同じ。ライフワークをチャンと
創っておかなくては!おかあちゃんの奴隷になってしまう。最後は、
老後も含めて生きてきてよかったといえる人生を終えることか。

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2004年04月19日(月)
1112, 「ライフ・レッスン」-4
       ー人間関係のレッスン
ー感想文ー
人間関係ほど難しく、かつ人生勉強になるものはない。それも対立して
いる相手や、悩ましてくれる相手ほど自分の姿の合わせ鏡になる。
その軋轢の中に真の自己が表れてくる。また私たちが無意識の中に求めて
いるロマンチックな関係の相手こそ、ありもしない自己逃避の空想の相手である。
そして勝手にイメージとして作りあげ、対象に求めていくから幻滅が生じる。
解りやすい例としては、成田離婚がある。

そのイメージこそ自分を不幸にする「バカの壁」になる。
しかし人間はイメージの中でしか生きられない側面もある。
「ブランド」は、その一番リアルなイメージ商品といってよい。
お互い自分自身というブランドをつくりあげ、そのイメージに縛られてしまう。
真実の自己に気づくのに一生かかってしまう。人間関係のレッスンこそ、
そのイメージを剥ぐ目的になる。

ー抜粋ー
・人間関係は人生のレッスンを学ぶ最高の機会をあたえてくれるものである。
自分はほんとうはどんな人間なのか、何を恐れているのか、自分の力は
どこから生まれるのだろうか、真の愛とはどんなものなのか、人間関係は
それを発見ための場である。人間関係は多くの場合、なかなか上手くは
いかない、時にはひどく辛い経験だからだ。だからこそ、学び、成長し、
愛し、愛されるための最高の機会にすることができる。
・全体性や完全性は自己の内部から生まれるものでなければならない。
誰か特別の人を見つけることは、親密な人間関係にかかわる問題の解決に
ならない。独身で不幸な人は結婚しても不幸なのだ。専門職につけない人は、
とくべつな人をみつけても、パートナーのいる専門職のない人しかなれない。
他の人にもとめることをやめて、自己を完成させることなかにある。
だれか愛する人をみつけようするのではなく、自分自身を愛されるに
値する人間につくりあげていくべき。
・あなたは、ただあなたであるというだけで、だれかとくべつな人なのだ
ということを、けっして忘れないでほしい。仕事で成功していようがいまいが、
完璧な相手と結婚していようと独身であろうと、あなたはこの世界にとって、
唯一無二の尊い贈り物なのだ。あなたはすでに一個の全体であり、
外から何かがやってくるのを待つ必要がないのである。人生にロマンを
もとめたいなら、あなたの人生そのものと恋におちればよいのだ。

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2003年04月19日(土)
745, 散る桜、残る桜も散る桜

「散る桜、残る桜は散る桜」は人間の死を一言でいっている。
他人の死も、すぐに自分の死になる人生の無常を喩えている。
この季節の桜の花を見ていると、ものの哀れをつくづく感じる。
桜は生臭い死の臭いがする。人生の縮図を桜の花に感じるのは歳のせいか?

 今年の桜は[あたり年ではなかった?]が、例年並だった。
2~3日前が近所の桜の福島江の桜が満開だった。「悠久山の桜」は
今日あたりが満開だろう。悠久山の桜も絶品だ!5~6年に一回は
あたり年になるが、雪などの季節の要素が微妙に関係してくる。
 桜は毎年思うことだが、自分の生死を考えさせられる。
以前、桜の精の女に迷って死んでいく侍の映画をみた事を思い出した。
ゾクッとする日本的エロチックの内容であった。

 また7~8年前に近くの従兄が桜とともに自殺をした。
多くの写真を撮り残して。 新潟は桜とともに春が来るという感覚である。

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2002年04月19日(金)  381,システム販売

「IBMが物流コストを一~二割カットできるシステムを提案、
初年度のカット部分の半額をシステム料として貰う。診断料は無料」
という提案の講習会に出てきたと、あるメーカの専務が言っていた。

システム販売そのものである。物流システムの販売をIBMが始めた
のに時代の変化を感じた。IBMの世界から集めたノウハウなら一~二割の
コストカットは難しい問題でない。

私もフランチャイズを2回経験してシステム力には納得している。
息子が去年宅建の試験を受ける為に日建学院に通った。
授業は衛星で送られてくる画面と聞いた。
「もし日建に通ってなかったら試験は受かってなかった」と本人が
言っていた。全国数百箇所の教室で、いっせいに聞くのだから合理的だ。

もし落ちても来年は、無料で通えるとか。なるほどと納得した。
これもそのシステムを売っているのだ。
イトーヨーカ堂もシステム70?商品30?という考え方を柱にしていた。
システムを主体に売っているということだ。
もの主体から、こと主体の時代の変化である。